004・釜兄 戒驕戒躁 \


 ――日曜日。
 いよいよ、互いの両親と仲人である上司、西岡夫婦が対面の日を迎えた。とは言っても、ボクの父は不在であるが。
 我が家ご用達のホテルのレストラン、個室にて会食を交え、両家が顔合わせ。
 とにかく、ウチの女共が変な発言をしないことを願うばかりだった。
「紹介します。私の母、鎌井亜季、妹の優奈です」
 とボクが同席している母と優奈を紹介すると、二人は頭を下げる。
「父はご存知の通り多忙なもので、結納、式にも出られるか分からないような状態ですが、時間が取れた時にはご挨拶に伺うと申しておりました」
「えっと……私の父――」

 彼女も似たような紹介をする。今日、妹さんは来ていない。
 ボクの西岡部長は芹香さんのお父さんと仕事柄付き合いもあるということで、話の流れは会社関連に。
 過剰にボクを褒めちぎる中、女性陣はファッション関連の話題で花を咲かせていた。

「結納の日取りは大安の日曜日として、式は……六月? 思ったより早いな」
 おおよその予定を話し合う中、西岡氏が首を捻った。
「かなり無茶しましたよ」
 ここで言える話ではないが、このホテルに無理矢理予約をねじ込んだ感じなのだ。お得意様である権限をフルに活用して……。





 ――大安の日曜日。
 仲人の西岡夫妻と共に芹香さん宅へ伺う。
 玄関で出迎える芹香さんとご両親に西岡部長が挨拶し、母が手土産を差し出した。
 客間に通されたボクたちは、結納品の飾り付けを始める。
 変に気を使わせるだけだから一般額でいいと言ったのだが、ウチの事情を知ったからにはそんな金額の結納金を出せるか! ってことで、一般額の三倍だったりするが。
 飾り終え、西岡氏が芹香さんたちを呼びに行き、いよいよ結納式の始まりである。こちらの緊張も絶頂だ。

「私は鎌井家の使いとしてまいりました。この度はご丹精にお育てのお嬢様をご無理申し上げ快くご承諾下さいまして誠にありがとうございます。
 本日は吉日でございますので、お約束の印として結納を持参致しました。幾久しくお受け下さい」

 部長、なんとも長く堅苦しいセリフをありがとうございます。
「ただ今、お仲人様よりご挨拶がありました通り、今般お宅様のお嬢様、芹香様と私共の長男との婚約には早速ご承諾頂きまして誠にありがとうございました。
 本日は心ばかりの印ですが、結納のお届けをさせていただきました。幾久しくお受け下さい」

 なんだか、似たようなセリフの繰り返しだったような気がするが、真面目に対応ありがとうございます、母さん。
 部長から目録、小袖料、家内喜多留料、結納金を乗せた広蓋をお父さんの方に差し出す。
「お改めの上おめでたくお納め下さい」
 蓋に乗せた物をお父さんが一通り目を通す。
 しかし、やたらぶ厚い結納金が少し気になった様子だ。
「ご結納の品々、目録通り相違ございません。誠に丁寧なお言葉を賜りありがとうございました。またお土産も頂戴いたしまして厚く御礼申し上げ、幾久しくお受け致します」
 もう、何語を喋っているのか理解できなくなってきた……。
 芹香さんは体をカチコチに強張らせて今にも倒れそうだし。

 それから、結納盃の儀式。結納の受け渡し完了時、両家の意思確認として行うものであり、お神酒を頂く事になる。
 注ぎ人は嫁方の親族で女性……といえば、彼女の妹さんだ。お母さんにああでもない、こうでもない、と文句を言われながら、全員に配り終える。
「それでは、改めておめでとうございます」
 それを合図に、一同がお神酒を口にした。

