011 突撃! でんじゃらす・がーる☆ 【北都―2】


 好きな作家の小説が、脳内でドラマ化されている。いや、映画化かもしれない。
 一時はどうなることかとハラハラさせられ、予想を覆すが期待を裏切らない結末。
 分厚い本を読み終えた後の達成感、充実感? ――何とも言葉に言い表せない心地良さと余韻。
 本を閉じてしばらく、心に残ったシーンだけを脳内に呼び起こしていた。
 大きく吸った息を吐き出し、じっとしていたせいで強張った体をぐっと伸ばした。この興奮を抑えようと思ってお茶を飲もうとしたが、読書の最中、無意識のうちに手を伸ばしていたのか、お茶の入っていたグラスは空になっていた。
 椅子に座ったままもう一度体を伸ばしてから、キッチンへお茶を汲みに行った。


「僕って、範囲外?」
「あ、いやぁ……」
 廊下に出てリビングのドアの前。恒と彼女の声が聞こえたので、ドアノブを回すのをためらった。
 彼女の声は困惑ぎみだ。恒が何を言ってそういう会話になっているのかは知らないが……いや、オレがここでためらう必要があるのだろうか? そんな理由なんてないじゃないか。普通に入ればいいだけのこと。用事があるから来たのだから。
 そう思いながらも、ゆっくりと静かにドアを開き、二人の様子を窺いつつ、そっとキッチンに忍び込んだ。
 恒はまっすぐ彼女を見つめていたが、オレに気付いて少し目を細めた。挑戦的で、何か余裕さえも感じさせる視線だった。
「僕が今、瑞希さんに好きです、って言っても無駄なんだよね、それって」
 それを聞いた瞬間――肩や背中に言葉では表現できない気持ち悪さを感じ、オレは身を震わせた。
 ……このガキ。何を言いやがった?
 今度は怒りに似たものがこみ上げてくる。
「いや、あの、それについてはですね……」
 彼女は、突然の告白に慌てていた。
 ――昨日はオレに向かって、結婚を前提に……だとか勢いよく言ったくせに、そっちの方がどうかと思うんだけど。何だよ、その態度。
 ……ムカツク。
 オレは短く溜め息をつくと、異様で不快な雰囲気を壊してやった。
「恒、言い訳に困ってるじゃないか」
 彼女は、見ていても驚いていることが分かるぐらい大袈裟に肩をすくめ、勢いよくこちらに顔を向けた。
 その表情は……どういう意味なんだろう?
 困ってる? 迷惑だった? それとも、助かった?
 あの告白は本気だったらしく、恒は今までに見せたことがない形相でオレを睨みつけてきたので、一瞬、怯みそうになった。そのせいか、手からグラスがすべり落ち、

 ――がちゃーん☆

 シンクにぶつかり、ハデな音を立てた。
 彼女は更に驚いた表情を浮かべ、俺の顔を見る。
「……な、何だよ。手が滑っただけで、そんなに注目すんな!!」
 じっと見られていることに耐えられなくなったオレは、慌てて落としたグラスを拾い上げた。
 原型は留めている――原型を失いかけているのはオレだ。
 割れてはいない――何かを打ち砕かれたような気がするのは、気のせいじゃない。
 何かが加速している――心拍数だけじゃなく、他の何か。
 なぜ、今になって耐えられなくなった?

 彼女が小さく笑い始めた。
「わ、笑ってんじゃねぇよ!!」
「いや、だって……」
 ――そんな顔で笑うな。
「あー、もぅ!! 黙ってテレビでも見てやがれ!!」
「はいはーい」
 ――こっちを見るな。
 オレは彼女から意識を逸らしたくて、グラスにヒビがないかチェックした。特に問題はないので、一度水で流し、本来の目的であったお茶をグラスの八分目まで注いだ。
 その間もずっと、彼女の視線を感じていた。
 ――今さらながら気付いてしまった。恒に取られたくないと思った。
 気付いてた。キミがキレイな目をしていること、笑顔がかわいいことも、まっすぐであることも。気付かないふりを、見ていないふりをしていた。
 自分の気持ちにだけは、気付けなかった。今、初めて気付いて……どうしたらいいのか、わからないんだ。
 だからオレは、お茶を片手に部屋へ戻るしかなかった。

