48・釜 cross heart
片瀬絢菜。
片瀬家の長女。一人娘でちょっとワガママなお嬢様。
僕の母と絢菜の父が姉弟で、イトコ同士という関係。
片瀬家は、国内でも指折りの大企業らしい。子供の頃にそう聞いただけで、実際どれ程の大きさかなんて知らない。興味もない。
一時、鎌井家次男の僕が、片瀬家の一人娘である絢菜と結婚すればいいなんて話もあったり、なかったり。
――十一月最後の土曜日。
ようやく、頭の中を整理し終わり、絢菜と直接話そうと思って、彼女の住むアパートへ向かった。
祐紀はまだ絢菜を警戒しているようで、僕一人で行く事を必死になって阻止していたが……、
「はい、コレ」
車の鍵を手渡すと、コロリと表情と態度が変わった。
「え、何? ようやく私に車の運転を許してくれるわけ? しょうがないなぁもう……」
表情を緩め、車のマスターキーを穴が開くほど見つめている。
「じゃ、そういうことで!」
猛ダッシュで部屋から出ると、急いで車に乗り込みエンジン始動! 逃げるように車を走らせた。
確かに祐紀に渡したのは、この車の鍵だけど、合鍵というものがあるのだよ。
免許は限定解除したとはいえ、一人で出す程、僕はバカじゃないぞ。
今頃、祐紀はきっと唖然としているか、発狂していることだろう。
携帯の電源はオフにしてある。後が怖いが仕方ない。
邪魔にならない場所に車を停め、絢菜の部屋のチャイムを押す。
すると、出てきたのは坂見。
絢菜一人では話がしづらいであろうと思い、昨日、二人――石野と坂見に連絡しておいたのだ。
「どうぞ」
入るよう促された僕は、ためらう事なく部屋に入った。
部屋の間取りは、僕が前住んでいた部屋とは左右が反対。懐かしいけど、全部が反対で変な気分。
部屋のほぼ真ん中にあるガラステーブル。僕は俯いたままの絢菜の正面に座ると、坂見が絢菜の側に控えた。
僕が怒っていないと印象付けるように、できるだけ明るく挨拶をした。
「こんにちは、絢菜」
絢菜はそんな僕の態度に驚いたのか、目を丸くして顔を上げ、弱々しい笑顔で挨拶を返した。
「あ……こんにちは……」
横では、前もって準備していた紅茶を手際よく淹れる石野。ティーバッグではなく、ポットで茶葉を踊らせる本格的なものだ。その代わり、ポットを暖めたり、蒸らし時間をきっちり砂時計で測ったりで、テーブルに並ぶまでには時間が掛かりそうだ。
話を折られるといけないので、紅茶が出てくるまでの間、僕はもう一度頭の中で話す順番などを確認した。
紅茶が出てきた頃には、部屋の緊張は絶頂。
これでは話がうまく進みそうにないと思い、出された紅茶の感想なんかを話しつつ本題に入ることにした。
口が広めのティーカップの七分目まで注がれた紅茶の匂いを楽しむ。とは言ってもここ数年コーヒー漬けであり、元々、興味もなかった僕はあまり詳しくない。
小指を立てないようにカップを口に運ぶ。何の種類かさっぱり。僕の嫌いなダージリンではなさそうだ。
「これは、どんな高級茶葉ですかな?」
恥ずかしい気もしながら石野に尋ねると、糸目な彼の目尻が『福笑い』のように垂れる。
「スーパーで買ってきた、三〇〇グラム四百九十八円のオレンジペコです」
「石野! また安い茶葉買ってきたの?!!」
生粋のお嬢様は飲もうとしていた紅茶のカップを受け皿に戻した。
「茶葉の値段でその価値を決めるのではなく、どれだけおいしく淹れることができるか、というのが大事だと思います。どんなに高い茶葉でも、おいしく淹れることができなければ、それこそ無駄です」
うん、そうだ! その通りだ! これは庶民にしか分からないことだ。
どんなにお高い肉だって、料理次第でマズくもなる!
「うん、姉さんの淹れた紅茶より断然おいしい」
と僕。実際、姉さんの紅茶はやたら濃く、口の中にまとわり付くような味を出す。あれは、ミルクでも入れなきゃ飲めない、と言っても過言ではないぐらい。それこそ、高級茶葉がもったいない。
絢菜は戻したカップを手に取り、恐る恐るといった感じで口に含んだ。
「……ん……あ、おいしい……」
その言葉に、石野の表情がぱっと明るくなった。
「クッキーも作ってきました! 良かったら食べてください!」
小さなお皿に無造作に積まれた、少々いびつな形のクッキー。焼き加減は見た目もいい、キツネ色。それを見た絢菜の表情がまた少し曇ったので、僕が先に味見をした。
「……あ、これもおいしいね。手作りってどうしても粉っぽくなっちゃうのに……」
ただのお茶会になりつつある。本題からどんどんかけ離れていくのが何とも痛い所だが、これはこれで仕方ないだろう。絢菜の緊張を解すためにも。
また、仕方なくといった感じでクッキーを口に運ぶ絢菜。一口食べた所で表情が変わった。
「この味、なんだか懐かしい……」
「こっちに来る前に、母から教わったものです。お嬢様が好きだったということで、一生懸命作りました」
「……石野……」
何だかそこだけ、愛が生まれたって感じなんですけど、そろそろ本題に入ってよろしいでしょうか?
