53・鍋 計画〜実行
元旦の朝、真部祐紀をアパートから誘拐する?
今年も残り一日と十時間あまりの十二月三十日、そんな企画が提案された。
「誘拐ですか?」
『そうです。ボクがアパートに乗り込んで、祐紀さんを拉致したように見せれば、怒られるのはボクだけですし、祐紀さんは、何もされなかったか? とか言われて心配されるだけで済むでしょ?』
「おお、すごいアイディアですね。相談して良かった」
さすがお兄さん。二十一年も直の兄をやっているだけのことはある。
『はははは。企画発案は仕事の関係で得意分野ですからね。……となると、明日にはそちらに行っておく必要がありそうですね。
元旦の朝、新幹線の出発時刻に丁度いいぐらいで、アパートに押し掛けます。……いや、待てよ……』
と言い、黙って何かを考え出したお兄さん。
『ボクが直紀に怪しげな技で捕まったら意味がないですね』
しまった! 直が小さな巨人であることをすっかり忘れていた!
『あ、そうだ。絢菜にも協力してもらいましょう。さすがに女の子には手を出さないですから』
そして、最終的にはお母さんが仕向けたと直は思い込むだろう。益々険悪か?
しかし、いい方法はそれしかない。
「それで行きましょう」
『じゃ、絢菜に電話、代わってもらえますか?』
片瀬に携帯を返した。
電話を耳に当て、小さく頷きながらお兄さんの話を聞く片瀬の表情は、みるみる困ったような顔に変わっていく。
「ええ、私がですか? 無理ですよ。第一、体格が違いすぎます」
片瀬の慌てた口ぶりと発言から私の誘拐役になったようだ。片瀬の言う体格差もあるし、彼女はなにより生粋のお嬢様。この子ぐらいなら私でも簡単に吹っ飛ばせそうな気もする。
「え、け……坂見ですか? まぁ、それならどうにかなりそうに見えますけど……」
と坂見の方に目で何かを訴えている。
坂見も、自分まで巻き込まれると察し、苦笑いを浮かべた。
「……わかりました。お兄さんの言うとおりにします」
交渉成立! 後は、元旦の朝、決行だ!
電話を終え、携帯を閉じる片瀬。また溜め息をついている。
「お兄さんからの伝言です。当日の貴女の演技に期待していると……」
「演技?」
「そう。わざとらしい中途半端なことをされても、こっちが迷惑するだけです。直紀くんにだってすぐにバレますよ」
「それもそうだね。そっちも、迫真の演技をよろしく」
「言われなくても、するからにはそうします」
とりあえず、正月に鎌井家に奇襲をかける件――あれ? まぁいいか――は、私が誘拐されるということで、うまく直から逃げる手段を得た。
さてさて、演技といえば大先生。
藤宮……じゃなかった。今は林田だったよね。まぁ、いつも通り『ダンナ』でいいか。
出たついでにちょいと寄ってみた。
チャイムを押して出てきたのは、運良くダンナの方だった。
「バカでもできる、迫真の演技だぁ?」
「そうっす、師匠」
ついこの前まで黒髪だったのに、休み中のちょっと見なかった間に髪の色がくすんだシルバーに変色している。そんなに自分の車の色が好きか。いや、もしや、華音ちゃん専用の車とか言って、キーを……逆だそれは。
「誰が師匠だよ。まぁ、とりあえずは……思い込め。以上」
「えー、それだけー?」
それじゃ前に聞いた事あるのと同じじゃん。
「俺に指導させると、発声練習から始めさすぞ」
「いや、遠慮します」
そんなにヒマじゃないし。
それより、あまり遅くなると直の機嫌がどんどん悪くなるだけだ。
「じゃ、いいや。そんじゃまた」
と顔の高さまで手を上げてから階段に向かい、降りて自分の部屋に戻った。
常に最悪の事態を予想して行動するのがいい、とアニメでも言っていた。
怒られることを仮定し、怯えながらも平然とした態度を保ったつもりで部屋に入ると、心配していた直の機嫌は悪くなかった。
「あのさ、祐紀。誰のけっこ……ううん、何でもない。こんな事を聞くのは無粋だよね……」
頬を染め、そんな事を言い出す。何の話だ?
