67・釜 繋縛からの解放 V


 次の日の朝方、巡回していた看護師が、慌しく病室を出てきた。
「目を覚まされました」
 とだけ言い残し、その看護師はナースステーションに駆け込んだ。
 父さんが目を覚ました。
 母さんと姉さんは真っ先に部屋に飛び込んでいったが、嬉しいはずなのに僕は足が動かず、立ち上がったところで一歩が踏み出せなかった。
 それに気付いた祐紀と兄さんが、僕の背中を押した――。

 視線は廊下。足元ばかり見ている。
 ゆっくり、ゆっくりと一歩を踏み出す。
 廊下と病室の境界をまたいでも僕は目を伏せたまま、上げることはできなかった。
 ――母さんと姉さんが歓喜し、何度も何度も父を呼ぶ声。
 そして足は歩みを止め、耐え切れなくなった僕は、固く瞳を閉じ、僕に投げかけられる言葉を恐れ、奥歯を噛み締めた。

「これは……夢なのか?」

 弱々しい声。とてもあの父のものとは思えない程だった。だけど間違いなくそれは父さんの声だ。
 それこそ、父の言うとおり、夢であればいいと思った。

「なぜ、そこに直紀が居るのだ?」

 胸がズキリと痛んだ。やはり、僕はここに居てはならないのか……。
 更に固く目を閉じ、手は拳を握った。
「お父さん、まだ起きちゃダメよ」
「私は大丈夫だ!」

 先程より強い口調だったので、反射的に僕は身をすくめた。
 まぶたが視界を遮断しているから物音だけに意識を集中させている。――微かにシーツが擦れる音。それが止むと室内はシンと静まり返った。
 自分の心臓の音がいつもより激しく、それだけが聞こえるように感じていた。
「直紀は……あんな姿ではなかったはずだ。これは、私の想いが幻覚で見せているだけなのか? 私の知っている直紀は、もっと頼りない子で……私を失望させる姿をしていた……」
 父の声には驚きが混じっている。
 僕は幻ではない。実際にここに居るんだ。それを分かって欲しいとは思っても、
「ぼ……僕は……」
 息が詰まってはっきりとした声にならない。何を言えばいいのか分からない。
「父さん、直紀は帰ってきたんですよ。貴方のもとへ」
「直紀……」

 兄さんに背中を押され、止めた足を再び前に出す。目は閉じたまま。
 そして――ゆっくりと目を開け、顔を上げた。
 父さんの顔を見て、その言葉は自然と紡がれた。

「父さん……今まで迷惑ばかりかけてごめんね……」

 父は無言で軽く頭を横に振る。
「しばらく見ないうちに、すっかりたくましくなったな、直紀」
「……そう……かな?」
「身長も少し伸びたか?」
「うん……少しだけ」
「大学は楽しいか?」
「楽しいよ」
「友達は居るか?」
「居るよ。毎日が……楽しかったよ……」

 何か、こみ上げてくるものを感じ、声が詰まりだした。
「楽しいのに、心のどこかが寂しかった……。ずっと、ずっと……」
 目の奥が熱くなり、それを殺すように顔を伏せ、目を閉じ、歯を食いしばった。
 そっと僕の頭を撫でる大きな手に、その感情は決壊した。

 まるで子供が、不安で親にすがりついて泣きじゃくるように――思っていたよりも薄い父の胸で僕は大声を張り上げて泣いていた。
 そんな僕の背中や頭をやさしく撫でる父さんの手が、初めてなのにとても心地良くて……何もかもを溶かし、流していく。

 子供の時でさえも、こんなに話したことはなかった。
 撫でられるなんて一度もない。
 家族の前で、本気で泣いた事もない。

 それから父さんと話していて気付いたんだ。
 あの頃はまだ僕が子供だったから、父さんのやり方が許せなくて、反発してたんだってこと。
 今思えば……やっぱり行き過ぎな気はするけど、僕を思っていたからこそ。大人になったからそう思えるようになったのかな……。

「大学を卒業したら、戻ってくるのか?」
「……いや、多分戻らないと思う」
「……そうか。就きたい職業はあるのか?」
「うん、レスキュー隊員になりたいんだ。だから、まず消防士にならなきゃ」
「お前は、私が思っていたよりも、随分先を見ているのだな」

 その言葉を理解するのに、少し時間が掛かった。
 いつまでも子供ではなく、いつの間にか大人になっていた、ということだと僕は解釈した。
 ……あ。
 ふと、カゴに山盛りの果物が目に入る。
 いつぞやの『洋ナシ事件』を思い出しながらも、父さんは倒れてから何も口にしていないことに気付く。
「果物、何か食べる?」
「ああ、そうだな。喋りすぎで喉が渇いたし、朝食までにはまだ時間がある」

