62・鍋 大きなきっかけ


 どうすれば直は動くだろう。
 幾度となく考えたが結論には達することもなく、時にすっかりさっぱり忘れながらも同じことばかり考え、悩んだ。
 時々、お兄さんやお姉さん、そしてお母さんから、直の様子を聞く電話が掛かる。
 その度に直の居る部屋から席を外し、現状を報告する。
 あの預かり物に一切、手を触れないことには、誰もが溜め息を漏らした。
 ――あれだけが、唯一の手掛かりになるものだと信じているから。
 それを触りもしない直に、戻ろうという気が起きるはずもなく、何の結果も出ないまま、もう三月になってしまった。

 そのせいか、いや、ほぼ毎度か?
 見事に後期試験を落とした私は追試を受けることとなった。
 追試に向けて勉強をする最中も、直の小言は痛いほど突き刺さる。
 こんな状況であるにもかかわらず、直が普段通りの明るさを取り戻しているような気がして少し安心していた。
 相変わらず、テーブルの上に置いたままの日記と携帯は触ってないみたいだけど、それはそれでいいと思う。やっぱり小言を言うぐらいが、直らしくて丁度いい。
 ……私はマゾか!
 断じて違うぞ! 直はそんな人だし、それで慣れてるからで……やっぱりマゾか?
 違うー!!
 それはともかく置いといて、何とか無事に追試も終え、いい結果を納めた訳だからいいじゃないか。
 何とか進級できそうです。

 直――試験を無事パスした人たち――に遅れながらもやっとのんびりとした生活に戻り、それを満喫している最中なのですよ。




「今日は何しようか?」
 試験という試練を乗り越えたからこそ、毎日が楽しい。
 鎌井家の人たちにとっては、ただ何も変わらぬ日々が続いているだけなのかもしれないけど、私は直と一緒に居る、当たり前になってしまった時間を、大事にしていた。
「……お医者さんごっこ……」
 ――ズッガーン! ハレンチ極まりない! 昼間から、昼間からそんな……いや、今更ですが。
「まずは手の洗い方から……」
 おおい、医学部に友達でもいるのか?
「洗った後に手を拭く時――」
 肘でティッシュ挟んで何をしてるんだ!
 さりげなく、病院モノのドラマ風味ですね。手が上がったままだ。
「洗った後に手からバイ菌が検出されると、手術に――」
「もういいです、ウンチクたれないでいいから!!」

 別の意味、リアルお医者さんごっこだ! どこからそんな知識を仕入れてくるんだか……。
 ああそうさ、私は病院モノのドラマが大好きさ。だからこそ、緊急手術シーンでやたら舞っているホコリが非常に気になりますとも。一刻を争う事態であっても、あんな所で斬り縫いされるのだけはイヤだ、と見るたびに思うさ。まぁ、自分がそういうことになってしまえば気にもしていられないだろうけど。
 ついでに、同じ放送系列であっても別のドラマなのにセット――本物の病院?――が使いまわしな所も発見しましたとも。気付かぬフリしてかわしましたとも。
 だからって、だからって、昨日レンタルしてきたビデオの影響受けすぎどころか過剰に応用しすぎ!
 そういえば、こっちに来てからまともに医者にかかった事がないなぁ。健康優良児。
 熱射病もどき(?)に倒れたこともあったし、直に(重要)デコ割られたけど、結局、病院には行かなかった。
 あの時の傷はうっすらと残っている程度ですっかり治ったけど。治癒能力健在。
 誰だ! バカは風邪を引かないとか思ったヤツは!
「産婦人科医ごっこ……」
 マテ。待ってくれ。それは放送できないぞ!
 というか、さりげなくトラウマ部に突っ込みやがって!
 カワイイ顔しやがってキサマ、いつ『カト○タカ』を知ったんだ。その手つき、アヤシイぞ!
 すっかり酔いちくれてイイ感じな直はもうダメです。先に言え。
 直はもう、目はうつろで……カワイイ。うひゃー。
 だめだ。私がダメだ!!
 今日は寝ましょう! 昼だけど。実況ナマはまた今度。いや、意味は違うんだよ。そうじゃなくて。

 昼間からすることがないと言って酒食らってる大学生カップルの生態。もっとマシなことをやれよ。
 え? 私が悪いのか?