「私、何か言ったっけ?」
「いや、大丈夫。もう忘れるから。ね。そんなにとぼけなくていいから。そりゃ気になるけど……」
変だよ、直。
……ああ! 出掛ける口実についた嘘か。すっかり忘れてた。危ない危ない。直もうまく勘違いしてくれたから良かったけど、あの反応から、何でそれが自分のだと思ってしまったのかが謎だが。
さて、次に突っ込まれた時に誰の結婚式にするかが問題だな。
……ダンナ辺りにでもしとくか。まだ二年先になるっぽいけど。
――次の日、大晦日の夕方、片瀬からお兄さんが現地入りしたというメールが届く。
いよいよ明日の朝、決行される、『真部祐紀、誘拐事件』。
しかし、今から意識する訳にもいかない。普段通りに過ごし、明日もむやみにそわそわしないようにしなければならない。
誘拐が始まってしまえば、財布だの携帯だの言っていられなくなる。
携帯は置いて行ってもいいとして、財布ぐらいは持っていかなくては、運賃が出せない。
あれ? もしかして、コートすら持ち出せないってことじゃん。そりゃマズい。だからと言って室内でコートを着てたら益々怪しい。
ここは、直にたっぷり酒を飲んでもらい、寝たところで片瀬の所にでも財布と一緒に持って行って、明日、持ってきてもらった方がいいかもしれない。さすがに自転車のかごは危険だ。何度かチャリ盗難あったみたいで、『鍵を忘れずに、盗難多発』とか書いてある張り紙が駐輪場にはある。
それをメールで打ち片瀬に返信すると、一応、連絡してから来てくれ、と返事が返ってきた。
それならそれで、早速ビールをお出ししよう。
「直ー。紅白始まったから、ビール飲みながら見ようよー」
ふふ……ふふふっ……弱すぎる。
フラフラになったところでスッキリさせたらあっという間に気持ちよさそうな寝息を立てだした直。
今がチャンスと言わんばかりにコートを羽織り、もう一枚を手に持って、ちゃんと財布も持って、中身はオッケー。多めに入ってる。
こっそり部屋から出て自転車で片瀬の住むアパートに向かう。
連絡もちゃんと取れたから、起きてるみたいだし。
コートと財布を預けたらさっさと帰るつもりだった。
でもさ、この時間に男の靴が玄関にあると、すっごく気になる年頃なんだよね。
「……ごめ、邪魔した?」
「何をですか?」
「……二人の時間」
「……分かっているのならいちいち言わないのが優しさなのではないのですか? その胸に留めようという気はないのですか?」
時間が随分遅いということもあって、声のボリュームは控えめだが、怒りがにじみ出ている。
「本当にゴメン。明日、頼むね。今度何かおごるから。じゃ……頑張って」
「何をですか! だから貴女は……」
これ以上口を開くと本当に怒らせそうなので、後ろに下がりながら両手を合わせて何度も頭を下げるだけにした。
再び自転車に跨り、自分のアパートへと戻った。
帰ったら一杯飲んでから寝ようとか考えながら……。
何時に来るのかははっきりと聞いていないので服は出掛けた時のままで、寝息を立てる直の隣に入って寝た。
朝、布団の中でぼんやりしていた。
時刻は午前八時前。
寝返りを打ったのと同時に目を開けた直。
「おはよ……?」
「おはよ、直」
「何で服着てるの?」
「いや、寒かったからとりあえず。そんでもってまた布団に入って、ぬくぬくしてただけ」
「ああ、そう」
……危ない。
まだ完全に覚醒していないから、こんな言い訳でも通用したわけだ。
「僕、いつ寝たの?」
「あれ? 覚えてないの? 確か――」
――ピンポーン。
来た!
