59・釜 日常
祐紀が無事に帰ってきた。
だけど、行き先を聞いて僕は驚き、戸惑った。
持って帰ってきた物は、父が愛用している日記帳と同じものと、僕がかつて使っていた携帯電話。
それは、テーブルの上に置かれたまま、僕は触れようともしなかった。
――何かが壊れそうで怖い。
目を細め、懐かしむように見つめても、過去の光景が蘇り、触ることを拒絶する。
毎日、そんなことを繰り返し、気付けば正月から二週間が経過。
何に対しても身が入らないようになっていた。
それが目の前に、手の届く場所にあるから、余計に心の痞えになっていた。
溜め息ばかりが漏れる。
だけど、祐紀の態度はいつもと同じで、それだけが唯一の救いだった。
朝、目を覚ますと隣に祐紀の姿はなく、キッチンから物音がする。そして何か、いい匂いも……。
ベッドから体を起こし、辺りを見回す。視界がはっきりとしないので目を擦った。
体を伸ばしてから適当に身支度を整え、部屋から出ると食卓テーブルの上には朝食が並んでいた。
「おはよ、直。丁度、起こしに行こうと思ってたんだ」
と、テーブルに淹れたばかりのコーヒーを置いている。
「うん、じゃ、顔洗ってくる……」
いつもと変わらない朝だ。
きっと、結婚したとしても、このまま変わらないのだろう。
……なぜ思考ばかり焦って先に進んでいるのだろう。
アレを見れないのもそれと同じだ。
顔を洗って鏡を見て気付いた。
……いつか、こんな表情ばかりしていた時があった。
まだ、女だと偽っていた頃。あの時もこんな――この世の終わりみたいな顔をしていた。
こんな表情を祐紀の前でする訳にはいかない。もう、しているのかもしれないけど……。
頬を何度か叩き、改めて鏡の中に映る自分を見つめた。
――イマイチ。いかにも作ったような表情だった。
祐紀は僕の実家に行ったからといって、態度が変わった訳ではない。いつも通りだ。
なのに僕は、なぜ……。
「いただきまーす」
いつも通り、豪快に食す祐紀。口の中に詰め放題。
毎度、喉に詰まるんじゃないかと思うと、必ず詰まらせ、コーヒーを一気に飲み干す。
今日もやっぱりやってくれた。
「……毎回、同じことしてるよね……」
と、のんびり食べながら僕は言う。
「はぁ……いや、お腹空いてると、一気に入れたくなるもので」
詰まったものが流れ、一息。言い訳をすると、カップにもう一杯コーヒーを注いでいる。
そのせいで、出掛ける前に何度もトイレに行かなきゃならないことに、気付いているのか、いないのか……。
そう、何もかもがいつも通りなんだ。
僕だけがその日常からはみ出してしまったのかもしれない。
時間になれば学校に講義を受けに行く。
好き勝手に部室を出入りする。
夕方になればバイトに行く。
心だけがなぜか、日常から目を背けているような感じ。
「はぁ……」
「なに溜め息ついてんだ。頑張りすぎじゃねーのかぁ?」
僕の後頭部に鞄をぶつけて言うセリフなのか?
今期イッパイで辞めるわりにはよく講義が一緒になる藤宮――いや、林田孝幸。
講義棟の廊下でたまたま見かけたぐらいでいちいちつっかかってくるなよ。そんな元気ないのに……。
「何も頑張ってないけど?」
どちらかと言えば、最近はなんとなく、という方が多い。何に対しても何となく。
「ちゃんちゃらちゃんちゃん♪ リンダのお悩み相談室! 今日のゲストは鎌井直紀くんです!」
「いや、相談する気はないから」
「あら、そう? 実は下が元気ないとか、お留守とか……」
「ちがわい!!」
手に持っていた鞄を藤宮の顔面めがけて思いっきり振り回した。もちろん見事に当たった。
何ですぐにそっちの話をするかな、コイツは!
ふと窓の外を見ると、祐紀と――絢菜? 坂見も一緒だ。
何かを話しているみたいけど、あんなに仲が良かっただろうか。
「はは〜ん? もしかして、最近相手にされなくてやきもち?」
窓の外の光景にも口を挟んでくる。
「なんで?」
「なんとなーく。友達と遊ぶぐらい許可してやれよ」
言われてみれば、付き合いだしてからこっち、友達と遊びに行ったりとかしていないような……。友達を連れてきたということもない。せいぜい藤宮兄妹ぐらいのものだ。
「じゃぁ……僕と遊びに行く?」
「何で俺なんだよ」
「そこまで仲のいい友達って居ないなーと思って……」
「……昔と全然変わってねーな、お前」
――昔?