 日を改めまして――。
 そろそろ、冷蔵庫内の食材が底をつきそうなので、買い物に出掛けることになった。
 三月とは言っても寒かったり暖かかったりで、着るものに困ってしまう時期だが、今日は少し寒いので、コートを羽織って出陣した。

 駐車場でスーツ姿のダンナこと藤宮氏を発見。車に映る自分の姿を確認しているのか、身なりを整えたり、髪をかき上げたりしていて、こちらには全く気付いていない。
 というより、また黒髪に戻ってるし。
「なにやってんの、そんな格好で……葬式にでも行くの?」
 くるりとこちらに向きを変えるダンナは私たちだと気付くと、腕を振り上げて――ちょっと怒った感じ。
「面接に行くのだ、バカモノ!」
 そういえば、四月からは真面目に働くとか言ってたな。
 しかし、あのスーツ姿を見ると、どうしてもホスト向きだと思ってしまうのは私だけだろうか? 新人はトイレ掃除から……という、かなり厳しい世界だと、テレビでもやってたよなぁ。ヤツなら日々培ってきた得意の演技で女性客をメロメロさせたあげく、あっという間に上の者を蹴落としてナンバーワンにでもなれそうな気がするけど、それじゃ華音ちゃんが家出しちゃうかな?
 タカくん、汚らわしい! とか言ってさ。
「どこの面接?」
 手っ取り早くそう聞けばいいのに、変な想像を膨らませていた私は、そんな質問をする直の声でようやく我に返った。
「……ふ、フフフフフフフ」
 アヤシイような悲しみミックスなのか、ハンパな笑い。そして体の向きを変えて車に手を突いた。
 聞いちゃいけなかったのかな?
「俺みたいな学歴が中途半端だと、これといった就職もなくてねぇ……募集要項は高卒以上じゃないとアウトだし、今までに取った資格は何の役にも立たねぇし……」
 確かに、大学中退だし、高校は商業科だったとかって聞いたことがあるから、私と同じでコンピュータ関連か計算系の資格を持っていることだろう。
 それが役に立たないって……やっぱりホストか、レストランのウエィターか、はたまたコンビニとかスーパーの店員か……。
 いや、レジ打ちはコンピュータ関連かじってる方が応用利くよ。
 意外と機械オンチそうな私でも、コンビニバイト初日にレジ打ち任されちゃったもんねー。袋詰めだけはどうもダメだったけど。
 再びこちらに向き直るダンナ。こちらにビシッと人差し指を向けた。
「笑うなよ、絶対に笑うなよ!!」
「笑いはしないよ……場合にもよるけど」

 場合にも〜は向こうには聞こえないぐらいの小声だったけど。
「大手! 全国展開中の……」
「「の?」」

 強く言った『大手』という言葉に私と直は期待する。しかしダンナは腕を下ろし、やる気のない表情に。そして次に出てきた言葉は、感情もなく乾いていた。
「ガソリンスタンド――」
 ……ああ、あの国道にある、トラックステーションか。ウチの地元にもその会社のスタンドがあったなぁ。
「贅沢は言わない! せめて、大学卒という学歴が欲しかった……」
 あと一年だったのにね……。でもしょうがないでしょ? 華音ちゃんと結婚する為に自分がそうしたんだから。
「だったら、もう少し高収入な――」
 そっちかよ。
 携帯を開いて何かを確認しているダンナの表情がみるみる焦りの色に染まり、
「ギャー、もうこんな時間! ヤッベー!! じゃな」
 こちらに向かって手を挙げたと思ったら素早く車に乗り込み、ロケットのごとく飛び出していった。
 タービンなしの車だけに、やたらエンジン唸ってましたよ。
 それより、背の高い車でそんなにスピード上げて走ったら、曲がる時にひっくり返るんじゃない?
 しばらく、アパートの敷地出口を見つめて止まっていた直に声を掛けた。
「……買い物、行こうか」
「そうだね」

