66・釜 繋縛からの解放 U


 ふと、目を開けると、まだ外は明るかった。
 目だけ動かして時計を探したが、元々この部屋には時計らしいものなんてない。
 時間を気にせずに勉強に励むため、邪魔になりそうなそれは置いていなかった。
 ポケットを探ると携帯が手に当たり、取り出して時間を確認すると――午後一時を過ぎたところだった。
 よくもあの状況で携帯だけは持ってきたものだ。
 どうやって都内の病院に行ったのかもよく覚えていないだけに、今更ながら思う。

 ――父さんは目を覚ましただろうか?

 そんな疑問が過ぎる。
 電話があったらすぐにでも起こして知らせてくれとは言ってあるものの、それがなく、自然と目を覚ましただけ。
 まだ意識が回復しないということだろう。

 すっかり冷静に物事を考えられる状態に戻っている。
 ちゃんと、父に……父さんに言いたい事を言えるだろうか?
 目を伏せてそんなことを考えてしまう。
 容易に色んな場面を想像できる。その中の僕は強気な発言がいくらでもできているのに、実際はきっと……思っている事なんて何も言えないんだ。
 こんなことを言ったら、相手を傷つけるんじゃないか、とか。
 言いすぎだとか、言葉がキツいんじゃないか、とか……。
 そこまで言ってもいい相手と、ダメな相手もちゃんと見分けて、僕は会話してきたつもりだ。
 祐紀はちゃんと分かってくれるから、言いたい事を言える、唯一の相手。
 父さんはどうだろう?
 今の状況から、あまりキツいことは言えない気がする。
 でも、自分の気持ちは、はっきりと伝えたい。
 ならばどうすべきなのか。
 目を閉じて考えようとしても、すぐに意識を手放しそうな状態なだけに、まともに考えられなかった。
 ――もう少し眠って、病院に戻って、父さんが目を覚まして、相手の出方を見てからでもいいか……。
 今にも途切れそうな意識の中、そう決め、再び眠りについた――。




 次に目を開けると、隣に祐紀の姿はなかった。
 壁側を向いて寝ていただけに、壁しか視界に入らない。
 反対方向を確認しようと寝返りを打った瞬間、体をあずけていたものがなくなり、重力の関係で下の床に落ちた。みごとに顔面から。
 ……狭い、シングルは狭い!
 うっかりいつも通りにしてしまうと、みごとに落ちる仕様だったのですね……。
「ちょっと直、大丈夫?」
 上の方から心配する祐紀の声。
 僕はまだ、床に落下したままの状態で、
「う〜」
 と中途半端な返事を返した。


 それから出掛ける支度を始め――と言うほどのことでもないけど――下に降りてリビングに顔を出す。
 いつもここにいる坂見さんの姿が見えないので、声を掛けてみる。
「坂見さーん」
 奥のキッチンから返事が返ってきて、小走りでこちらにやってきた。
「ごゆっくりお休みになられましたか?」
「はい、おかげさまで……。あの、電話はなかったですか?」
「ええ、誰からもありませんでした」

 ――そうか。だったらあのままってことか……。いいような、悪いような、複雑な気持ちだ。
「もう、お戻りになられるのですか?」
 後ろの祐紀が鞄を下げているのに気付いたからだろうか、坂見さんはそう言った。
「はい、母さんたちにも休んでもらわないと……」
 ふと時計を見ると午後三時前。随分ゆっくりしてしまった。
「それなら、皆さんにお弁当を持って行っていただけますか?」
 と言いながら奥のキッチンへ行き、大きめのバスケットを持って戻ってきた。
「はい。了解しました」
「それから……バスと電車の時間も調べておきましたから」

 バスケットを受け取る際にメモ帳も手渡された。
「ありがとうございます。助かります」

 外の門まで見送りをしてくれた坂見さんは、別れ際にこう言った。
「また、戻って来られますよね?」
 それに対し僕は、
「ちゃんと帰ってきますよ」
 と、笑顔で言えるようになっていた。

 バスの時間も丁度いい。家の近くにある停留所に行くと、見たことのある近所のおじいちゃんが居た。
 挨拶をする前におじいちゃんの方がこちらに気付き、カッと目を見開いた。
「直紀ちゃん、直紀ちゃんじゃねーか?」
 おじいちゃん、おひさしぶ――。
「何年ぶりかね? 随分たくましくなっちまってよー」
 ごめんね、そっちは祐紀であって、僕じゃないんだよ。祐紀は何がなにやらさっぱりな感じで、僕とおじいちゃんを交互に見るだけ。
「おじいちゃん、違うよ。僕が直紀。こっちは僕の彼女」
「おお、直紀ちゃんだ、間違いない。ちっとも変わってねーなぁ……」