 ベッドの横にある棚の引き出しを適当に開けてみたが、中身はからっぽでナイフらしきものがない。皿もなければフォークもない。
 時間的に、売店が空いている時間でもないし……そういえば、近くにコンビニがあったよな。
「ちょっと待ってて。ナイフとか、飲み物とか買ってくるから」
 そう言って軽快な足取りで病室から飛び出した。
 そのままエレベーターホールへ向かう僕に、待合室から誰かに声を掛けられた。
「直紀、どこ行くの?」
 母さんの声だ。立ち止まらず、くるりと体の向きを変え、
「ナイフ買いに――」
 とだけ言って進行方向に体を戻す……が!
「まてぇ、早まるなぁ!!!」
 という兄の声が聞こえ――思いっきり腰に飛びつき、みごとに倒された。
「な、何だよちょっと! 離れてよ!!」
「ダメだ、離さない! いくら何でも刺し殺すことはないだろ!」
「誰が、誰を殺すの?」
「……は?」

 僕の言い方が悪かったことは認めよう。しかし、突拍子もない勘違いだよ、兄さん。
「部屋にあったお見舞いの品、あの果物を食べるのに、必要なだけだから!」
「そ、そうか……スマン」

 ようやく開放され、パタパタと服を払いながら立ち上がり、兄さんの方を向いた。
「僕はもう、大丈夫だから……父さんも」
 自然と笑みがこぼれた。
 今向いている兄さんの後ろに待合室。皆の表情もかなり和らいでいる……けど、そういえば皆、いつ病室から出たんだろ? 父さんと話すのに夢中で全然気付かなかった。
 ……そうだ。祐紀を紹介しなきゃ。
 でも、どうやって……。
 いや、とりあえず、買うものを買ってから、行く途中でも帰りでもいいから、そこで考えよう。

 しかし……そのことを考えすぎて、帰ってきた頃には体がガチガチで怪しげな動きをしているだろう。
 紹介する前から、僕が緊張してどうする!
 とりあえず、祐紀は呼ばずに病室に入った。
 呼ばずに、というより呼べる状況ではなかった。
 だって……待合室のソファーで横になって寝てたから……。また後ということで。こっちもまだ心の準備ができてないし。

 買ってきた物を袋から取り出し、飲み物は父に手渡す。ナイフなどもパッケージから出し、一通り水で流した。この状況であっても、皿は紙製だから洗ってないよ。
 果物の一つ、定番のリンゴを手に取りナイフを構えると、
「おい、大丈夫か?」
 と心配のご様子。
「大丈夫だよ。こう見えても料理は得意だから」
 リンゴを回しながら皮を剥く。できるだけ一本にしてやろうと妙に熱中する僕。
「先程から気になっていたのだが……」
「うん、何? 気になってることは溜め込まないでハッキリ言おうよ。僕もそうするから……」

 リンゴから視線を外さず、手元に集中してそう言った。
「その指輪は何だ?」
 手を止めたのと同時に、剥いた一本の皮が途中で切れ、足元にセットしておいたゴミ箱の中に落ちた。
 ……いや、どう切り出そうか困ってたから丁度よかったと言えばちょうどいい。
「……結婚を考えている人が居るんだ……。彼女が居なかったら、僕は今、ここには居なかっただろうし、男に戻ろうなんて思わなかったかもしれない……今は寝てるみたいだから、後で紹介するよ」
 僕は恥ずかしくて顔が上げられず、そのままリンゴを剥きはじめた。
 自分の親に紹介するのに、祐紀のお父さんと話すぐらい緊張してどうする!
「そうか。向こうの大学に行った事が、直紀にはプラスになったのだな。……追い出しておきながらこんな事を言うのは変だな」
 そう言って父さんは鼻で笑った。
「ううん、そうでもしてくれなかったら、きっと……ずっと父さんを誤解したままだったかもしれない。だから、これでよかったと思う」

 いくら二十歳を過ぎたとは言っても、大人なんだと思っても、家族というものがどれだけ大切なのか、心の支えになるのか、やっと分かったんだ。
 いつも家に居ない父さん、倒れたという報告で皆が不安になり、あの姉さんでさえ取り乱した。
 当たり前のことなのに、それだけ、生きていく上で大切な存在であることを――。

 リンゴを並べた皿とフォークを父さんに渡す。
 それを食べ、
「リンゴって、こんなにおいしかったかな?」
 と言いながら、フォークに刺したリンゴを僕にも差し出してくる。
 どうすべきか、ちょっと考えた後そのままかぶりつき、どんな味なのか確かめてみる……。
 ……何かが違う。リンゴの味は普通だけど別の何かが混じってる?
 うまく言えないけど――心の奥に染み渡るような、温かくなるような……そんな感じ。
「うん……おいしいね」
 どう言っていいのか分からないから、笑顔でそう言った。
「ああ、そうか。直紀が帰ってきて、直紀が剥いてくれたリンゴだからかな……」
 気になっていることは溜め込むな、とは言ったけど、正直にそんな事を言われると、さすがに照れる。
 ええっと、何を話そうか……。


