63・釜 絶望の淵
――ニュース速報
『鎌井総理が』
――それを目にして、一瞬、呼吸が止まった。
『倒れ、』
――視界に入っていたテレビ以外の景色が真っ暗になり、その文字以外、何も見えなくなった。
『都内の病院に緊急入院』
――ドクンと大きく、心臓が跳ねた。
父さんが?
どうしたの?
入院って何?
倒れたってどういうこと?
それって、僕のせい?
「直、行くよ」
……どこへ?
忙しく動き回る祐紀。
何をそんなに急いでいるんだ?
タクシーに乗って、どこに行くの?
新幹線にまで乗って、どこへ行くの?
僕の……せい?
倒れた?
父さんが、
入院し……た?
僕の……父さんが、倒れて、入院した。
どうしてこんなに呼吸が乱れているんだろう。
どうして、体の奥から震えが――。
何も理解できないまま、病院にまで連れて来られた。
ここはどこの病院?
薄暗い病棟の待合室に、兄さんと姉さん、母と――いつか付き合ってた彼女に似た人。腕に抱かれた子供は寝ているのか身動き一つしない。
どうして皆、そんなに悲しそうな顔をしているの?
どうして、僕を見てそんなに驚くの……。
「直紀……」
懐かしい母の声。これは夢だろうか……。
母は僕に近づき、そっと頬を撫で、抱きしめてくれた。
「やっと……家族が揃ったのに……」
それはどういう意味?
どうして泣いてるの?
しばらくして離れた母は、僕の腰に手を添え、病室の前まで連れてきてくれた。
『鎌井宗次朗 様』と書かれた札。
目の前のドアには大きめの字で面会謝絶と書かれた札がぶら下がっていた。
母がドアを押して中に入ると、灯りの眩しさに目を細めた。
目が慣れてきたところでゆっくりと瞳を開くと、目の前に広がる光景に、理解することを拒絶していた脳が、ようやく覚醒した。
心電図の機械。
点滴。
酸素マスク。
それは全て、真っ白な布団の中で横になっている父に繋がっていた。
これがあの父か?
厳格で、頑固で、分からず屋の父?
何かの間違いだ。
足はゆっくりとベッドに近づく。
ベッドの中の人は、父ではない誰かだと信じたかった。
だけど、それは……紛れもなく僕の父であり、僕が大嫌いな人だった。
青白い顔。
最後に見た時とは別人のように老け込んだ顔、白の割合が増えた髪。
深く刻まれた無数のしわ。
テレビで見るよりも実際は随分と痩せている。
――僕のせいだ。
「父さん……」
震える唇から無意識に口から出た言葉。
もう、何年も呼んでない。
「父さん、ごめん……」
視界が揺れ、涙が頬を伝った。
そんな父の姿をこれ以上見たくなかった。
僕はその場で膝を折り、床に手を突いた。
支える腕がガタガタと震える。
涙が床を濡らす。
体中の震えが止まらない。
自分がしてしまったことをどんなに後悔しても、もう……。
腕まで崩れ落ち、塞ぎこんだ。
悔しさに奥歯を噛み、強く瞳を閉じると、涙がまた零れる……。
拳を握り――
「うわ――――――――――ぁ」
力いっぱい叫んだ。
そうすることで、ぶつけようもないこの気持ちを少しでも紛らわしたかった。
今の僕には、そうすることしかできなかった……。
――背中をそっと撫でられ、背中から優しく抱きこまれた。
「祐紀……」
「きっと大丈夫だよ。きっと、疲れてるだけなんだよ。ゆっくり休んだら、絶対元気になるよ……」
そうだといい。そうであって欲しい。
言い訳をするだけかもしれないけど、聞いて欲しいことがたくさんあるんだ。
言わなきゃいけないことが、たくさんあるんだ――。
……涙が止まらない。
どうして、こんなことに……。
なぜこんなになるまであんな仕事を――。
どうせ、意地でも張ってたんだろ?
自分にしか出来ない仕事なんだと、一人で抱え込んで――昔からそうだった。
家庭を顧みず、押し付けるだけ押し付けて……。
何一つ、父親らしいことなんてしてくれなかったじゃないか。
だから、誰一人、まるで他人のような父に反論しなかっただけじゃないのか?
家族は議員でも、議案でもない。
いつでも勝手すぎるんだ、父さんは――。
少し落ち着いてから祐紀に体を支えられ、父の病室から出て皆が居る待合室へ向かう。
疲れきった表情だった姉さんが、僕の姿を見るなり、ものすごい勢いで近づき、思いっきり左頬を叩かれた。
「全部、全部、直紀のせいよ! 返してよ……元気だったお父さんを返してよ!」
姉さんが僕を責めてくる。
とても強い眼差しで、まるで僕を恨んでいるような目で、涙を浮かべて……。
「優奈、やめろ」
――そうだよ。僕のせいだ。
僕なんか居なくなってしまえばいいんだ。
もっと早くにそうすれば、父さんだってこんな事にはならなかったんだ。
何に対しても中途半端で、自分勝手な僕なんか、僕なんか……。
――もう、いらない!
「直!」
「直紀!」
走っていた。当てもなく、ただ走っていた。
逃げ出したんだと言われてもいい。
責めたければ責めればいい。
今頃になって過去をこんなにも後悔する自分に失望した。
僕には生きている意味も、価値もない。
ただ逃げたくて飛び込んだのは屋上。
乱れた心にゆっくりと冷静さを取り戻させるような、冷たい風がとても心地良かった。
ビルの窓から漏れる光が、車のヘッドライトが、滲む視界に綺麗に映る。
それにもっと近づくように……僕は屋上をぐるりと囲むフェンスに近づいた――。