 いつからキミはオレの心に住み着いているんだ?
 昨日、今日のことであるのは確かだ。
 考えたって答えなんて出てこない。自分でも見つけられない。
 気付いた頃には、走り出している。いつも、いつも。止められなくて戸惑うんだ。今回も同じ。
 どうにもならないことに気付いて、溺れて、何もできなくて、もがくんだ。

 ベッドに腰掛けてどれぐらいそんなことを考えていただろうか。ふと我に返り、振り払うように頭を横に振って、ベッドに倒れこんだ。
 とにかく、この変な気分を変えなくては……。
 枕元に置いたままのデジタルオーディオプレイヤーに手を伸ばし、引き寄せると、イヤホンを装着。本体の電源を入れると、再生ボタンを押した。
 お気に入りしか入れていないので、好きな曲しか流れてこない。
 それでも、ランダム再生に設定してあるので、次に何の曲がくるか、予想しながら聞いて――いるうちに……




 「ただいまー」
 ――ガチャン、カシャン。
 父さんの声とドアの閉まる音。そして鍵をかけた音でハッとし、目を開けた。
 しばらく意識が途切れていた気がする。寝てたのかな?
 室内はまだ明るいものの、陽は差し込んでいない。
 耳に何とかついているイヤホンからは聞いていたはずの音楽は流れていない。デジタルオーディオプレイヤーも電源を落としているようだった。
 体を起こしながらイヤホンを外し、それをベッドに放る。
 そして、真っ先に浮かんできたのは彼女――真部瑞希の顔だった。
 溜め息をつき、目を細め、オレの心に住み着く彼女に問いかけた。
 ――なぜ、キミはここに来てしまったんだ……と。
 相当、重症らしい。
 部屋の壁に掛けてある時計ではなく、ポケットに入れたままになっていた携帯で時間を確認すると――十八時三十八分。
 食事の時間までそうない。
 ゆっくりとベッドから立ち上がり、少し体を動かしてから部屋を出てリビングへ。

「瑞希さん!!」
「いや、別に、特に何も……ね」
 リビングへ入る前に聞こえた会話――父さんは何か必死だった。そんな父の勢いに彼女が困っている様子。
 オレ以外の全員がいるであろう部屋のドアを開けると、何とも言えない雰囲気だった。重くて、不快で。
 こういう空気は嫌いだ。好きなヤツなんていないだろう。
「ご飯、まだ?」
 あえて自分は関係ない、という感じで部屋の雰囲気とは違う話題を持ち出す。
 しかし、父は見逃してくれなかった。不安げな表情をオレに向けて、
「北都くん、これは一体何が起こった後なんだ!!」
 父らしくない、不安のにじみ出たような声でオレに聞いてくる。
 何が起こったって……恒が告って、そんな時にオレが割り込んだようなもんで……ギクシャク? つーか、オレが部屋から出た後も、ずっとそのままだったのかよ。
「何がって……なぁ? オレには関係ないことだし……」
 本当に関係ないんだろうか?
 オレのせいじゃないの?
 父から視線をずらし、隣にいる彼女へ向けると、困ったような表情でオレを見ていた。
 それをすぐに逸らして恒に視線を移すと、じっとテレビの方を見ている。何も語るつもりはなさそうだし、いつもの無邪気さなんて微塵もない。
 一人の男が、そこに鎮座している。
「ま、まぁ、思春期の子供同士のことですから、複雑なんですよ、今は」
 複雑……単純にくくってしまえば、そうなる。
 恒の気持ち、オレの気持ち、そして彼女の気持ち。それが複雑に交差し、反発し合い、奪い合いなんかが始まりそうで怖い。
 恒の挑戦的な視線――アイツはオレより先にオレの気持ちに気付いていた?

 賑やかすぎた昨日とは打って変わって、今日の夕食中は重い空気に支配されていた。
 特に会話らしいものもなく、テレビだけが陽気に言葉を発するだけ。
 食事を終えると、恒が先に席を立って部屋に戻り、少し時間を開けてオレも部屋へと戻った。
 風呂の時間を待っている間、めったに起動することのないパソコンをつけてネット上を徘徊。
 友人のブログを見に行くと、受験勉強を過剰なほどしているのに成果を得られず、壁にぶち当たっているようだった。大変だな、受験生、と他人事のように思う自分は……別のことで壁にぶち当たっている。
 別の友人は……受験生である自覚はなく、相変わらずゲームの感想を書きなぐっていた。
 夏休みに入って、急に更新しなくなったやつもいる。
 最後に、確認がてら学校のホームページへ行事予定表を確認に行く。
 明後日には模擬試験がある。
 二日後って……。
「北都、お風呂入って」
 廊下の方からそんな母の声が聞こえた。
 いつもなら、恒が呼びに来るんだけどな……。
「はーい」
 オレは母に聞こえるよう大きめの声で返事をすると、起動中のインターネット閲覧ソフトを閉じ、電源が切れるよう操作した。

