32・鍋 ミス
「祐紀……」
「直……」
甘い瞳で見つめ合い、時折キスを交わす。
椅子に座る直に、またがっている格好の私……。
それにしても、いきなりこの始まり方はないだろう。
今日も、新入部員待ちの為、部室棟の一室に居る。直が私の首に吸い付いたり、イチャイチャしてみたり……部室は既にピンク色。誰か来たら大変だよ、実際。
私から視線を外すと、直は顔を歪めた。
「……まだ、見てるよ」
「欲求不満じゃないの?」
しかし、部室の一箇所だけ、やたら冷めている。背後から冷気が……。この夏はエアコン要らずか?
それにしても、アイツさえ居なければ……。
「……」
無言で、見られているのも、気分が悪い。
アイツ……片瀬絢菜さえ……。
「もう、こうなったら……」
直が、私の背中に回していた手をベルトに掛け、外し始めた……。
「いや、それはマズイって……」
「もう……僕、我慢できないよ……」
直は頬を染めてそんな事を口走ってる。一応ココ、学校なんですけど。
「そう言われても……ねぇ……」
後ろを振り向くと、鋭い表情で片瀬はこちらを見ていた。少々、顔を赤くして……。
いや、居なかったらしちゃうのかって? するわけないじゃん、常識で考えて。
「顔、赤くするぐらいなら、帰れば?」
私と目が合っただけでも一触即発? 視線をそらし、体ごとそっぽを向いた。
「……ムカ」
昨日といい今日といい、一体何だ、コイツは!
言いたい事があるなら、黙ってないではっきり言えよ!
ギリっと歯を噛み締めると、直の口から大きな溜め息が漏れた。
「……あんべえわりぃ……帰る……」
この状況にうんざり、というよりも、呆れたような口調だ。
あんべえ? 何語?
「今更、誰も来ないだろうし。帰るよ、祐紀」
「あんべえわりぃって何? 東北弁?」
かなり真剣に聞いたが、直の顔は引きつっていた。
私を膝から降ろすと、椅子から立ち上がり、怒り出した。
「誰が東北出身かー! アヤシイ方言を東北か沖縄に限定すんなー」
東北と沖縄の方に非常に失礼なことを言いました。直の代わりに誤ります。ごめんなさい。
直は千葉出身だから、あっちの方言か……。理解不能な方言は初めて聞いたぞ。
帰り際に、改めて聞いたところ、『具合悪い』ということらしい。そりゃ、悪くもなるよな。
アレだし……
同時に部室を出てから、ヤツはずっと三メートルぐらい後ろを黙って付いて来ている。
このままだと、住んでいる場所がバレてしまう。同棲している事も……。
「今日、ホテルに泊まれとでもいうのか?」
直は、後ろの片瀬に聞こえるように大きめの声で喋りだした。
「直……そういう言い方は、返って逆効果じゃ……」
そう言うと、直はピタリと止まり、向きを変え、片瀬にビシッと指を突き付けた。
「いい? キミのしている事はストーカーと同じなの。例えキミがどんな手段で僕と祐紀を引き離そうとしても、ムダだからね」
うわ……かっちょい〜。思わず直に見とれてしまったよ。
片瀬もショックを隠せず、みるみる泣き出しそうな顔に変わっていった。
それを見た直も表情を硬くした。
「……ごめん……僕はこういう人間だから。キミが知っている僕とは、もう違うから……」
他人をキズ付けていることが分かっていて、平気な訳がない。直は、根が優しいから余計に気分が悪いだろう。
ふと、直が自分は男だと打ち明けたあの時のことを思い出した。
私を騙していたという罪悪感、小悪魔のような笑顔に隠された悲しみ、絶望……。
今にも倒れそうな、部室棟へ躊躇せず救助に向かった。
あの時は、自分はどうなっても良かった、とまで言い切った。
そんな直が、そこまで言うのは、誰の為?
……私?
私を不安にさせたくないから?
でもだめだよ、このままじゃ。
「あの、片瀬……さん、ウチに来る? 実は……直と一緒に住んでるんだ……」
「ちょっ……祐紀!」
「直、本人が納得しなきゃ。無理やり引き離そうとして、直まで傷ついてたら、あの時と同じだよ……」
あの時は……丸く収まったから良かったけど、今回は相手がイトコじゃ、後味悪いじゃないか!
「……直も、全部話した方がいいんじゃないかな? 勘当された理由も、私と付き合いだした時の事も、全部……」
キッと鋭い表情で私を見ると、体をこちらに向け、指だけ片瀬の方を指した。
「そんなんで納得するような子じゃないんだよ、アレは!」
パタパタと私の側に駆け寄ってくる片瀬。
「真部さ〜ん、話、聞かせてくださ〜い」
えー? 直が言うほど聞き分けのない子じゃないよ。今まで散々睨んでたくせに、超笑顔だし。まるで仔犬のように私を見上げてくるので、思わず頭を撫でてしまった。
「ほらほら、直ってば潔癖すぎるんだよ」
笑顔で視線を片瀬から直に向けてみたけど、顔色が悪いだけじゃなく、引きつっている。
「騙されてる!!」
「え?」
そうか? 直ってば、警戒しすぎ……。
アパートに到着すると、片瀬は部屋を隅から隅まで勝手に見て回った。
「やっぱり、部屋が二つある方がゆったりしてていいですねー」
しかも超笑顔。ナゼか携帯で写真を撮っている。
……まさか、コイツも古賀ちゃんと同類じゃないだろうな?
