35・鍋 動き出す時間
テレビの音に混じって、時計の秒針がカチカチと時を刻む……。
二人が買い物に出て、そう時間は経っていない。
それなのに只々、重苦しい雰囲気をがこの部屋を支配しているだけで……。
おおう、どうすりゃいいんだよぉぉぉ。
兄ちゃん、テレビばかり見てないで、何か話題を振ってくれー!
よし、こうなったらテレビから話題を探すか。
「コンビニ強盗だって。カメラいっぱいあるのにさー」
「ああ、すぐに捕まるだろ?」
………………。
「いやー、あの芸能人、不倫してたんだー」
「……いちいち騒がれて、迷惑だろうな」
………………。
だめだぁぁぁぁ!!! 間が持たん。早く帰ってきてよー。つーか兄貴、新聞読んでるオヤジみたいな反応すんな。冷めすぎ! 紗枝さんと一緒に居る時の勢いはどうした!!
すると、どこからかネコみたいな鳴き声が聞こえていることに気付いた。
「んにゃー、んにゃー、んにゃー――」
ネコにしちゃ変だな? 部屋の中を経由して聞こえてくる。
「あー、やっぱりな」
兄は立ち上がり、部屋を出て行った。それを目で追うと、瑞希が寝ている部屋のドアを開けると、鳴き声は大きくなった。……鳴き声じゃなくて、泣き声だったのか!
瑞希を抱っこしてこちらに連れてきたけど、まだ泣いている。
「ちょっと、抱っこしといて」
――ふぇ? ちょっと待ってよ! 赤ちゃんなんて抱っこしたことないのに……。さっきも見てただけなんだから!
「赤ちゃんなんて、抱いた事ないよぉ……」
「男抱いてる時みたいにすりゃいいんだよ!」
ナヌ!! 爪を立てるのか! ニャー!! いや、そこまでしないけど……。
「手、上に向けて膝の上に乗せろ」
「あい……」
手がフォークリフトのツメみたいな状態。その上にゆっくりと瑞希を下ろした。
散々泣いていたのか、体は熱く、まだまだ泣き止みそうにない。
瑞希を私に預け、兄ちゃんは台所で何かを始めたようだ。私の位置からは確認できないが、カチャカチャ、ドボドボ……、カランカラン、と何をしているのかさっぱりな音だ。
戻ってきた兄の手に握られていたのは、ミルク入りの哺乳瓶だった。なるほど。腹減りちゃんだったのか。それを私に渡す……飲ませろっての?
「ほら、ちょっと頭高くして、先を口に当てる。口が開いたら突っ込め」
恐る恐る言われたとおりにやってみる……。うあ! しまった、がんし……じゃなかった、顔にミルクが! 瑞希は驚いて、ひどく泣き出した。あわわ、とりあえず飲ませなきゃ。
なんとか口に突っ込み……。
「おおおお!! 飲んだ!!」
と感激していた。
「変な時間に買い物に行くと思ったら、そういう訳か……」
聞こえるか聞こえないか、独り言のように言った。え、どういう訳?
「……もし、産んでたら、五歳ぐらいだろ?」
「……そだね」
何でその話するかな?
「……もしかして、ここに呼んだのは、皮肉だった?」
「……全然。もう終わったことだし、直はそれでもいいって言ってくれたから」
直に隠している間、何かと気にはしていたけど、打ち明けてからはほとんど忘れている。でも兄貴はまだ、そこから動けないままなんだね……。
家族が知ったのは何もかもが終わった後だった。
二人だけで決めてそうした。いや、押し切られた、だからそうするしかなかった。
出血が止まらず、倒れたことで知られ、受胎機能ももう役割を果たさないと告知された。
それから、何を信じていいのか分からなくなった。
それがトラウマってのになって、男性不信、男嫌いになったんだと思う。
「やっぱり、まだ気にしてるんだ……」
「当たり前だろ! お前が勝手にその辺から拾ってきた男とだったら、バッカじゃねーの? で済ませるけど、こっちは親友だと思っていたヤツに裏切られてんだぞ。――家に連れて来なかったら……もっと早くに家から出てたらって、何度も思った。……っていうか、お前の方が気にするだろ普通は! 感情プッツンしてんじゃねーの?」
おお、怒るか! 逆切れか!