 鍵を開けてもらい、車に乗り込んだ。

 ガソリンスタンドか……夏は地獄だぞ。真部祐紀、体験談。


 そして到着した、いつも来るスーパー。
 店の入り口に立って、直は、あー、と声を上げた。
「どうしたのさ」
「四時から来ればよかった……」

 と言って指さす先に、『四時から市』の目玉商品が貼り出される看板。
 まだギリギリ午前中なだけに、もちろん何も貼ってない。
 あれは確かに安くていいんだけど、獲物に向かって猛突進する直が怖いからヤダ。オバサマに対抗意識燃やして、フーフー言ってるから怖い。何度、他人のフリをしたことか……。その後の満足げな表情も、ぶっちゃけブキミだ。
「そんなこと言っても、来ちゃったものはしょうがないじゃん。ちゃっちゃと買い物しましょう」
 と、カゴを手に取り、カートに乗せた。

 今日はものすごく、クッキーが食べたい年頃です。
 野菜コーナーから鮮魚、肉、調味料棚と経由し、辿り着いたのはお菓子コーナー。
 チョコチップか、バターか、それともビスケットか……それともチョコが挟んであるラングドシャか……。
 ああ、味を想像しただけでツバが口の中にじんわりと染み出てくる……。はぁはぁ、全部食べたい。食べちゃいたい! コーヒーと一緒においしくイタダキマス。
「いつになく、真剣な顔でお菓子見つめないでよ……先に行くよ?」
 なぬ? それなら仕方ない、ここは――全部購入で手を打とうじゃないか。
「えー、そんなに買うの?」
「だって、食べたくて仕方がないんだもん」
「……だから、ご飯食べた後に買い物に来た方がいいって言うのか」
「たまには食べたいじゃないか! いいもん、直にはあげないもん」
「ええ?!!」


 お惣菜コーナーにて。
 サラダ巻き、ウマそう。手巻き寿司も捨てがたい。お弁当でもいいなぁ、たまにはね。
 ああ、チキン南蛮、ウマそう。から揚げだ、揚げ物バイキングだ、ああー!! めまいが、めまいが……ヨダレが。
 ――直も食べたいでしょ?
 と目で訴えてやろうと思い、直が居るはずの方向に頭を向けたが、見知らぬオバサンが居るだけだった。
 あ、あれ?
 慌てて辺りを見回すと、直ははるか彼方へ――。
 この私を置いていくとはどういうつもりだー!!
 とりあえず、チキン南蛮をサッと手に取り、後を追った。

「洗剤ってもうなかったよね?」
「ついでにボディソ(ボディソープの略)もストックないよ」
「だったらシャンプーもないってこと?」
「コンディショナーもないよ」

 安い洗濯洗剤と、お風呂のお供(?)詰め替え用を一式、カゴの中へ。
「たまには入浴剤が欲しいです」
「ダメだよ、残り湯はちゃんと洗濯に使わなきゃもったいないし」

 そんな理由で却下なわけ? なんて貧乏性なんでしょう。あんな家で育ったくせに……。
「それでも一応、使えるんだよ?」
「でも、何だかイヤだ」

 トイレのタンクに置くアレも、なんだかんだと理由を付けられて買わせてもらえない。
 ただの同居人――アパートの契約だとウチ名義だから――だと油断していたら、完全に主導権を握られてしまっているこの現状。
 ウチの兄妹は相方の尻に敷かれるタイプの人間なのか……。そういう血なのか、仕様なのか……。