「祐紀、出て。僕、さすがに出られない」
そりゃそうだ。まぁ、丁度いい。
走ってでも玄関に行きたい所だが、緩みそうな顔を何とか制御し、仕方なく体を起こし、仕方なく出るような素振りで部屋を出る。しかし、表情のコントロールはここまでが限界で、ふと口元が緩んだ。そして玄関を開けて……。
「真部祐紀だな。一緒に来てもらおう!」
「は、はぁ?!!」
これは演技ではなく、本当に驚いてしまった。
一昨日の話の流れから一番に出てくるのは片瀬と坂見だと予想していたのにナゼ?
黒いスーツに黒いサングラス。めっちゃ怪しいです、お兄さん。
更に、お兄さんの人柄と見た目の油断もあって、予想よりも強い力で捕まってしまったことに、本気で悲鳴を上げてしまった。
「ぎゃー!! 直、直! たすけてー!!」
バタバタと音を立てて部屋から出てきた直は、全裸。引きずってきた毛布で下半身は隠してあるけど、寒さからか、体も顔も強張っている。
直が部屋から飛び出したのと同時に、お兄さんと私の前に出てきたのは片瀬と坂見。二人も黒いスーツを身にまとい、サングラス。
しかし、直の姿を見て、片瀬は顔を手で覆い隠し、体を反転させた。
「きゃー、何、直紀くん、その格好……」
片瀬のそのセリフに慌てて、毛布で体を隠す事に必死になっている。
「真部祐紀は貰っていくぞ、直紀! ふははははは」
お兄さんの肩に担がれて逃げる形になる。結構、力持ちなんですね。
私を追おうと玄関から飛び出してきた直だが、毛布を踏んで見事に転倒。毛布を押さえて体を隠すのに必死だったようで、顔面を打ったように見えたけど……。
すぐに顔だけを起こして、こちらに向かって叫んだ。
「兄さん、どういうつもりだ! 祐紀! 祐紀!!」
あんな格好である直は、追ってこれない状況であることは確かだ。
階段を降りた所で、私はお兄さんに開放され、待たされていたタクシーに乗り込み、駅に向かう。
しかし、一台のタクシーに大人四人はキツい。
「いやー、祐紀さん、予想外の迫真の演技で驚きましたよ」
「私もお兄さんの格好と予想外に強い力で捕まって、本気で驚きましたよ」
「それより、何ですか、直紀くんの……」
もごもごと最後まではっきりと喋らない片瀬。気付いてるんだったら言うなよ、って言ったのは自分じゃないか。
「いや、昨日、寝かしつけるのにちょっと……」
「まぁ、そのおかげで直紀の攻撃を食らわずに済みましたけどね。あ、そうだ。絢菜、坂見くん、携帯の電源はちゃんと切ったかな?」
「はい、切りました」
直は今ごろ、慌てて私の携帯に掛けて、部屋から鳴り響く着信音に更に不安になっていることだろう。
犯人だと思われている三人の携帯、どれにも繋がらない。
こんなやり方はいけないことだって分かってるけど、これも直の為なんだ。
そう自分に言い聞かせても、直の気持ちを考えると胸が痛む。
でも、でも……。
玄関でこけた直ってば……。
尻丸出しだったよ。
セリフはとても良かったけど、あれは……あれは……。
「……ぷ……くふふふ」
「な、何ですか、急に……」
隣に座っている片瀬が不審者でも見るような表情で、体を引いて私の方を見る。
「だってさ、直、こけちゃって……あははは、ケツ、け……」
裏拳が飛んできた。隣から。そんなに強くはなかったけど。
「もぅ、やめてください! そんな事を言うのは!」
「……ごめんなさい」
さすがにふざけすぎました。
あれ? 何だか駅とは違う方向に走ってません?
「あの……どこに行くんですか? 駅じゃないんですか?」
三人は黙って、こちらを見向きもしない。
「ねぇ、ちょっと、マジでどこに行くんですか!」
これって……冗談じゃなくて、本当に誘拐されたんじゃ……。