56・釜 迷い


 普段、一緒に居る祐紀が居ない。
 寂しくて不安だった。

 そういえばいつか、僕が一人で東京に――抜去手術に行ったとき、祐紀はなんとも言えない不安に押しつぶされそうになっていた。

 そうか……これが、その時と似たような気持ちなのかな……。

 でも、あの時は行き先と目的を告げて出ている。
 今回は違う。
 急に連れ去られた。どこに連れて行かれるのかが不明。連絡を取る手段がない。


 いや、ない訳ではない。
 一箇所だけ、思いつく場所がある。
 避けているその場所。
 僕が生まれ育った家。
 数々の思い出が交錯する所。


 いつも、強く思い出すのは、父との最後のシーン。
 父を父さんと呼ばなかった、あの家での最後の日。
 生まれて初めて、父に殴られた日。


 誰も反論しない、誰も父には逆らわない。
 父の意見こそ絶対。
 それまでの僕もそうだった。
 あの頃の自分に自由があっただろうか。
 今は自由だろうか。
 束縛からの開放――手に入れたと思っていた自由は、僕が求めたものではなかった。
 代償の大きさに後で気付いた。
 過去に縛られたまま、動けないでいる。
 今までも、これからも、ずっと父の呪縛に縛られたまま……。


 兄さんや姉さんが言うあの言葉が本当ならば、僕がそこへ行くべきなのか。


 真の開放を求めるのならば――


 逃げたままではいられない。


 だけどまだ、僕は動けないでいた。

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