 入浴を終えて部屋に戻ったのが午後九時半。
 寝るにはまだ早いが勉強をする気も起きないし、本も読み終えてしまった。することがない。
 濡れた髪をそのままにしてベッドに寝転ぶと、デジタルオーディオプレイヤーに手を伸ばした。
 だけど……何もすることがなくても聴く気にはなれず、手に持ったまま、ただ天井を見つめていた。




 ――次の日の朝。
 六時には起きて顔を洗い、着替えてすぐにでも勉強を始められるよう準備をしていた。
 六時十五分――いつもなら恒がラジオ体操に行くから呼びに来る時間。
 しかし、部屋の前を通る足音は素通りし、そのまま玄関の外へと消えた。
 向こうも、とことん避けるつもりらしい。それならこっちも、とことん避けられてやろうじゃないか。
 恒が出掛けてそう経たないうちに、オレはダイニングへ朝食をとりに行った。

 キッチンに立ち食事の準備をする母。ダイニングのテーブルでコーヒー片手に新聞を読む父。
 リビングでテレビを見ている彼女。
「おはよ」
 三人が三人、この時間にオレがいることに対してだろう、怪訝な表情を浮かべていた。
 出てきたものをさっさと食べると、
「明日、模試があるから、今日は邪魔しないで」
 そう言って自室へ戻ったのが六時四十分。
 恒を避けていた。
 そして、彼女と同じ部屋にいること、彼女の顔を見ることも避けようと思っていた。
 これ以上、好きになったって、どうせ報われない。彼女はずっとここにいる訳じゃない。
 明日には帰ってしまうんだ。
 離れてしまえば、諦めがつくかもしれない。
 だから……重症になる前に――。

 明日のことを考えて、過去の模擬試験問題を中心に問題を解いていくことにした。
 いつもの適当に問題集を復習(さら)うのではなく、五教科分。さすがに午前中だけでは終わらない。それに、勉強の手を止めてしまえば余計なことばかり考えてしまう。だから今日は、本格的に進めた。




 四教科目に選んだのは社会。
 問題を解いている途中、母の呼ぶ声が聞こえた。
「北都、恒、お昼ご飯ですよー」
 時計に目をやると、いつの間にか十二時を過ぎていた。
 特に返事はせず問題集に戻り、書きかけになっていた答えを書き込んだ。その問題を見直してから、オレは席を立った。

 今日の昼食は冷やし中華。
 昨日の夕食時、今朝と違い、母とおばさんが陽気に話していて、テーブルは賑やかではある。
 彼女は疲れたような表情で時折溜め息を漏らしつつ、ゆっくり、少量ずつ口に運んでいる。
 先に来て食べはじめていた恒は、ものすごい勢いで麺をすすり、その半分以上を胃の中に収めている。
 とにかく、接触時間を最小限にしたくてたまらないらしい。食べ終わるとすぐに椅子から立ち、「遊びに行ってくる」と言い残して出て行った。
 その瞬間を見計らったかのように、母とおばさんは同時にオレの方を向いた。そして、じっと見ている。無視していればどうにかなると思っていたが、全くそんな様子もなく、ただ黙ってじっと見られていた。具合が悪いとしか言いようがない。
「……何だよ、なぜオレを見る」
 待ってましたと言わんばかりに、二人はニヤリと笑い、オレからすっと視線を逸らした。
「いや、だってねぇ……」
「タイミングの悪い男だと思って」
 何の話だ? それに、
「誰が」
「……さぁねぇ〜」
「ねぇ〜」
 二人は顔を見合わせ、ニヤニヤとしている。
 ……あ。
「意味わかんね」
 と気付いていないフリをした。
 昨日のことに違いない。ぶっちゃくったな、この女め。
「瑞希も、タイミング悪いよね〜」
「あ、あたしまで!?」
 やっぱり……あのことに関連した件だ。
 これ以上この部屋にいたら、自分でもどうにもならなくなるぞ。食べ終わったらさっさと部屋に戻ろう。

