011 突撃! でんじゃらす・がーる☆ 【北都―4】
なんてことだ。
オレとしたことが、肝心なことを忘れていたことに今頃になって気付くとは……。
脳内に展開していた方程式が全て消えた。
目の前には数字の書き込まれた答案用紙。
こんな時に思い出すオレもオレだ。
二時間目――数学の模試の最中に携帯番号とメアド交換を忘れていたことに気付くなんて!
彼女と一緒にいられたこと、話ができたこと、想いが届いたこと……幸せすぎたあの時間が、肝心なことを忘れさせていた。
締め付けられるように痛む胸――今すぐ彼女の許へ行きたいと、心が訴えてる。
行けるのなら、今すぐ行きたい。だけど……そういうわけにもいかない。
頭を振って目の前の問題に集中しようとしたが、片隅にはずっと彼女の影がちらついていた。
――朝六時。
三時間弱の眠りから覚めたオレは、朝食の前にざっと問題集を復習(さら)った。
今日もラジオ体操には参加せず、七時には身支度をして朝食を取り、七時四十分には家を出た。
寝た時間のこともあり、彼女はオレがいる時間には起きてこなかった。
教室に入ると、まるでテスト期間中のような雰囲気。直前まで熱心に勉強してるヤツ、諦めてるヤツ、ギリギリで頭に叩き込もうと必死になってるヤツ……様々だ。
今日の席順は出席番号順に、という指示が黒板に書いてあったので、自分のではない一番後ろの席に着いた。
ショートホームルームでざっと説明があり、模擬試験が始まる。
一時間目の国語から始まり、午前中に四教科。昼食を挟んで五時間目の英語で終わる。
普段なら給食だが、今は夏休み中ということもあり、弁当持参。朝から親が張り切って作った、とんかつがおかずのヤツもいるんじゃないだろうか。
集中しきれないまま、二時間目、三時間目、四時間目と過ぎていく。
肝心のテストは……いい評価は期待できない。担任からはきっと、こんな時期に――とか言われるに違いない。
溜め息が漏れる。
教室内では仲のいい者同士が固まって弁当を広げている。
オレは一度廊下に出て、ポケットに入れていた携帯の電源をオンにした。
何も受信していないことぐらい分かっているのに、そうせずにはいられなかった。
そして、彼女が帰る時間も刻一刻と迫っていることに、胸が締め付けられるように痛む。寿命が縮んでいるのではないか、と思うぐらい、彼女を想えば想うほど何度も締め付けられた。
しばらく携帯を見つめていたが、何も起こることはない。
電源を落としてたたむとポケットに戻し、教室に戻って昼食を取ることにした。
残るは一教科。
しかし、オレは限界に達していた。
視点が定まらない。目の前の答案に集中できない。時間が気になって仕方がない。もう一度、彼女を……一目だけでも、一言だけでも……。
とりあえず、目の前の問題を何とかしようと思い、答案に目を向けて一瞬息をのんだ。
な……!?
無意識のうちに書いたのだろう。答案の空いている部分に『み−』と書いてあった。
何を書こうとしていたのか、容易に想像できる。
消しゴムでそれを丁寧に消したが……余計、問題に取り組めない状態になってしまった。
ペンの走る音しか聞こえない教室なのに、オレからは何度も溜め息が漏れた。
――あと、十分。
――あと、五分。
五十分という時間がこんなにも長いと感じたことがあっただろうか……。
彼女はもう、駅へ向かう途中だろうか……。
時間ばかり、気にしていた。
いや、彼女に会えないことを気にしているから時間が気になるのか……。
今、ここから飛び出して行けば、ギリギリ間に合うかもしれないし、間に合わないかもしれない。
本当は、こんな所でじっとしていたくなかった。
走り出したかった。
自分のことなんて全て放り出しても――
――キーンコーンカーンコーン
テストの終了を知らせるチャイム。今日の模試はこれで終了。この後、ショートホームルームで担任の話があってから帰ることになるだろうけど……じっとしていられるはずもなかった。
後ろの席であるオレは監督先生の合図で列のテストを集めて先生に手渡し、席に戻る。
教師の退室と共にオレは持ってきたものをさっさと片付けて肩に引っ掛け、教室から飛び出していた。
「おい、鎌井!!」
先ほどまで教室にいた先生を追い越し、階段を下り、生徒玄関で靴を履き帰る。上履きを持って帰ることも忘れず、手に持って駐輪場へ――。
