58・鍋 すれちがい


「どうしてですか?」
 それこそ、引っ張ってでも行こうかとも考えた。だけどその前になぜ行けないのか、理由を聞く必要がある。
「今日からしばらく、公邸に行くことになっています。しばらく、そちらに滞在しますし……」
 総理大臣はとても忙しい仕事。
 正月も休みがなく、マスコミが着いて歩く。
 確かに毎年、正月のニュースでも、なんたら神社に参拝しただとか、インタビューされてたりとか、そんな映像が流れる。
 お母さんはその妻であり、夫である総理を支える存在。
 そりゃ、正月ぐらい、家に戻れないのなら向こう――総理と家族の住まいである公邸に行って、一緒に居たりしたいよね。
「そ……ですよね。すみません、急に変な事言って……」
 私の勢いは、あっという間に失速。
 自分の事が気になり始めた。
 ――早く、直の所に戻らなくちゃ。

 結局、案など出なかった。
 皆も、直をよく知っているからこそ、それが容易でないこともよく分かっている。
 だから、案が出ない。
 直の心を揺り動かす、何か大きなきっかけが欲しい。
 だけど今は、なにもない。

「ちょっと待ってください」
 急にお母さんが立ち上がり、急いで部屋から出て行き、しばらくすると、本のような物を手に戻ってきた。
「せめてこれを、直紀に……」
 差し出された物は、新書本のような装丁の日記帳。
「これは?」
「……お父さんの日記です。あの人はまめに日記をつけるんです。職業柄……というよりも、そんな性格だからですかね。言えない本音や、思いを書いてあります。それは三年程前のものです。丁度……直紀が……」

 お母さんはそこで言葉を詰まらせた。
 三年前……直が家を出た頃のもの。そう言いたかったのだろう。
「これを、渡せばいいんですか?」
「……ええ。そうでもしなければ、お父さんは一度したことに対して、意見を曲げるような思いを言うような人ではありませんし、直紀も聞いたりしないでしょう」

 そう聞くと、本当に二人は似ているのだと改めて思う。そして、変に頑固だとも……。
「分かりました。これを直に渡しておきます」
 と、その日記を受け取った。
 お父さんの本当の気持ちが詰まったその日記は、装丁のせいか、それとも書き記された思いのせいか、少し重い気がした。

 直の件に関しては、そこで話は終わった。

 それから、お兄さんに直の部屋へと案内された。
「あの日から、何も変わってないんですよ、この部屋」
 窓側に机。上には携帯が置いてあった。
 その隣には本棚。椅子に座っていてもすぐに手の届く場所にあるそれには、問題集や参考書がたくさん入ったままだ。
 そして反対側の壁側にベッド。畳んであるものの布団もちゃんとある。
 あとはクローゼットがあるぐらい。
 それ以外、何もない。広さのわりには殺風景な部屋だった。
 ――あの日から変わっていない。
 いつでも帰って来られる状態であるということ。
 似たような光景をどこかで見たことがある。
 ……そうだ。実家の、私の部屋と同じだ。
 進学を機に家を出た私は、あの家に帰るつもりなどなかった。
 帰ったとき、部屋が出た時そのままだった。
 久しぶりに帰った私を歓迎してくれた。あんな表情の両親を見たのは、あの事件以来、初めてだったように思う。
 それから……避けていた兄ちゃんと、また仲良く話せるようになったんだ。

 つ――、と涙が頬を伝う。
 膝を付き、日記を抱きしめた。
 ――それは、直が居たから、私が取り戻した部分。当たり前だったことが戻っただけ。直はまだ、取り戻していない部分。
 取り戻した時の思いは、日に日に薄れ、忘れていた。
 嬉しいという言葉では足りないぐらい、嬉しかったその気持ちを――。
 それまでに感じていた、晴れない気持ちと不安と寂しさを――。
 直はまだ、それに縛られたままだということを。

「祐紀さん?」
「……大丈夫です。ちょっと……自分にも似たような事があったから……」

 お兄さんは何も言わず、静かに部屋を出て行った。

 気分が落ち着いた私は、机に置いたままの携帯が気になり、それを手に取った。
 誰かがまめに充電しているのか、電源が入っていた。
 電波も圏外ではない。この携帯はまだ回線が繋がったままだ。
 未読のメールや不在着信もそのまま。
 操作してそれを確認すると、最後の不在着信は三年前のもの、お兄さんの名前が表示された。
 メールの日付は三年前から一年前まで、メールボックスがイッパイだとまで表示されるほど、大量に入っている。
 その中から未読のメールを一つ、開いてみた。


