64・鍋 ひとすじの光


 夜中の静まり返った病棟に、直の悲痛な叫びが響き渡った……。
 ここに居る誰もが、それを聞いて顔を上げ、再び目を伏せた。
 私は居ても立ってもいられず、直の居る病室へと向かった。


 ドアを開けると、病室とは思えぬ空間に一瞬目を疑った。
 ホテルの客室のような部屋に白いシーツの布団。ベッドの周りには医療器具も置いてあり、数字と上下に振れる線がその画面に映し出されている。
 ベッドの側の床には、体を伏せ、声を殺して震える直の姿があった。

 直のお父さんの顔は青白く、その体格には不釣合いなほど痩せている。
 テレビ越しでもひしひしと感じる威圧感のかけらもない。
 まるで別人と言ってもいいぐらい、ブラウン管に映っていたその人とは思えなかった。

 拒絶されることも覚悟して、震える直の背中をそっと撫でた。
 ――ずっと、一人で背負い込んでいた、取り返しのつかない過去。
 ずっと、直の心の負担になっていた。
 それが、どれだけ大きなものだったのか、その少しだけかもしれないけど知ったような気がした。
 色々と複雑に入り混じり、不安定になっている気持ちが少しでも落ち着けばいいな、と思いながら、直の背中にそっと身を重ねた。


 直が少し落ち着いてから病室を出て待合室へ行くと、お姉さんが直の頬を叩き、秘めていた思いをぶつけた。
「全部、全部、直紀のせいよ! 返してよ……元気だったお父さんを返してよ!」
 こんな時だから、どこかに当たりたい気持ちも分かるけど……直だってそれなりに、いや、それ以上に悩んで、後悔していることも分かって欲しかった。
 だけど、今のお姉さんにはそんな余裕なんてものはなかった。
 そして、直にも――。
「優奈、やめろ」
 お兄さんの制止も効かない状態。
 そして直は――

 この場から逃げ出した。

「直!」
「直紀!」


 私とお兄さんが呼ぶ声にも答えず――。

 無意識に直を追った。
 非常階段に飛び込む姿が見え、私もそこへ入ったがすでに直の姿は無く、昇ったのか降ったのかもよく分からなかった。
 駆けるその音はこだまし、どこから聞こえる音なのかもはっきりとは分からなかったけど、状況から察して、上だと思った。
 追いつける自信はないけど、肩に掛けたままで邪魔になる鞄を押さえながら必死に階段を登り、最上階に辿り着いたが直の姿はない。
 ――『午後六時以降は施錠します』
 と貼り紙があったけど、その扉は容易に開いた。
 こんな時に鍵を掛け忘れだなんて、ヒドイじゃないか!
 薄暗く長くない廊下。非常口と書かれた看板の下にもう一枚扉が見える。
 少し重い扉を押し開け、屋上に出ると直の姿を必死に探した。
「直……直!」
 最悪の事態だけは考えたくなかった。だけど、姿が見えないとなると、そればかり考えてしまう。
 ――もう、降りた後なのか……。
 ものすごい絶望感。
 心臓の鼓動もどんどん早く、強くなり、喉の奥にまでそれを感じた。
 ――結局、私はどうすることもできなかった。
 胸が締め付けられるような感触に吐き気が混じる。
 ――そして、最悪の結果を招いたのだ……。
 目の奥が、とても熱い……。

 フェンスに近づき思いっきり掴んだ。
 膝から崩れ、フェンスにすがりつくように体をあずけた。
 涙が頬を伝う。
 もう……名前も呼べない――。



 心臓の音が、鼓動が耳障りなほど大きかったから気付くのが遅れた。

 私ではない誰かが、声を押し殺して泣いていることに――。
 近くに居る。
 どこから?

 暗闇に目は慣れていたが、涙で滲んでよく見えない。
 拭っても溢れてくる涙を何度も目を擦って、必死に探した。
 ここより数メートル離れた場所に、フェンスの向こう側にうずくまった人の姿がある。
 最悪の事態を予想していた私はどうも腰が抜けたらしく立てなかった。
 這うようにして、それに近づく。
 そして、名を呼んだ。
「……直?」
 答えてはくれなかったけど、それは間違いなく直だった。

「――僕なんか、もう要らないのに……だから飛び降りようと思ったのに……ここに立ったらすごく怖くなって……死ぬことがこんなに怖いなんて知らなかった……」
「直、死んじゃやだよ。私はどうなるの? お父さんだって悲しむよ。結局、直は日記帳も、携帯も見てないでしょ? あれには、お父さんの本当の想いが書いてあるんだから……。皆だって……」

