65・釜 繋縛からの解放 T


 父にとって、僕は出来損ないのいらない子だったんじゃないかって思っていた。
 僕の事なんか微塵も気にせずに、国会で熱弁を振るっているとばかり思っていた。

 確かに、あんなやり方の父を、僕は嫌っていた。大嫌いだった。
 父の意見に対し、反論しない家族も、心から愛していなかったかもしれない。

 なのに、心がもやもやとして、いつも気になっていた。
 自分がしてしまった事を恥じ、後悔した。

 そんな気持ちは、父の日記と僕がかつて使っていた携帯で、痞えは取れてしまった。
 ――僕が一人でひねてただけだ……。
 しかし、自分がしてしまったことに対しては、余計に悔いることとなった。




 過労と心労でこんなことになったのではないかと、医師の口から漏れた。

 父は、これ以上『内閣総理大臣』でいることはできないだろう。
 改造改革案を消費できないまま、そのポストを降りることになりそうだ。
 それは父の意思ではない。
 しかし、今がこんな状態なので、そうするしかないだろう。
 普通の会社に勤めていれば、とうに定年退職し、年金生活をしている歳だ。
 できることならば、国会議員を辞職することを皆で父に勧め、心身ともにゆっくり休養させようと決めたんだ。
 僕が家に戻るという条件も付いて……。




 ――父、入院から一夜が明けた。
 今まで、こんなにも夜が長いと思ったことがあっただろうか。
 病棟待合室が徐々に明るくなりだす。
 隣で僕に寄り添うようにして祐紀は眠っている。
 僕は日記帳と携帯を抱きしめたまま、ナースステーションと病室を行き来する看護師を幾度となく見送った。
 父の容態は未だ変わらず――。
 母さんと姉さんが何度となく溜め息を漏らしていた。
 忙しく病院と公邸を行き来する父さんの秘書。
 テレビで見たり、名前を聞いたことある程度の議員が何名か様子を見に来たり……。
 こんな時でさえも、ウチの家族は落ち着くヒマも、心休まるヒマも与えられない。
 外は報道陣でいっぱいかもしれない――。

 僕が家に戻るということは、どの範囲までのことなんだろう。
 たまに家に帰れという程度?
 それとも、今の学校を辞めてまで実家に戻り、地元大学に入り直すのが条件?
 だったら、祐紀はどうなるの?
 僕と祐紀の約束はどうなるの?
 ここまでしてくれた彼女を、簡単に諦めたりできない。
 また、親の言いなりになるの?
 そんなこと、したくない。
 そうなるというのなら、僕は……

 はっきりと自分の意見を言う権利が僕にあるはずだ。
 理不尽な要求であるのなら、僕はそれに従うつもりはない。


「直紀」
 考え事をして下に向けていた顔を起こすと、兄さんが自動販売機で買ってきたのか、カップのコーヒーを目の前に差し出していた。
「ありがとう……」
 と言って、兄の手からそれを受け取る。
「お前も疲れただろう? 公邸で休んできてもいいぞ? ……それとも、近くに部屋を取った方が落ち着くか?」
「いや、いいよ。ここで……」
「そうは言ってられないだろ? 彼女だって疲れている。それにボクはこれから千葉に戻らなきゃいけないんだ」
「え?」
「こんな時でも、どうしても外せない会議があってね……。祐紀さんのことは、直紀が気を使わなければ、今のこの状態を見て分かるだろう?」

 そこで一旦言葉を切り、待合室をぐるりと見回してから、また話を始めた。
「誰もが気を使える状態ではないんだ。……何なら、一緒に千葉に――家に戻ってみるか? 坂見さんも喜ぶだろう」
 暖かいコーヒーを一度口に含んで、どうするか考えはじめた。
「芹香さんはここに残るそうだ。ボクはすぐにココには戻って来られないし、できれば……北都くんの着替えとオムツも頼みたいのだが……」
 ……と用事を頼むついでに、連れて帰るつもりだな?
「――いいよ。一度帰るよ……」
 それこそ、ずっとここに居たら僕だって悪い方にしか考えられないし、今は寝てるけど起きたら祐紀だって皆に気を使うだろう。兄さんが言うとおり、昨日あれだけ駆け回ったのだから疲れてるはずだ。気分転換だと思えば――帰れなくもない。特に今なら……。
 胸の痞えが、ほとんどなくなっている今なら――。