 その次は婚約指輪の贈呈。
 今までのやりとりは親と仲人だけといった感じだったが、ここからは……あ?
 芹香さんの左薬指といえば……既に指輪が……。
 以前、結婚してください、って渡したものだ。更に今日も婚約指輪で……。
 緊張しまくっている彼女はやはり指輪を外し忘れている。
 仕方なくその指輪の上にもう一つ、ダイヤの指輪をはめることになった。
 それが終わると二人で出席者の方を向き、ボクから挨拶をした。
「本日は私たちのために、このような席を設けていただいてありがとうございました。今日、婚約できましたのは、ご両家のおかげと心より感謝しております。頑張って幸せな家庭を築いていきますので、今後ともよろしくお願い致します」
 深く頭を下げると、一同から拍手を受けた。

「それでは、これにて両家の結納式、並びにご両人様のご婚約、めでたく相済みました。本日は誠におめでとうございました」
 仲人がしめくくりの挨拶をすると、一同が頭を下げた。

 一通りの事を追え、芹香さんが、今日はありがとうございました、と声を掛けながらお茶を配る。
 両家と仲人が揃っているということで、これからの予定をもう一度話し、結納を無事に終えることができた。


 後はボク達が式までにやるべきことをすればいい。

 結婚式は神前として、披露宴に誰を呼ぶか……。招待状を送らねばならないので、住所まできっちりと調べておかなくてはならない。
 芹香さんのお色直しの回数、その中の何番目に彼女の作ったドレスを着るのか……。
 何やら、優奈がデザインしたドレスもその中に入るとかなんとか……。
 ハネムーンはどこに行くか……。

 会社に行っても、休み時間には披露宴に招待する人に住所を聞きに回ったりで大忙し。
 芹香さんは、引越しの準備を少しずつ始めたとか……。
 休みの日には新しい家具を見に回ったり、指輪を選びに行ったり……。
 結婚後はうちの実家で生活することになるということで、空き部屋に家具が増えたり、芹香さんの物が少しずつ運び込まれたり……ベッドをダブルに買い替えたり……たり、たり……。ま、枕が二つ……ああ、ダメだ、そんなはしたない想像をしては……。
 部屋にもちゃんと鍵をつけたし……。




 あれよあれよと、あっという間に時間は過ぎ、気付けば六月。――結婚式当日。
 式の2時間前からホテルに入り、着付けやら写真撮影。
 芹香さんの頭に乗っている角隠し、それでなくても生地の厚そうな打ち掛け姿。
「重いですよ。この、着ているものもすごく重くてたまりませんよ。やたら締められて胸が苦しくて……」
 ……そうですね、芹香さんは胸が……ゴホン。
 それでなくても固い動きが、そのせいで更に重苦しく見える。
「私に比べて……正臣さんはいいですね、何だか身軽そうで……」
 確かに、紋付き袴ではあるが芹香さんが着ているものと比べれば……。
「そろそろお時間ですので、準備をお願いします」
 いよいよ神前結婚式の始まりという訳か。
 一通りの流れは予行練習をやっているが、今日は親族が揃って参列するということで、かなり緊張している。
 だって……入場順番が一番なんですから!!!

 新郎のボク、新婦の芹香さん、仲人の西岡部長と夫人、新郎側の両親――といっても今日は母しか居ないが――新婦側の両親、新郎側の親族、新婦側の親族の順で入場し、所定の席に着く。
 それから神職が入場、着席。
 修祓<しゅうばつ>の儀に移り、斎主が神前に進むと一同起立。軽く一拝する。
 斎主が幣帛<へいはく>を持って参列者を祓い清める。
 斎主の一拝に合わせて一拝したり……斎主が祭神に酒食を供えたら祝詞の奏上。
 やはり本番は長い気がする。
 次が三献の儀。俗に言う三三九度の事だ。これがやたら面倒である。
 最初は小さな杯で新郎、新婦、新郎の順に飲み、次は中の杯で新婦、新郎、新婦の順に飲み、更に大の杯で新郎、新婦、新郎の順で飲む。
 もっぱらビール派の芹香さんは……横目でその表情を伺うと、渋い顔をしていた。
 それから、本来は神前式にはないという指輪交換。最近は神前式でも当たり前になっている。
 まずはボクから芹香さんの左手薬指にはめ、芹香さんも同様にボクの薬指に指輪をはめる。
 そして、新郎、新婦は神前に進み、夫婦代表でボクが誓いの書を読み上げるのだが……緊張が絶頂に達し、頭の中が真っ白になって何が何やら分からなくなってきた頃、式が終わり退場。
 すっかり記憶が抜け落ちてしまっている。