片瀬の笑顔とは逆に、直は眉間にしわを寄せて、鋭い表情のままだった。
「こっちの部屋で待ってて。飲み物持ってくるから」
基本的に、直の部屋は寝室だから、私の部屋で待つよう促した。
「はぁい」
素直に返事をして、テーブルの前にちょこんと座り、辺りをきょろきょろ。
私は冷蔵庫から飲み物を出すと、三つのグラスに注いだ。
「どういうつもり?」
直ってば、まだ機嫌悪いみたい……。
「どうもこうも、彼女は私たちの事を理解してくれたんじゃないか?」
「どこが!」
怒鳴らなくてもいいのに……。
「これから話せば分かるって」
直はそれ以上何も言わず、私の部屋に入っていった。
「で、直ってば私の事、男と勘違いしてたわけよ。まぁ私も直を女だと思ってたんだけどね」
過去のロマンスをたんまり聞かせることにした。これで引けば、万々歳だ。
「ねー、直……」
話を振ってみたが、部屋の隅で頬を膨らませ、そっぽを向いていた。
「えっと……」
「それから? それから?」
片瀬は目を輝かせて、私の話を真剣に聞き、続きを催促してくる。
別れの危機、部室棟倒壊、リンダ登場……抜去手術、と話は進んでいった。
「で、今に至ると……」
「へー、直紀くん、お酒飲み過ぎるとやっさいもっさい出ちゃうんだ。私が木更津なんですけど、何度かお祭りに参加したからじゃないかなー?」
なるほど、キミも千葉県民か!
「あら、いけない、ずいぶん長居してしまったみたい……」
外は少し、暗くなり始めていた。
「あ、ゴメンね。長話しちゃったみたいで……」
「いえ、楽しかったです。直紀くんの話もたくさん聞けたし」
「直、彼女、送ってあげたら?」
結局、一度も口を開かず仏頂面だったけど、重い腰を上げ……部屋(寝室)に戻ってしまった。
あれはかなり機嫌が悪いな……。
しばらくすると、チャラチャラと金属が接触するような音……。
まだ虫の居所が悪そうな顔のままだったけど、ようやく口を開いた。
「面倒だから、車で送る」
ああ、鍵取りに行ってただけなんだ。
直と片瀬を玄関まで見送った。
「じゃ……」
片瀬の超笑顔は一変……何か企んでいるような薄笑いに変貌した。
「また、来ますね……」
その言葉にも、違和感がある。
一気に背筋が凍りついた。
――この女……。
ニタリと妖しい微笑みを浮かべたまま、玄関の戸を閉められた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
――寝取る気満々?
何をどう考えてそういう結論に達したのかは分からないが、急に体中を煮えるような怒りが支配し、気付けば部屋の中を走ってベランダに出ていた。
丁度、車に乗り込もうかという所だ。
私は二人の方に向かって叫んだ。
「直! その女、途中で捨てて来い!」
直は、こちらに向かって、手をひらひらさせていた。
片瀬が車の助手席に乗り込もうとしたら、急に直は大声でそれを制止した。
「ちょっと! 助手席は彼女の特等席なんだから後ろに乗って!」
あらやだ。嬉しい事言うじゃない?
「うるせーぞ、ボケカマ! ……うおぁ、浮気……?」
右上の方から聞き覚えのある声……。同じアパートに住んでる、藤宮だな?
「これのどこが浮気かー! 僕のイトコだ。変なこと言うとけったぐるぞ!」
「その短い足が俺に届くのか?」
直が目の前に居ないからこそ、でかい口を叩く藤宮。
直の表情が笑顔になったのが、遠目でも分かった。
「昨日、新入生メロメロさせたの、バラすぞ!」
何だそれは?
「うわ、バカ! ここで言うなー!!」
何か起こりそうな予感がし、柵から体を乗り出して上を見上げると……
「ひー、ごめ……カノ……も、しません……あた……」
藤宮は雑誌か何かで思いっきり叩かれ、いい音を放っていた。
大声で叫び、会話する(?)異様な風景。最終的に……
「うるさい! 黙れ、ゴルァァァァァ!!!」
他の住民に怒られました。ごめんなさい。
直が帰ってきてから、散々言われましたよ。
「祐紀は人が良すぎるっていうか、騙されやすいっていうか……」
「申し訳ございません」
「僕がここに来てから、新聞の勧誘、何件断ったと思ってんの?」
新聞の件は、今関係ないじゃん……。
「……以後気を付けます」
「まぁ、どのみち絢菜は尾行をやめなかっただろうし、いつかはバレる事だとは思うけど……絶対、何か企んでる……」
――直のイトコ。
――直が好き?
――私は邪魔者。
……三角関係の方程式?
再び、ライバルの存在を意識し、燃えだした。
「片瀬め! この私を騙すとは許せん! 例えどんな手で来ようとも、直だけは渡すものか!」
「……僕はちゃんと忠告したのに、それって今更だよね……」
「もう、言わないでくれ」
十分後悔してるさ……。
これが原因で、また明日から地獄のような日々が始まろうとは、この時は考えもしなかった……。