「もう、知ってると思うけど、二人に全部話を聞いたから、これ以上、追求したり、責めたりするつもりはない。あれから、僕の母さんに何か言われた?」
和んでいた雰囲気が一気に張り詰めた。
絢菜は目を伏せ、首を横に振った。
「この前、電話があった時に、もう絢菜たちに迷惑をかけるなと言っておいた。だからもう心配することはない。僕ももう怒ってないから。もっと大学生活を楽しんだら?」
石野と坂見は顔を見合わせた。
絢菜の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちる。
「……ごめんなさい、ホントに……だって、オバサマが寂しそうで、だから協力したくて……」
一〇〇%押し付けられていたという訳ではなかったのか。それを聞いて少し安心した。自分の事より、人の事を優先するだなんて、絢菜は優しすぎるよ。でもそれが、片瀬絢菜という人間なのだ。
「オバサマは、直紀くんに戻ってもらいたいだけなんです。子供が、自分の手の届かない所に行ってしまって、不安なだけなんです。オジサマは公邸に住んでらっしゃるし、お兄様はご家族と共に家を出られました。お姉様は仕事の関係で家に戻られるのは休暇の時だけ。オバサマは一人で寂しいだけなんです」
僕の知らない母の悲しみ。それを知ったところでほいほい家に戻る訳にもいかない。
「……事情は分かったけど、僕は気軽に戻れるような身じゃないんだ」
「勘当されたからですか? 勘当されたら、親子の縁は切れるのですか? そんなことない。直紀くんの家族は、オジサマとオバサマ、お兄様とお姉様。それ以外の誰でもありません」
絢菜は、涙を流しながら強い眼差しで真っ直ぐ僕を捉え、訴える。
今、言われた事に間違いなどなかった。家に戻らないのは、僕のわがまま? 父のやり方に対する反発――抵抗? それ以外の理由があっただろうか。
大学卒業までは金を出すと言った父。二度と帰ってくるな、とも言った。
悪い方にしか捉えていなかったけど、大学を卒業すれば就職するんだし、金銭的な援助は一般でもそこまでのはず。帰ってくるなというのは、まぁアレだし、そう言われても仕方のない事をした訳だし。
それでも、そう考えたとしても、父に対する嫌悪感が消えてなくなる訳ではない。あの人のやり方には付いていけないというのが正直な意見だ。
「確かにそうかもしれない。そうだと思うけど、僕は今の生活が大切なんだ。だから……せめて大学を卒業して、ちゃんと就職して、落ち着いてから考えたいんだ」
自分が一人でもちゃんとやっていると、自身持って言えるようになる、その日までは――。
「〜〜〜頑固者! オジサマと変わんないじゃないの!!」
おお、言ってくれたな、このやろう。
絢菜は手で顔を覆って泣き出してしまった。
あーもう、僕にどうしろと言うのだ。
石野がそっと絢菜の背中を撫でた。顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃの顔を石野に向け、小刻みに震える絢菜。
石野はそっと両手を広げ……。
「うぁぁぁぁん」
絢菜は石野の反対側に座っていた坂見の方にすがり付いて泣き出した。
「うえ? あ、あの、絢菜さん?」
まさか、自分の方に来るとは予想もしていなかった坂見は焦り、一方、広げた両手が何とも虚しい石野は……、
「うわぁぁぁん、お嬢様のバカー!!!」
と耐え切れず、走って部屋から逃げ出した。
いやー、さすがに僕の予想も大ハズレだ。というか、見事な三角関係だったのね、キミたち。
さりげなく、新カップル誕生を願いつつ、僕は部屋を出て石野を探しに行った。
近くの児童公園に彼の姿はあった。しかも、滑り台の上で体育座りして、ズルズルと鼻をすすっている。遊んでいる子供に、大人が泣いてる、とかって言われてるし。
「元気だせよ。まだ若いんだから、失恋の一つや二つ……」
失恋……しまった! 経験のない僕が言うべき事じゃなかった。
「ぼくは小さい頃からお嬢様の近くにいるのに、この仕打ちはヒドイです」
おいおいと泣き出す石野。困ったことに、公園に遊びに来ている子供のお母様方の不審者でも見るような視線の方が痛い。
「話ぐらいならいくらでも聞くから、とりあえずそこから降りてきなさい」
素直に立ち上がると、ご丁寧に滑って降りてきた。子供たちから、大人は滑っちゃだめ、と大ブーイング。石野を引っ張って逃げるように公園を後にした。
とはいうものの、どこで話を聞くか考えてなかった。この前のファミレスでおいおいと泣かれても困るし……あ、車忘れてきた!!