「……しょうがないじゃん、もう。直がそれでいいって言うんだから、それでもいい」
「哺乳瓶! 立てろ!」
おいおい、会話が全く違う方向に……。手元の瑞希に視線を移すと、無我夢中で哺乳瓶に食いついているが、おお!! ちゅーちゅー言うかと思えば……空気ばっかり食わせていた。すまん、瑞希。
哺乳瓶を立てて、話も立て直すのかと思えば……。
「やっぱ、アレとエッチするとき、生なの?」
その表情には少々羨ましいがミックスされている。
「……いや。聞くなよアホ」
何でそういう話の流れになるかね?
「そういう兄ちゃんはちょっと一回だけ……で妊娠させちゃったの?」
「……うん。聞くなよバカ!」
そう、こういうつたないバカ話で笑い合える……、そんな兄妹だった。
ああ、そういえば、いつも「兄ちゃん」って呼んでたんだ……。
それから、色々話した。兄ちゃんが知らない話、私が知らない話……。
「そういえば、瑞希って名前、誰が考えたの?」
会話が途切れ、ふと思いついた話題を兄に振ってみた。
「俺」
「……意味とかあるの? それとも適当?」
「さりげなく間があったような感じがしたが、突っ込まないでおこう。『瑞』は瑞々(みずみず)しいとか、めでたいで、『希』は希望のき」
「……なんだ、祐紀と直紀と同じ『き』じゃないんだ」
「何で?」
「何となく、語尾締めが『き』で共通してると思っただけ……」
――女って、何かと共通点を探して見つけて喜ぶよね……、と前に、直に言われた事があったかな。今、初めてそのことを自覚した。
「……まぁ、違うとは言い切らないけどさ」
でも、ちゃんと意味のある、親の思いや願いがこめられている名前はステキだな。
「兄ちゃんの名前はどうなの? 意味とか」
「……真部家に待望の第一子が誕生したよ。うわーこれはめでたい、めでたい。『コトブキ』と書いてヒサシだ。聞いた時にはグレようかと思ったけど。言うまでもなく、アダナは『コトブキ』だったけどな」
そういえば、友達に「コトブキ」って呼ばれていたのを聞いた事がある。最初は誰の事か分からなかったけど。書いて字の如し、そのまんまだ。コトブキ兄さん。
「友達の結婚式に出ると、いっぱい書いてあるんだよね、俺の名前。引き出物にもしつこいぐらい」
真顔で言うから思いっきり吹き出してしまった。
「ふふん……。おめでたい名前で……」
「お前なんか、『勇気』、勇ましく気の利いた子に育て! という意味が含まれていながら、適当に当てた字じゃないか!」
「な……なにおー!!!」
誰だよ、そんな適当な事を言ったヤツは!
「一時、そりゃもうおぞましい程、勇ましい子になってたけどな。『キ』が姫の字じゃなかっただけましだけどな」
「いやぁ、過去の話じゃないか」
「ほんの一、二年前までの話だよ」
何だか急に恥ずかしくなってしまった。アレはアレで仕方なかったんだよ……。
腕に抱いたままの瑞希を見ると、幸せそうな顔で寝息を立てている。しかし、手が痺れた……。
紗枝さんと直が帰って来る頃には、すっかりわだかまりも解れていた。
紗枝さんと、瑞希のおかげだね。ありがとう。
「もう二度と買い物には行きたくない……」
体の大きさに似合わない程、大量の買い物袋を持たされている直。台所に荷物を運び込み、下ろすと、大きく肩で息をしだした。四階じゃなくて良かったね……。
「はい、ご苦労様。ご褒美の炭酸麦ジュース……」
お義姉さん、それビールじゃん。
「いや、ご飯食べた後で頂きます……」
ヨロヨロしながら居間まで行くと、バタリと倒れ込んだ。
「……お義兄さん、毎度あんなのですか?」
顔だけ兄ちゃんに向けて聞く直。
「いや。今日は特別だと思う。いつも二袋、多くて三袋だけど」
「……五袋……。指の感覚が変だ……」
二回に分けて持ってくればよかったのに……どうしたんだ、直!