 とにかく必死だった。このフェンスがとてつもなく直との距離を感じさせる。
 手を伸ばしたくても伸ばせない。
 直に届かない――。

 その時、軽々とそのフェンスを飛び越えた人に気付く。
 そして直をそっと抱きしめる……。
「だから言っていただろう? 一度、家に戻れと、何度も――」
「……にいさ……」



 お兄さんと一緒に、フェンスの内側に戻ってきた直。
 すぐにでも抱きしめたかったけど、どうにも足腰が立たないままだった。
 鞄の中に入れてきた日記帳と携帯を直に差し出した。
「今からでも遅くない。だから……読んで」
 直は素直にそれを私の手から受け取った。
 まずは携帯から、目を通す。
 何も喋らず、じっと携帯メールに目を通し、未読メールを全て読み終えたのか、ずっと点滅していたライトがようやく消えた。
 次に、今使っている携帯を取り出し、モバイルライトで日記を照らす。
 最初の方には直の事は書いてなかった。だから、どんどんページはめくられるだけ。――そして、その手は止まった。


 ***

 ――直紀が胸にシリコンを詰めたということを知った。
 そんな姿の直紀を見て、初めて我が子に手を上げた。
 金は、修学旅行には行かず、積立金を我が物とし、塾も勝手に辞め、その月謝を溜め込み、使ったらしい。
 あの子は何を考えているのかが分からない。恐ろしい子だ。


 ――今日は大学の入学式らしい。
 あんな姿で外を歩いていると、考えただけでも気分が悪い。
 しかし、何が直紀をそうさせてしまったのだろうか。
 あの日、その場の勢いで手を上げ、家から追い出してしまったが、それで本当によかったのだろうか……。


 ――正臣が結婚すると言って、相手の女性を連れてきた。
 その娘は長女だという。はっきり言うと、この結婚には賛成はできない。
 しかし、あの日の直紀と同じような目をした正臣を前に、そんなことは言えなかった。何よりも恐ろしかった。
 直紀のように、私の前から姿を消す事を何よりも恐れた。
 直紀は、元気でやっているだろうか。
 何故、今頃になって、こんなにも気になるのだろうか。
 子供の事で心に引っかかるのは、いつも直紀ばかりだ。
 正臣と優奈と違って、何かとあの子だけは私のやり方からはみ出して目に付く。
 そして今も、世間からはみ出して、あんな姿で生活しているのだろう。

 …………

 ――今日は直紀の誕生日。もう十九歳になる。時間の流れとは早いものだ。
 私の期待には答えてくれなかったものの、昔は素直で真っ直ぐないい子だったのに、あの子はどこへ行ってしまったのだろうか。
 それは本当に直紀だったのだろうか。
 あの日言われた通り、直紀は私の人形でしかなかったのか。
 私のせいで、私の期待に答えようと、その為だけに生き、自分を殺していたとでも言うのか。
 それなら何故、あの日に全てを言い捨てて去ったのか。
 誰も私の意見に反対をしたことがなかった。だから正しいと思いやってきたことなのに、何故それをあの時になって否定したのだ。
 もっと早くにそうしてくれたのなら、違う道を、自分の進みたい道を歩めただろう。
 今の直紀は、自分の進みたい道へちゃんと進んでいるのだろうか?

 ***


「……っぐ……」
 直は日記を閉じて胸に抱きしめた。
 ようやく……お父さんの思いが直に通じた瞬間だった。
「直……」
「僕は……僕は……」

 体を震わせ、涙声の直。
 直の思いを、私が聞く必要はない。
「今思ってること、ちゃんとお父さんに言ってよ?」
「……うっ……」

 そっと直の背中を撫でると、私の胸に飛び込み、直は声を張り上げて泣き出した。
 何度も私に、『ごめん』と『ありがとう』を繰り返しながら……。
「一度、ちゃんと家に帰ろう?」
 直は大きく何度も頷いた。

 ずっと直の隣に座って、静かに見守っていたお兄さんが立ち上がった。
「ボクは先に下に戻りますね。何かあったら、呼びに来ますけど、ここは寒いからそろそろ下に行った方がいいですよ」
「はい、落ち着いたらちゃんと戻りますから……」

 そう言うと、お兄さんは先に病室の階に戻っていった。

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