自分の自転車にまたがると、駅へ向かって漕ぎだした。
駅までは、できるだけ時間を気にせず走った……つもりだ。
頭から顔へと流れる汗も、肌に張り付く制服も、今にも悲鳴を上げそうな足も無視して、途中でひっかかる信号を待つ時間を、とてつもなくわずらわしく感じながら、ひたすらペダルを漕ぎ続けた。
自転車を半ば放るように駐輪場に置き、限界を超えそうな足で更に走る。
発車時刻だったのか……駅構内へ入った時に、丁度ホームへ電車が入るような音が聞こえる。
改札前には彼女たちを送りに来たであろう母と恒の姿。オレは二人の横を無言で駆け抜けた。まだ学校にいるはずのオレを見て驚いていることだろう。
入場券を買う時間さえも許されていないこの現状。オレは迷いもなく改札口へと突っ込んだ――が、予想通り、階段前で駅員に取り押さえられていた。
「離せ! 後でちゃんと払うからっ!」
どんなに必死で訴えても、子供の言うことなんて聞いてもらえるはずもない。
母が慌てて自分がオレの母親だと名乗り出てくれたものの――そんなことをしているうちに、電車は動きだしてしまった……。
オレは駅員を振り切り、たった今電車が出発した三番線ホームへと向かう。無駄だと分かっていながら……走らずにはいられなかった。
最後に一目だけでも、言葉が交わせなくてもいいから、彼女の姿を――。
階段を下ってくる、電車から降りた乗客の波を掻き分け、
「頼む、どいてくれっ!」
もたつきながら避け、蹴るように階段を駆け登る。
階段を昇りきり、ホームに出た頃には、遠く離れ小さくなった電車が見えるか、見えないか……。
いや、ホームには大きな荷物を抱えたまま立ち尽くす一人の少女がいた。
自分でも信じられなかった。目に映る少女は、オレが作った幻影か?
乱れている呼吸のまま、大きく息を吸い込んで、オレは彼女の名を……初めて呼んだ。
「瑞希!」
彼女は消えなかった。腕で顔を拭い、ゆっくりとこちらを向いてくる。拭ってもまたあふれ出したのか、瞳にいっぱい涙を浮かべたまま。
そんな彼女を見て、まだここにいてくれたことに安心したのか、体が急に重くなってきた。学校から全力で走ってきたので、ものすごい疲労。普通に立っていることさえも辛く、前屈みになる体を膝に手を突いて支え、数回大きく息を吸い吐きして、
「つーか、何で……一人なんだよ」
口を開けば真っ先にそんな質問をしていた。まだ、脳内の酸素濃度が足りてない。
「そ、それは、その……えっと……」
言いにくそうに言葉を詰まらせる。
『最後に一目だけでも会いたかった』――なんて聞けたら、嬉しいんだろうけど、もう気持ちが抑えられなくなりそうだから、逆にそんな言葉で良かったのかもしれない。
「ま、でも良かった……。おかげで会えたから……」
疲労感のピークも去り、少し呼吸も落ち着いてきたので体を起こしてみたが、汗で貼りつく制服が今頃になって気持ち悪く感じ、シャツの中に風を送り込んだ。
それでも、気温のせいもあり、汗は引くどころかまだにじみ出ている。
彼女は手提げカバンから……ハンカチを取り出してオレに差し出してくる。この状態だ、使えということだろう。
「あ、ありがとう」
笑顔でハンカチを受け取ると、まず額に当てた。
「お願いがあるの」
何かを決心したのか、その言葉に迷いも曖昧さもなかった。
「何?」
「いつか、そのハンカチを返しに来てほしいの」
ハンカチ? オレは今手渡され、使っているそれを顔から放して見つめた。これは前に借りたものと同じ。きっちり名前がフルネームで書かれているもの。
そんなことをふと思い出し、おかしくて……彼女に気付かれないよう、そっと鼻で笑った。
そういえば、ハンカチを借りておきながら、洗濯機に放り込んで忘れてたんだよな。だいたい、オレが返すべきだった。洗濯物にまぎれていたウチでは見慣れないものに気付いた母さんが彼女に返したのだろう。
今度はちゃんと、直接オレが返しに行くよ。
「……うん、分かった。いつか、必ず返しに行くから……」
これを口実に、いつかキミに会いにいこう。
「約束だよ。おばあさんになるまで待ってるからね!」
「大袈裟だな……」
ホントにものすごい勢いだ。離れたくない、また会いたい……また会えるよう、このハンカチは借りておくから……。
「それからついでに、携帯番号とメアドも教えて!」
「……オレも、今朝になって聞き忘れてたことに気付いたわ」