「仕事……父さんはどうするつもりなの?」
 家に戻ってのんびりと生活するぐらいなら問題はない。僕のことで心を病んでいたのなら、それは取り除かれたはず。だけど、その体でまだ続けるというのは無理だと思う。
「……もう、無理だろうな……。お前が帰ってきたから、張れるような意地がない」
 本当に、意地であんな仕事してたのか。
「首相も、国会議員も退任の時期だろう。今までゆっくりできなかった分、家でのんびりとするさ。たまに旅行に行ってみたりして……」
「うん、それがいいね」

 退任を無理に勧めずに済んだ。
 あの家に、やっと父さんが帰ってくるんだね……。皆の望みどおりに――。


 それから朝食もちゃんと取り、回診を受けたが、もう少し休養が必要だということで、父さんはしばらく入院生活をすることになる。

 そして――
 待合室。全員が全員、飽きた表情を浮かべ始めていた。祐紀も起きている。
「ちょっと直紀、お父様を独り占めしすぎですわ!」
「まぁまぁ、優奈。いいじゃないか……」
「よくありません!! わたくしも話したいことがたくさんありますのに!」

 腕を組み、脚を組み直す姉さん。
「ごめん、もうちょっとだけ話があるから……。祐紀、一緒に来てくれる?」
「はひ?!! あたし?」

 一人称、変わってるよ。
 祐紀はソファーから立ち上がると、右足と右手が同時に前に出した。
 あ、緊張してる。
 カックンカックン、と怪しげな動きをしながら僕の方に来る。表情も硬い。
 見るに見兼ねてその手を引き、病室に入った。

「父さん、この人だよ。僕の彼女、まな――」
「真部祐紀です。こんにちは」

 僕が紹介してるのに、自分で自己紹介しちゃったよ。しかも視線は天井だ。いや、それよりもっと上を見ているのかもしれない。
「はっはっは。ずいぶん元気なお嬢さんだ」
 笑ってるし。
「直紀が世話になっているようだな。これからもよろしくたのむよ」
「あ、はい。こちらこそ……」

 と深々と頭を下げる祐紀。顔を上げると、父さんが再び口を開く。
「直紀を……連れて来てくれてありがとう。この子と……いや、皆かな。仕事を忘れてこんなにも話したのは初めてだ」
 と、僕に視線を移す。
「そうだね……家に帰ってきても、仕事のことを頭の片隅に置いているからかな? 表情硬くて怖いんだよね」
「確かにそうだが、そんなに怖いか?」
「うん、閻魔大王にも匹敵すると思うよ」
「そ、そこまで言うか?」
「うん、言ってやる」
「舌までは引き抜いたりせんぞ」
「されてたまるか」

 自然と頬が緩み、笑顔がこぼれた。

「さて、そろそろ話し相手交代しなきゃ……」
「ん? もう帰るのか?」

 父さんは少し寂しそうな表情を浮かべた。
「違うよ。姉さんたちが待つのに飽きたような顔をしてたから。それと、僕はしばらくこっちに居るから。学校休みだし」
「だったら、川瀬くん……私の秘書も呼ぶよう母さんに言ってくれ」
「秘書?」
「辞めるならさっさと辞めねば他の者に迷惑が掛かるからな」

 本当に……辞めちゃうんだ。まぁ、続けられる状態じゃないし……。
「うん、分かった。伝えとく。また後で来るね」
「ああ」

 僕らが病室から出て待合室に行くと、姉さんがブツブツと愚痴をたれていたが、それを誰かが相手になって聞いているわけではない。一人で文句を言っている。
「お待たせしました。もういいよ」
 と言うと、姉は目にも止まらぬ速さで父の病室に駆け込んだ。
 それを見ていた全員が口を半端に開いてポカンとしていた。
「母さん、秘書の人、呼んでって」
「秘書?」
「……もう、辞めて家に戻るってさ」
「……そう……」

 母さんは少し嬉しそうな顔をした。


 僕たちは、しばらくこちらに滞在ということで買い物に出掛けた。
 僕が独断でそれを決めたから、祐紀が嫌がるのではないかと思っていたけど、何だか気持ち悪いぐらいニコニコとしていた。
「よかったね、直」
 それは何に対して? 父さんが元気になったから? 家に帰れるから?
 どれにしても、いい結果になったことは確かだ。
「うん」
「直、ものすごくいい顔してるよ。曇りが取れたって感じ。お父さんもテレビで見るより俄然いい顔してたし。」

 僕も、父さんのあの表情、あれだけ楽しそうに喋るのは初めて見た。あの瞬間だけでも、子供の頃に憧れていた親子関係だった。

 時期的なものもあり、街は人で溢れていた。
 昼食には早い時間に朝食を兼ねて軽く食事をし、街中をブラブラとしていた。
 通りかかった電器店前に並んでいるテレビは、どれも総理辞任のニュースを流していた。

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