 すぐ隣で眠っている祐紀を起こし、母さん達に声を掛けると、まだ頭がぼんやりしているのか、フラフラと歩く祐紀を支えながら兄さんに付いて行った。
 まだ時間外ということで、救急出入り口から出て、駐車場に止めてある兄さんの車に乗った。
 祐紀はまた、すぐに眠ってしまったけど。
 通りすがりで見た程度だけど、病院の正面には、ちらほらと報道陣が待ち構える姿も見えた。
 これは……朝のニュース系番組で、『依然、はっきりとした報告は我々には届いておりません』とか言うんだろ? どの放送局もみんな。
 そりゃ、僕の――僕たちの父であるのと同時に、随分長い間、その地位にいる、内閣総理大臣でもあるのだから……。


 僕もいつの間にか眠ってしまったようで、兄さんの声で目が覚めた。
「着いたぞ、起きろ」
「んー」

 曖昧な返事をし、目を閉じたまま、その場で体を伸ばしてみた。
 隣にすがりついて寝ていた祐紀はイッパツ覚醒? 
「朝ごはんですね!」
 そんな突拍子もない発言に、僕も一気に目が覚めた。
 ……いや、誰も朝食を取りに出掛けるだなんて言ってないし。
「おお、朝からおフランスですか? 胃、大丈夫かなぁ……。てっきりバターロールと目玉焼き、スープと野菜サラダを期待してたのに……」
 ファミレスの朝メニューか?
「期待通りの朝食が出てくるかどうかはわかりませんけど、頼んでみたらいかがですか?」
 笑いを堪えながら真面目に答える兄さんに、こっちまでおかしくなって、鼻で笑った。
「え? は??」
 祐紀は慌てて辺りを見回す。そして気付いたようだ。
「ここって……もしかしてお父さん……」
 そこから先は言うな。何を言いたいのかよく分かる。無言の帰宅だとか言いたいんだろ?
 さすがの兄さんも顔を青くしている。僕もそうかもしれない。
「違うよ。僕が帰るって言っただけだから……少し休んだらまた病院に戻るつもりだし」
「ああ、そうなんだ。びっくりしたー」

 僕はキミの発言にかなり驚かされたけどね。
 車から降りると、兄さんがトランクから出した荷物を受け取る。いつ取りに行ったんだろう。僕らが寝ている間?
「とりあえず、北都くんの着替えなどが入ってるから、病院に戻る時に持って行ってくれ。ボクも会議が終わったらすぐに行くから」
「うん、分かった」

 そして仕事に向かう兄を見送った。

 改めて外観を見上げる。
 ――本当に、大きい家だ。
 ずっと住んでいたのにそう思う。
 そして、しばらく帰っていなかったせいか、他人の家のようにも見え、そう思えた。

 ゆっくりとした動作で門に手を掛け、押して敷地内に入る。
 相変わらずよく手入れされた左右に広がる庭。
 家の玄関まで真っ直ぐに伸びた道は十メートル程なのに、すごく長く感じた。

「直……」
 急に祐紀が声を掛けてきたので足を止めて振り返る。
 柔らかく微笑む彼女は、僕にこう言った。

「おかえり、直」

 ああ、そうなんだ。僕はこの家に帰ってきたんだ。
 だったら次に出てくる僕のセリフは決まっている。

「……ただいま」

 家のインターホンを鳴らし、応答した家政婦に僕であることを伝えると、涙を流しながら出てきて、僕たちを家の中へと入れてくれた。
 すぐにお茶を出すから、とリビングに通された。いや、自分の家なのにこんな言い方は変か。
 我が家の敏腕家政婦は相変わらず素早く、僕たちが座って話を始める前にお茶を並べ、テーブルの脇に座った。
「せっかく直紀ぼっちゃんが帰ってきたというのに、旦那様は――」
「こんなことでもなければ、僕は帰るつもりなんてなかったんですよ」