 問題集の続きをやって、最後の教科に取り掛かる。
 全ての問題を終えてからいっきに答え合わせ。
 悪い教科でも八十点近くある。
 緊張しすぎて頭の中を真っ白にしない限り、満足のいく結果を出せるだろう。
 緊張がほぐれ集中力が切れたせいか、急に喉の渇きを感じたので、キッチンへ向かった。
 まぁ、見つかったらどうにかされそうな予感がしたので、静かに、気付かれないようにした。
「もぅ、こうなりゃ部屋に押し掛けて夜這いだ!」
「よっ、よば……!?」
「それはちょっとやりすぎかと……」
 かわいそうに。彼女はリビング部で、大人にからかわれている。
「なっ! ここまで来た瑞希より息子の貞操が大事なんですか!」
「ぶっ!!」
「そういう問題で……」
「…………」
「…………」
「げほっ、げほっ……」
 ごめん。今噴いたのオレ。会話を途切れさせ、注目されてるのもオレ。
 ぽかんとこっちを見ているのはリビングの女三人組。
 口に含んでたお茶が危うく逆流して鼻から噴射される所だった。
 せっかく見つからないように努力していたのに、存在がバレてしまった、という感じだ。
「あ、北都! 盗み聞きとは卑怯だぞ!」
「別に……盗み聞きなんて……人聞きの悪い」
 つーか、アンタら、何の話をしてたよ! そっちの方がどうかと思うぞ!
「ということだから、覚悟しておきなさい、北都!」
 ビシっとオレに向かって人差し指を突きつけるおばさん。
「しませんって!! しないから、ね。うん、大丈夫。そんなことしません……っていうか、できるかぁー!!」
 おばさんに向かって釘を刺し、オレに向かって弁解。そして自らにツッコミ。忙しい娘だ。
 まぁ、そこがまた面白いというか、かわいいところだったり……ちょっと待て、ストップ思考。
 いかん、いかん。
 大きく頭を横に振って、今思ったことをふるい落とそうとし……て落ちるわけでもないが、気休め。
「うふふふふふ、今、想像してしまったに違いない。くっくっく」
「してねぇ!!」
「大丈夫だよ、瑞希。相手は脈アリだ」
「違うっつってんだろ!!」
「ほ〜らほら、ムキになっちゃってさ〜。ほっほっほ」
 言えば言うほどおばさんの思う壺じゃないか。はめられてる。ちくしょう、くやしい。
 ここに長居すればするほどおもちゃにされてしまうので、さっさと部屋へ戻るに限る!
 申し訳ないが、キミがおばさんのおもちゃになってくれ、瑞希……さん?
「おうおう、何とか言ったらどうだ〜! やっぱり図星か〜」
 もう反論せず、グラスを片手に逃げるよう部屋から出た。

 つーか、夜這いって……ちょっと待て、ちょっと待て、待ってくれ、オイ……。
 今頃になって、変なところに回線が繋がってしまった。




 昼食後、すぐに遊びに行ってしまった弟が帰宅したのが午後六時過ぎ。
 数十分待たずに父が帰ってきた。
 母とおばさんは食事の準備をしていることだろう。
 彼女は……きっと、散々からかわれたことだろう。
 オレは……部屋で特になにもしていなかった。これ以上勉強をする気にはなれなかったし、したいことも、やらなければならないことも何もなかった。ただ、天井ばかりを見つめて、一人の女の子のことばかりを考えていた。
 ――急発進していた想いは、もうブレーキがかからない状態になっていた。
 午後七時……彼女とおばさん、鎌井家四人が揃う食事は、これが最後かもしれない。
 だけどいまいち、盛り上がりに欠けていた。最悪だった時のことを思えばまだマシな方だけど、やはりオレと恒と彼女の間には、まだ深い溝があった。
 最後の夜でさえも、一緒にいたいのに、自分の気持ちに嘘ついて、食事を終えたオレはさっさと部屋へひきこもる。一人になって考えることは彼女のことばかりになっていた。

 離れたくない。
 帰したくない。
 一緒にいてほしい。
 ……好きだ。
 ――自分が最も恐れていた、重症域に突入していた。

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