 ――元気でやっているだろうか。お前がこれを見ることはないと分かってはいるのだが、こうしてメールを送るのも何度目だろうか。もう、思いは

 続きを受信――


 これって……お父さんからのメール?
 その携帯番号は登録されていないものなので、名前は表示されていない。
 日付は去年の夏頃。続きのメッセージはもうサーバーに残ってないだろう。

 ――これだけ想われていることを、直に伝えなくちゃ……。
 想いがすれ違ってるだけ。きっと、想いは同じはずだ。
 二人が似ているのなら、きっとそうだ。
 私はその携帯を握り、部屋から飛び出すと、一階に駆け降りた。

「この携帯、持って帰っていいですか?」
 のんきに雑談中だった皆が、一斉に驚いた表情を私に向けた。
「……直紀の携帯、何かありました?」
 どうやら知らなかったようだ。
 状況を説明すると、ここに居る全員がメールを読みまわす。そして驚いた表情を浮かべた後に暗い顔をする。
「この番号、確かにお父さんのものです。……知らなかった……こんなことをしていたなんて……」
 お母さんは目を閉じて軽く頭を横に振った。
「だからたまに、どこからか着信音が聞こえていたのですね。最近それがなかったのはメールボックスが一杯になったから受信できなくなっていただけだと……」
 とお姉さん。仕事で家を空けることが多いらしいけど、帰ったときに耳にしていたようだ。
「これ、直紀くんに見せた方がいいですよ、絶対」
 片瀬も驚きを隠せず、勢いよく言葉にした。
「貴女なら、本当に直紀を連れ戻してくれそうですね」
 お兄さんが軽く微笑んでそう言った。
 どうにもならないと諦めかけていた私に、一筋の光が見えだした。

 ――この事を、一刻も早く、帰って直に伝えたい。
 そのことしか考えられなくなっていた。
 一通り回された携帯が私の元に返ってきた瞬間、それこそ家から飛び出して帰るような勢いだったけど、その前にちゃんと挨拶しなきゃ。
「私、帰ります」
「そうですか……。もう少し、話を聞きたかったけど、仕方ないですね」

 と、お母さんが悲しそうな表情で微笑んできた。
「また来ます。今度は直を連れて来ます」
 そう固く決心し、皆に向かって頭を下げた。
「急に押し掛けてすみません。お料理、ご馳走様でした」

 さてさて、勢いに任せて家から飛び出して行ったとしても、私はこの辺りに詳しくないし、何より方向音痴だった……!!
 お兄さんが駅まで送ってくれると言ってくれたので、とりあえず助かった。
 来た時は、あまりの豪邸っぷりに視界に入らなかったけど、直から聞いた通り、ガレージには白いベンツもあった。かなりの大きさがある、左ハンドル。
 これがお出かけ用だなんて……。やっぱり金持ちの金銭感覚はよく分からない。
 お兄さんは唯一、国産車であるが、これも高級車なんですけど……。この人もちょっと分からない。

「お兄さん、困った事があるんです」
「なんですか?」

 運転中につき、前を向いたままの応答。
「直が……車の運転、させてくれないんです。オートマ限定もちゃんと解除したのに……ペーパードライバーだから何とかって。解除する時に自動車学校でちょっと乗ったのに……」
 信号に引っかかり、車が止まる。私の方に顔を向けたお兄さんの表情は……
「や……やめてください! あれはいつか、手元に戻そうと思って、直紀に預けているようなものなんですから!」
 真剣に悲しそうな顔。
 私、信用ゼロですか……。

 先程の駅に到着。
 ありがとうございました。と言って車から降りると、お兄さんも車から出てきて、私の横に並ぶ。そして、駅の外観を見上げた。
「あの日、この駅で直紀と別れたんです。勘当されたというのに心から嬉しそうな顔をしていて、本当にあの家が、父が嫌いだったんだと気付きました。……でもその後の直紀にはどこか陰があるような表情だったから、家に戻るよう勧めていたんですけどね。あの頑固さは父譲りのようで、結局、連れ戻すことなんてできなかった」
 そして、私を真っ直ぐに見つめる。
 どことなく直に似た顔、それに哀感が漂っているところ。
 お父さんだけでも、お母さんだけでもない。この件で家族の皆が心を痛めている。直、自身も……。
「何とかします。必ず……絶対に……」
 皆、願いは同じだから……。