二人で見つめあい、笑う。
そんな時間がずっと続けばいいと願う。
「ほくと、あっとまーく……」
「h、o、k、u……ん? えっと……」
「t、o、@。あとは……」
「うん、分かる分かる。オッケー」
「じゃ、確認のために送ってみるね。そーしん!」
「もう打ってたのかよ!」
「うふふ〜ん。まぁねぇ〜」
――ちゃららり♪
「ぷっ、何? その着メロ。しかもいまどきメロ!」
「うるさい、黙れ! ……??」
「ん?」
「何が書いてあるんだ、これ」
「ギャル文字、読めない?」
「まともな日本語で書け」
「……はぁーい」
「もしくは英文」
「ダメ、絶対に無理!」
「……あ、そう」
こんな他愛のない会話ができるのもあとわずか。
彼女はそっと溜め息をついている。
何か、言い忘れたことはないだろうか……オレは記憶を辿りつつ、考えた。
「改めて、それと、直接言えるのはもしかしたら数年先とかになるかもしれないから、聞いて」
彼女の方が先に口を開いたので、哀しい色に染まった瞳を見つめ、頷いた。
「あたしは……北都くんが……好きです」
その言葉――想いは、オレの心の深くまで到達した。痛いほどに。
嬉しいのに、切なくて、苦しい言葉だった。
どんなに想っていても、想い合っていても、どうにもできずに離れなければならないこの現状が。
「オレも、瑞希が好きだ」
この想いを乗せた言葉で、彼女を一生縛れたらいいのに……。
瑞希は柔らかく笑みを浮かべ、そっとオレの手に触れてくる。その指は微かに震えていた。
――離れたくない、と訴えるように。
オレは手の向きを変え、指を絡めるようにして繋いだ。
――このまま離したくない、という想いも込めて。
ホームには電車を待つ人が増えてきて、駅のアナウンスが電車の到着を知らせる。
『間もなく三番線に――』
線路が甲高い金属音を発する。
電車――別れの瞬間(とき)はそこまで迫っている。
繋がれた手は、互いに強く相手を縛ろうとする。
――なぜ、離れなければならないんだ。オレたちはまだ……これからじゃないのか?
始まったばかりなのに、終わってしまうのか?
そんなのは……イヤだ。
そっと手が離れた。
瑞希は立ち上がり、足元に置いていた荷物を肩に担いだ。
少しの間、前を向いてオレを見ずにいる彼女の姿は、遠くへ行ってしまうことをよりリアルに感じさせ、更に辛くなった。
電車が起こす突風に髪を流されながら、ゆっくりとこちらを向く瑞希。伏せた目……まばたきをしてオレを見つめる瞳。一瞬、言葉を失った……いや、掛ける言葉さえ見つからないほど哀しいもので、今にもこぼれそうなほど、涙が浮かんでいた。
オレもきっと、ひどく哀しい顔をしていることだろう。眉間あたりに今までにないほどの違和がある。
彼女の瞳から、涙がこぼれる。それを必死になって拭っている。
何かを言いたいのかもしれないけど、しゃくりあげるばかりで、嗚咽しか漏れない。
オレだって泣きたいぐらいなのに……その感情は言葉にできない。
やりきれなくなって――彼女を抱き寄せていた。
「大丈夫だから……約束しただろ? 必ず、ハンカチを返しに行くって」
そっと、瑞希の頭を撫でた。愛しさが溢れ出して止まらない。
「だから……また会えるから……」
自分の声も震えてる。
「もう……泣くなよ。こっちまで辛くなるだろ……」
もう……オレだって限界だから……。
「っく……北都くん……」
別れなければならないことを分かっていて、どうしてオレたちは惹かれあってしまったのだろう?
これも、生きていくための試練か?
乗客の乗り降りがなくなった電車は間もなく出発する。
オレは想いとは逆の行動をしていた。
彼女には帰る場所がある。そこへ帰さなければならないんだ。今日、いま、この時に。
そっと背中を押し、電車に乗せた――直後、ドアは閉まった。
電車は走り出した。
「絶対に忘れないから! 絶対に会いに行くから! だから――」
引き離されていく彼女は、ドアにべったりと張り付いて、終始涙を流していた。
――だからオレのことを……忘れないで。
ずっと、キミのことを、瑞希のことだけを想っているから……。
必ず、ハンカチを返しにいくから。
再会するその時に、まだ想いが通じ合っているのなら……。
オレのもとに残されたのは、思い出と、やり場を失った彼女への想いと、ハンカチだけだった。