やだな、また思い出しそうだ……。
「ごめん、やっぱナシ」
「お、おい」
足早にその場を後にした。
――マズい……全部出てきそうだ……。
とりあえず、トイレに駆け込んだ。
ついでに場所が云々なので余計に気分が悪くなり、胃の中身まで吐き出してしまった。
こんなことじゃ、僕の痞えは取れないのに……。
具合まで悪くなっちゃ意味がない。
まだ講義が残ってるし、バイトにも行かなきゃならないというのに……。
講義開始まで時間があるし、医務室で胃薬でも貰ってこようかな。
薬で治るような症状でもない……でも、気休めぐらいにはなるだろう。
そう思って、医務室へと向かう事にした。
それから講義室に戻り、何とか九〇分の講義を終えたが、さっぱり頭には入っていなかった。
行く当てもなく、とぼとぼと構内を歩いた。
アパートに戻ればそれが視界に入り、落ち着くどころか余計に悪化しそうな気がする。
だからと言って遊ぶような人も居ないので、紛らわす方法がない。
天気はこんなにいいのに、どうして僕の気分は晴れないのだろう。
あれを見れば改善されるだろうか。だけど――怖い。
――僕は何をそんなに恐れているのだろう?
自分が壊れそうで怖い?
今の生活が壊れそうで怖い?
心の致命傷になりそうで怖い?
……とにかく、怖い。
僕はもう、捨てたんだ。
勘当されたことで、あそこから縁が切れたんだ。
だから自由なんだ。
それをずっと望んできた。
今の生活は望みどおりじゃないか。
縛られず、自由気ままで……
なのに――。
なぜ……。
ずっと同じことばかり繰り返している。
答えは出ない。
唯一の解決の糸口であろう、それには、なにがあっても触れたりはしない。
だから、答えが出てこないのか……。
もうすぐ校門、という辺りで腕を掴まれた。
振り返ってそんな思考は一気に吹っ飛んだ。
「……う……はぐ……ぐずっ……」
顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしている、絢菜の護衛を解任になった石野だ。まだ居たのか……一応。
場所は変わって構内の食堂。安くておいしいと評判の方。
先程、胃の中身を出したせいで小腹が空いている事に気付き、軽く食事を取るついでに聞いて……いや、聞くついでに軽く食事を……。
目の前でハンカチを広げて顔を埋める石野。
「糸目の童顔は嫌いだって、嫌いだって、嫌いだって、嫌いだっ――」
おいおいと泣き出す。
人間、誰でも好みというものがありますからね。
それより、何の話?
と聞く前に、まずは腹ごしらえを――目の前のうどんをズルズルとすすった。
牛肉が甘辛くていいねぇ。
「全然、話、聞いてないでしょ?」
無表情で僕に聞いてくる石野。それに対し、
「うん、うどん、おいしいよ」
と、そのまま、今の感想を述べた。
そのせいで、彼の表情はみるみるぐちゃぐちゃになり……。
「あぅ……ぐっ……ふっ……」
歯を噛み締めて涙と鼻水は大洪水。
「いや、何の話だか分からないんだけどね」
石野は再びハンカチに顔を埋め、喋りだした。
「ちょーっと仲良くなった女の子を食事に誘ったら、糸目の童顔はちょっと……だって。嫌いなんだよ、ぼくなんか、ぼくなんか、ぼくなんか!!」
何? 鎌井直紀の恋愛相談室なわけ?
っていうか、イキナリ食事なわけ?
どういう展開でそうなったんだか……。
「ちょっと……の後は? それって推測?」
「いえ、きっとそうに決まってます」
と言っておいおいと泣き出す。
推測……僕もそうなのか。
だから動けなくて……。
「燃えるような、恋が……ふぐっ……」
またそれか。
「ぼくは女の子好みの顔じゃないんですよ。きっとそうだ。所詮、お友達止まりでそれ以上にはなれない定めなんですよ。一生独身の負け組みですよ」
見るに耐えられないので視線を逸らすと、こっそりとこちらを伺う女の子を発見。
「もしかして、それって、あの子?」
と指さしてみる。石野も顔を上げ、そちらを向いて……
「……みやたん……ぐずっ」
その子はパタパタとこちらに駆けてくる。
だけど近づいてきてその違和感に気付いた。
……中学生?
似たような容姿の僕が言うな、ぐらいか。
「ごめんね、いっしー。違うの、違うのー。やっぱり泣きながら逃げたから勘違いしてるー。糸目の童顔のいっしーと一緒だと、あたし、余計に中学生っぽく見えるんじゃないかなぁ? って思っただけでね、嫌いじゃないの。むしろ逆なの。えーっと、うーんと……」
「みやたん……」
と言って、女の子の手を取る石野。そして二人は見つめ合う。――とりあえずその顔、何とかしろ。汁まみれだ。
それより何より、本当に中学生カップルのように見える。
自分が言うな。
「すみませーん、肉うどんおかわりー」
「食券買って持っておいで!」
「……はーい」
おばちゃんに怒られちゃったよ。
まぁ、少しは気分が紛れたからいいか。
帰ってもどうせ、うじうじと考え込むだけなんだから、少しでも忘れて、考えずに済んだんだから……。
――それにしても
この食堂珍物のチョコレートパフェを注文するとは……もう甘々モードかよ。
三年は通ってるけど、初めて見たよ、食ってる人は。
あー、とりあえずもう、バイト先に行くか。
二月から後期試験が始まるというのに、こんな状態で大丈夫なのか、そっちも不安ではあるんだけど……。