 ここでお兄さんと別れ、私は一人、電車に乗った。
 東京駅で新幹線に乗り換え……なんだけど、お決まりで迷子になった。


 新幹線の中で、日記帳にざっと目を通した。
 ほとんどが仕事に関しての愚痴ばかりだったが、ある日付を過ぎると、直の事ばかり書いてあった。
 直の体の事で、最初はどうにも理解しがたいような事が書いてあったが、日を追うごと後悔へと変わっていく。それから最後のページまで、直の事が書いてない日はなかった。
 熱いものを感じて瞳を固く閉じ、奥歯を噛み締めた。


 見慣れた光景が窓の外に広がる。
 持ち物を何度も確認してから席を立ち、降りるためにデッキへと向かった。

 駅からはのんびりと徒歩で帰る。
 アパートに直が居る事を祈り、信じて――。
 陽も、辺りも赤く染まり、影が長く伸びていた。


 アパートの部屋前まで来て、いつも通りポケットを探ってみる。
 ……しまった。鍵も持って出てないんだ。
 もし、直が居なかった場合は、自分の部屋なのに入れないという事か!
 車はちゃんと駐車場にあったし、明日までバイトは休みだったから大丈夫だと思うけど。
 自分の部屋だけに、こんな事をするのに違和感はあったがチャイムを押してみた。
 ドタバタと部屋の中からものすごい音。そして――

 ガチャ
 ごぁんぁんぁんぁんぁんぁん――ばたり。


 ――――――うううう、目がチカチカするってーの。お星様がキレイ?
 痛い、痛い!!
 オデコイタイ!!


 オデコを押さえてゴロゴロと転がる私。
 冬であり、寒いから通常の倍は痛いと思う。
 何だか手がねっとりしますが気のせいでしょうか。
 とにかく、あまりの痛みに声を押し殺して耐える。
 何が起こったのか、冷静に……はちょっと無理だけどおさらいしてみよう。
 勢いよくドアを開いてきたものだから、見事に額から体にぶち当たり、跳ね飛ばされた。
 だから今、痛くて転がった……と。
「うわぁ!! 祐紀、ごめん」
 思ったより元気で何よりです、直紀さま……ぐふっ。


 な、な、な、なんじゃこるぁぁぁぁ!!!
 と思わず手を見て震えましたとも。
 さっきの衝撃で額が割れてました。ばっくりと。
 部屋に入ると、オロオロと慌てながらも処置してくれる直。
 包帯まで巻かれそうになったので、それはいらない、と言っておく。
 鏡を見て、なんとも間抜けな姿に、眉間にしわを寄せた。
 笑ったら傷が開きそうだ。
「やっぱり病院に行った方がいいって」
「ヤダ。絶対に縫われる」

 ついでに余計な傷が増えそうな気もするし。
 心配する直に対し、私は冷静だった。
「ホントにゴメン。ちゃんと責任は取るから……」
 それは知ってる。こんなことぐらいで責任取れだなんて騒ぐ気もない。前髪で隠れるし。
「責任取るぐらいなら、コレ、読んで」
 と、紙袋――鎌井家から預かった物を直に差し出す。
「……なに、これ。お土産? じゃなくて、どこに連れ去られてたの?」
 私がケガをしなければ、かなりいい勢いで詰め寄られたかもしれないけど、今なら私の方が有利に見える。
 ならば、ここで言った方がいい。そう判断した。
「直の実家。それはお母さんから直に渡してくれと預かった物だ」
 戸惑いを隠せない直は目が泳いでいる。私と目を合わさなくなっただけでなく、紙袋に手さえ伸ばさない。
 無理に言えば必ず跳ね除けられる。ならばその日を待つしかない。
「本当は今すぐにでも見て欲しいけど……まぁ、いつでもいいか。ちゃんと読んでね」
 と、直に効きそうな言葉を並べた後、袋から中身を取り出し、テーブルの上に置いた。
 さすがに携帯には驚いた表情を見せ、手には取らなかったが覗き込んだ。
「……もういらないって言ったのに、どうして……」

 相変わらず、メールの受信を知らせるライトは点滅したままだった。

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