「二回に分けて持ってくるの、許可してくれなかっただろ? 面倒だとか何とか言ってさ……」
「……はい」
あ、それで……。
「だったら持ってくれればいいのに、手ぶらでさっさと帰っちゃうでしょ?」
「……はい」
ああ、何か紗枝さんってそういう感じそうだね……。女王様っぽい感じがするし。
「俺も何だか人選ミスを……」
目にも止まらぬ早業で何かがすっ飛んできた。ソレは兄ちゃんの頭に炸裂。兄ちゃんと一緒に床に転がったのは、レンコン。激突と落下の衝撃でみごとに真っ二つ。
直も驚いて飛び起き、床に転がったモノを見ていた。
「見事なレンコン術ですね……」
錬金術ならぬ、レンコン術? いつからそんな絶妙なギャグを言うようになったか?
「はすっぱなお嬢さん貰うと困るわ……」
とか言いながら起き上がり、割れたレンコンを見て顔色が悪くなっていった。
「……レンコン……連……恋、婚……割れて真っ二つ……離……婚?!!! にゃー!!!」
連想ゲームを始めたと思ったら、キャラがガラっと変わったぞ! 慌てて台所に駆け込み紗枝さんの前で土下座……。
「ごめんなさい、すみません、もう言いません。冗談です。言葉の綾です。言い間違い、聞き間違えに間違いございません。紗枝さんだけを心から愛してます……俺にはもったいないぐらいです。結婚してください」
機嫌取りに必死なのはよく分かるけど、言っている事がメチャクチャだな。
「いやぁね〜、美人だなんて〜」
頬に手を当ててオホホホと満点笑顔の紗枝さん。
「言ってない、言ってない」
正直にそう言ってしまった兄ちゃんは、蹴り上げられ、ひっくり返ったカメのようにもがいていた……。
うーむ、すごい夫婦だ。絶対マネしたくない。
喧嘩したくない女性ナンバーワンは、貴女に決定です。いつぞやは直だったけど。
それを見ていた直は……真っ青な顔で、うちの姉さんがかわいく見える……、と漏らした。あの人も十分、独特ではあるが……。
兄夫婦のやりとりは毎度のことらしく、何事もなかったように楽しく夕食をご馳走になった。
今日はここで一泊……。
夜中に何度か瑞希の泣き声を聞き、その度に紗枝さんのあやす声……。子育てって大変だな〜、と思った。
次の日は我が実家にお泊り。
直は気を使い過ぎてアパートに戻った頃にはぐったりしていて、すぐに寝てしまった。
いやいや、お疲れ様でした。今日はゆっくり休んでちょうだい。
――真部祐紀……ちゃんと知ってるよ、名前の意味ぐらい。兄ちゃんには適当な事言ったのかもしれないけど、『祐』人を助けろという意味、『紀』始まりや、おさめるという意味で、この字になったんだってさ。
両親が名前に込めた思い、願い……。名前に負けないように頑張らなくては!
よーし、ボランティアも頑張るぞー。……あれ? 最近ミーティングとか言いながら雑談ばっかりでサボってますよ?
……免許? ああ、そういえば限定解除を考えてたような気がするけどすっかり忘れてた。そろそろ本当に行こうかな? 直の性格上、運転させてくれそうにないけど、運転代われたら遠出した時とか、直ももうちょっと楽になるんだろうな……。