 変わってないのかよ。
「大変なことになっちまったなぁ」
「……そうですね……」

 全国ニュースで流れたんだから、誰でも知ってるか。この件は。
 それから、どんな状態なのか、とか色々聞かれた。バスが来ても、バスの車内でも、似たような事を何度も何度も、終着の駅までずっと……。
 歳を取るとリピート回数が増えていけないなぁ。

 快速列車に乗って、一路東京へ――。


 病院に到着した頃にはいい時間になっていた。
 相変わらず、病院前に構える各放送局の報道陣。祐紀は不安そうに裏から入った方がいいんじゃないかと言ったが、いかにも普通のお見舞いのごとく、正面入り口から堂々と入ってやったけど。
 何より、意外と? シロートな息子はバレないようだ。
 エレベーターで病室の階まで上がり、待合室に向かう。
 すでに疲れてぐったりな様子の二人……いや、三人か。姉さんはどこにいったのだろう?
「すみません、のんびりしすぎました……」
 三人に向かって声を掛けた。
 まずは兄さんに頼まれたものを芹香さんに渡し、坂見さんに頼まれたお弁当を母に差し出した。
「坂見さんからです。喉を通らないかもしれないけど、何か食べた方がいいからって……」
 やはり、どれだけ見回しても姉の姿だけはない。
「姉さんは?」
 ……やっぱり、もう僕の顔なんて見たくないのかな?
「疲れたみたいで、今は病室のソファーで横になってるわ」
「そういう母さんは大丈夫なの?」

 どんなに普通に装っているつもりでも、朝よりも疲れた表情なのは明らかだ。
「芹香さんもです。姉さんも一緒に、少し休んできてください。僕が見ておきますから。それに、兄さんももうすぐ来るって言ってたし……」
 母さんは弱々しく首を横に振った。
「母さん、ここで母さんまで倒れたらどうしようもないでしょ? 少しでもいいから、ちゃんと食べて、休んでよ」
「お義母さん、私からもお願いします。本当に、少しでもいいですから休んでください。私も残りますから……」

 と芹香さん。じっとしていない子供を抱えて、自分も疲れているはずなのに……。
「お母さんが倒れたら、また皆の心配事が増えます。私からもお願いします」
 そして祐紀も……。
 母はしぶしぶ、といった感じで重い腰を上げた。
「だったら、少し公邸で休んできます」
 と言って一度病室に向かい、姉さんを起こして連れてきた。
 休んでいたわりには冴えない表情の姉。僕と目が合うとすぐに逸らされた。
「……ごめんね、直紀。悪いのは直紀だけじゃないのにね。わたしたちが直紀を助けてあげられなかったのも原因なのよね……」
 ――いや、僕が悪いんだ。僕が自分勝手で、家族のことを何も考えてなかったから……。
 そう思っても、喉の奥まで出かかった言葉は声に出せなかった。
「いいよ、別に気にしてないから」
 出なかった言葉の代わりに、姉を安心させられるセリフを選んでみた。
 が、イマイチ不満そうな表情を浮かべたが、母に連れられて待合室を後にした。

「芹香さん、子供の面倒は僕たちが見ますから、休んでください」
「うん、ありがとう。助かる」

 腕から北都を下ろすと……待ってました! と言わんばかりにヨロヨロと歩き出した。
 北都率いる病棟探検隊の発足だ。
 たまにバランスを崩して前に倒れるのではないかと思う場面もアリ。しかしうまく尻餅ついて回避。その度にこちらを見上げてニヤッと笑ってくる。そして、キャーっと奇声を発して立ち上がる。
 ここ、一応病院だから、静かにお願いします、隊長。
 祐紀は何度もカワイイを連呼してるけど。
 何度もナースステーションに入りそうになり、仕舞いにはドアを閉められたし。
 歩かせていたら疲れて眠るだろうという計画だったのだが、なかなかそういう訳にもいかなかった。
 疲れて座り込んだと思えばこちらに両手を伸ばしてくる。抱っこしろと言うのだろうか。
 今度は抱っこしたまま病棟をうろうろ。
 一体、何往復したのだろうか……。
 こっちも疲れてきて、もうお役ご免――という頃に、兄さんがやってきた。

「何してるんだ、二人とも……」
「子守です」
「もう、腕の筋肉が悲鳴上げてるよー。兄さん、パス」

 僕は兄さんに北都を渡してからソファーに座ると、腕の筋肉を揉みほぐしはじめた。
 これは後日、筋肉痛になる痛みだ。
 しばらく兄さんが北都の遊び相手になっていたが、間もなくして眠ってしまった……。

 午後八時、母さんと姉さんが少しは顔色をよくして戻ってきた。
 全員が揃ったということで、坂見さんのお弁当を食し――そして、また長い夜を病院で過ごした。

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