 いただきます、と声を掛けてからお茶を一口。
「そういえば、母さんから電話なかった? いる物があったらこっちに掛けるように言っておいたんだけど……」
「いえ、何も」

 そうか。だったら病院に持って行くのは、玄関に置いてきたアレだけか、それとも後で掛けるつもりなのかもしれない。
「旦那様の容態ってどうなんですか? テレビも曖昧な情報しか流さないし、だからといって奥様に聞くのは酷なことですし……」
 この人も気になっているのに、気を使っている。
「……倒れてから意識がないって……昏睡状態っていうのかな……」
 ふと、病院のベッドで横になっていた父の姿が思い出される。昔とは比べものにならないほど、威圧感もなにもないあの姿を……。
「坂見さん、父さんってあんなに痩せてたかな?」
「……確かに、あの日を境に痩せ始めました。同時に体力も落としたと思います。旦那様は意地でそれをカバーしていたように、わたしの目には映りましたけど……」
「……実際、そうだったのかもしれないね」
 あの父なら、やりそうな事だ。

「あ、すみません。朝食の準備、した方がいいですか?」
「……じゃ、軽くお願いします。それから、少し休みたいから……」
「朝食を取られている間にぼっちゃんの部屋に準備しておきましょう。お布団はもう一組準備した方がよろしいですか?」
「いや……いいよ……」

 かしこまりました、と一言残し、坂見さんは奥のキッチンへと向かった。
 やっと余裕ができ、ここで初めてぐるりと部屋を見回す。
 父に殴られ、出て行ったあの日から変わっていない、リビングダイニング。
 変わっていないから、あの日から時間なんて流れてないんじゃないかと錯覚しそうになる。


 目玉焼きにウインナーと野菜サラダまで付いて、パンはバターロールで、スープもちゃんと付いてるよ、祐紀。
「これ、食べたかったんだ……」
 感無量といった感じの様子。拝むように両手を合わせていただきます、と言った瞬間、ものすごい勢いで食べるのかと思いきや、今日はのんびり、ゆっくりと口に運んでいる。笑顔をこぼしながら。
「お風呂はどうなさいますか? 入られるのなら先に準備しますけど」
 お風呂か……今日はもう入るヒマなんてなさそうだし……。
「あ、お願いします」
 とは言っても、着替えがない。
 まだ店が開いている時間じゃないし、コンビニに走るべきか……。
 考え込んでいるのに気付いたのか、祐紀が鞄を漁って何かを取り出した。
「大丈夫! 下着ぐらいなら持ってきた!」
 分かった、分かったからここで出すなよ!!
 坂見さんはくすくすと笑いながら、各準備のために部屋から出て行った。
 それにしても、随分、準備がいいですね。こっちは昨日の夜なんてほとんど覚えてないのに。

 食事を終えて、お風呂に入り、上がるとリビングのソファーに座って待っている祐紀を呼びに行った。少し眠ると坂見さんに声を掛け、二階のかつて自分の部屋だったドアを開き、一瞬言葉を失った。
 ――本当に、あの日からこの家自体、何も変わっていない。
 本棚に近づき、入ったままの参考書を、懐かしむように一棚一棚、指でなぞった。
 ――でもあの頃の僕は、こんな高い視点ではなかったはずだ。
 自分の背に合わせ、探しやすいように配置していたはずなのに……。
 帰るつもりなんてなかったから、全部始末してもいいと書き残して出たから、もう何もないものだと思っていたのに――この部屋だけはあの日と変わらず、本当に時間を止めていたように見えた。

 散々、帰れと言っていたその意味の中には、この部屋のことも含まれていたのか?
 ――僕はいつでも戻ってきていいのだと。

 いや、今はこんなことを考えている場合ではない。とりあえず体を休めて、それからゆっくりと考えようじゃないか……。
 軽く首を横に振り、布団が敷いてあるベッドへ。
 いつも通り祐紀と一緒に横になると、思った以上に疲れていたのか、すぐに意識は途切れた――。

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