とりあえず、嫌がる石野を引きずって絢菜の住むアパートまで戻り、車に乗せたまではよかったけど、結局行く場所がないので、僕が住んでいるアパートに戻ることになった。
それもある意味怖いんだけどね……。
想像通り、車の音で気付いた祐紀が、玄関の外で待ち構えていた。
「おかえり。さっきはよくも騙してくれたわね」
仁王立ちで、これでもかって言うほど仰け反っている。しかし、目が虚ろだ。どういうことだろう?
「ごめんなさい、すみません、申し訳ございません。それより、失恋しちゃった石野くんを励ましてはくれないか?」
ちらりと石野の方を向く。『にわかせんぺい』に涙でも描いた様な何とも言えない表情だ。
「誰に失恋したの」
「絢菜」
祐紀の表情がぐしゃっと瞬時に歪んだ。
「女なんてなぁ、星の数ほど居るんだよ」
そんな表情で言われても、説得力ない。逆に惨めだ。
「酒飲んで忘れちまいな」
親指を立てて部屋の方に向けると、祐紀はさっさと入っていった。
石野の背中を押して、僕も部屋に入ると……キッチンはビールの缶が散乱していた。……僕が逃げてから自棄酒でも食らっていたようだ。どうりで目が虚ろなのか。
ついこの前、坂見に言われた例の調査報告で向こうにバレてるというのに、直そうとしないキミの神経がどうにかなってるのか。すぐに酒に走る性格を何とかしてやらなくては……。
祐紀の部屋であり、普段、僕らが時間を過ごす部屋で、ようやく話を聞くことになった。
「ぼくは気付いてたんです。初めて坂見に会った時のお嬢様の表情……あれは一目惚れだと……」
「米の名前か?」
「祐紀!!」
石野はマジメな話をしてるんだから、茶々を入れない! それでも、小声でブツブツと、ササニシキだの、秋田小町だの、トマコマイだの言っている。トマコマイは米の名前じゃなくて、北海道の苫小牧だろ。オシャマンベも同じく。
「ぼくは小さい頃からお嬢様の遊び相手として、話し相手として一生懸命お仕えしてきたのに、所詮、ただのボディーガードでしかないのです」
「らぶ・いず・おんりー。所詮、遊び相手」
「いいから黙ってなさい!」
「……ケチ」
何が言いたいのだ、キミは。機嫌が悪いからって、崖っぷちから突き落とすようなまねはやめなさい。
「大丈夫、お酒が全部忘れさせてくれるわ……」
と手に持っていた缶ビールを差し出す祐紀。柔らかく笑って良い表情だが、いかにも酒の勢いであることは明らかだ。
「いただきますです!」
石野はためらうことなくそれを手に取り、一気に流し込んだ。おいおい、大丈夫か?
「今は辛いかもしれないけど、いつかきっと、運命の人にめぐり会えると思うよ」
自分でもキマった! と思ったのもつかの間、やはり祐紀が食いついてきた。
「それってアタシィ?」
まぁ、僕にとってはその通りではあるが、この状況でのろけるのもどうかと思い、適当な返事をした。
「んー、まぁ……ね」
ちらりと石野の方に視線を戻すと、人差し指を咥え、羨ましそうにこちらを見ていた。
「燃えるような恋がしたい……」
無茶言うな。
――月曜日。集合を掛けていない日でも、ただ時間潰しの為に部員が出入りするボランティアサークルの部室。
待ち合わせに使う者も居れば、世間話をする為に来る者も居る。
そういう僕も用事がないのになんとなく足を運んでいた。
「あ、直紀くん、やっぱりここに居たんだ」
久しぶりにこの部室にやってきた絢菜は、腕にがっちりと坂見を捕らえていた。
「あのね、賢もボランティアサークルに入ってもいいかな?」
ケンって誰よ。坂見のこと?
「ああ、別にいいけど」
「うわーい、やったー。よかったねー」
子供のようにピョンピョンと飛び跳ねて喜ぶ絢菜。何だかすっかり人が変わってしまったようだ。
「私、直紀くんが言ってくれたように、これからは大学生活を満喫しようと思うの」
絢菜は更に坂見に密着。坂見は顔を真っ赤にして困り果てている。あれから何があったかは分からないけど、とりあえずおめでとう……でいいのかな? 実は絢菜の一方通行で、お嬢様の権限で引っ張りまわしていたら目も当てられないけど。
「直紀さん……やっぱりウチの親ってリストラされますかね?」
ボディーガードがお嬢様の恋人だからねぇ……。
「大丈夫よ。私がちゃんと言ってあげるから。もし反対するようだったら、かけおちでも何でもするわ!」
「えええ?!!!」
それは意味が分かってて言ってるのか、絢菜。自分と彼の立場をよく考えてから言ってくれ。
一連の絢菜の不信な行動事件は、こうして幕を閉じたのであった。
っていうか、何で絢菜の恋愛成就までしてるんだか……。
これから先の事は、僕自身の問題。