 今日から一週間分ということで、大量に買い込んだ。
 しばらくは冷蔵庫がイッパイで、物を探すのに苦労しそうだ。


 帰宅後、昼食を取り、おやつタイムも取り入れ、午後はのんびりまったりと過ごした。
 そして夕食を終え、部屋でテレビを見ていた。
 ニュースも終わり、暮らし番組が始まる。
 温泉宿、テーブルイッパイに並んだ料理……温泉か。
「こう見てると、温泉旅行にでも行きたいねぇ」
「だから今日、入浴剤欲しがったの?」
「いや、それとこれとは話が別。サークルで旅行に行ったり、実家に行ったり程度で、二人で旅行なんてしたことないじゃん?」

 直がきょとんとしている。
「え? 旅行って恋人同士でもするもんだっけ?」
 ……価値観の相違?
「友達同士でもするもんだから、変じゃないだろ」
「まぁ、そりゃそうだけど……」

 と言いながらも顔が真っ赤になってる。
 温泉――浴衣――はだけた?――素肌がちらちら……。ぶぶー!!
「お主も好きよのぉ……ほっほっほ」
「ちっがぁぁうう!!」

 直は真っ赤な顔で、テーブルをバンバン叩きまくって懸命の否定。
 どうやら私の想像で正解だったかな。
 そんな、久しぶりのほんわかモードであの問題など、きれいさっぱり忘れ去っていたのだよ。

 テレビに映し出されるキレイな風景、露天風呂。すっかり虜にされていたものだから、急に鳴り出した携帯に驚いて、慌てて開き確認した。
 ――いい所なのに!! と心の中で叫びつつ。
 ディスプレイには『直のお兄さん』と出ている。
 さすがに直の目の前で出る訳にもいかないので、席を外そうとした時――
 テレビから番組に合わないピポピポという音が鳴る。
 ニュース速報か地震情報か……。
 画面上部に白い字で出てくる文字を目で追った。


 ――ニュース速報
 鎌井総理が倒れ、都内の病院に緊急入院。
 ニュース速報 終


 鎌井総理……って、直のお父さんだよね?
 直の方を見ると、テレビ画面に釘付けになっている。
 もう一度、出てくる速報。
 見間違いではないようだ。

 ここで、鳴りっぱなしの携帯に気付き、その場で出た。
 きっと、今のニュース速報の件だろうと思って。
「もしもし?」
『あ、祐紀さん、大変なことが……』

 相当、焦っているようで、本当にお兄さんなのかと疑いたくなるような声音だった。
「たった今、ニュース速報で見ました。……あの、どんな状況なんですか?」
 お兄さんは押し黙ってしまった。
 その沈黙で、最悪の事態が脳裏を過ぎる。
『……意識がないらしい』
「そんな……どこの病院なんですか? すぐにでも行きます!」

 部屋を見回して、書くものとメモができそうなものを探し、とりあえずティッシュの箱に記入しようと思い、自分の方に引き寄せるとペンを持って構えた。
『千代田区の――』
 言われた病院の名前をメモし、切れた電話を閉じた。

 直はまだ、目を見開いてテレビを見ていた。
 呼吸が乱れている。唇を震わせ、体も小刻みに震えている。

 ――行かなきゃ……今すぐに!

「直、行くよ」
 声を掛けてもテレビを見つめたまま止まっている。それ程の衝撃だったのだろう。
 それなら尚更、引っ張ってでも連れて行かなきゃ……。
 急いで出掛ける準備をし、直の部屋から適当に羽織るものを持ってきて肩に掛けてやると、タクシーを呼ぶ。
 今にも倒れそうな直を支えてタクシーに乗り、駅まで向かうと、タイミングよく入ってきた新幹線に乗った。

 車内でも直は、ずっと呼吸を乱し、震えていた。
 掛ける言葉が見つからず、ただ、直の手を握る事しかできなかった――。

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