 続いて披露宴。
 洋装に着替えての登場である。芹香さんのドレスは、優奈がデザインし、急いで作ったというものだ。
 入場で注目の的。ああ、視線が痛い……。
「ただ今より、鎌井家、野間口家、ご両家の結婚披露宴を始めさせて頂きます。本日はご多忙の中、ご参会くださいまして誠にありがとうございます」
 司会者の進行で、仲人・西岡部長による、新郎、新婦の紹介。
 さりげなくイヤな予感がする……。
「新郎、鎌井正臣さん、新婦、野間口芹香さんは、本日、当会場の神前におきまして、結婚式を挙げられましたことを、まず御列席の皆様にご報告させて頂きます。
 次に、ご両人の御略歴を簡単にご紹介させて頂きます。
 新郎の正臣さんは、現・総理大臣の鎌井宗次朗さんと奥様の亜季さんの御長男として――」

 うわー、トップシークレットー!! 地雷踏んだー! 予想通り、会場がものすごくざわめいている。今日は知らない人のほうが多いからね……。
「新婦、芹香さんは――」
 うう、もう黙ってください。
 背中にズッシリと父の名がのしかかってくるような感じがしてきた。

「それでは、ご来賓の方々からご祝辞を頂きたいと存じます。はじめに、新郎側のご来賓を代表なさいまして、新郎の勤め先の上司――」
 長い祝辞の後、更に新婦側の代表祝辞。
 座っているのにも疲れてきた頃、ケーキ入刀。
「それではここで、新郎新婦ご両人のお手により、ウェディングケーキにナイフを入れて頂きます。カメラをお持ちの方はご用意下さい」
 図々しく、やたら近くでカメラを構える男が一人……おや、キミは……!
「ヨメさん、べっぴんやねー、羨ましいわ」
 九州に出張で行った時に知り合った松野くんだ。
「松野! 寄りすぎたい」
 背後から松野を叩く中年男性……貴方は部長さん! 相変わらずの名コンビですね。
「ウェディングケーキ、入刀でございます」
 二人の手に握られたナイフをケーキに……刺す?

「引き続きまして、新郎新婦の前途を祝いまして、ご参席の皆様に乾杯をして頂きたいと存じます。乾杯のご発声は、新郎の勤め先の上司でございます――」
 隣に上司、祝辞も上司、更に上司……ネタ、尽きてる。社長でも会長でも出てきそうな勢いだ。
 全員が起立し、更に祝辞と乾杯の発声。
「おめでとうございます。皆様、どうぞご着席ください
 これより、祝宴に入らせて頂きます。お祝いのお言葉は後ほど頂戴致したいと存じますので、ごゆっくりご歓談ください」

 この位置で飲み食いはしにくい。
 目の前の料理にあまり手を付けられず、哀愁漂った表情の芹香さん。
 そんなに食べないうちから、お色直しで中座。
 優奈がビール瓶を片手に他の席に挨拶に回ったりしている。
 それから間もなく、ボクもお色直しで退場。
 次の入場までの間に両家で電報のチェック。その中に父の電報を見つけ目を通した。

 二度目の入場は、キャンドルサービス。
 芹香さんのドレスは卒業制作で作ったあのドレスだ。
 二人で各テーブルを回り、ろうそくに火を灯していく。
 テーブルを回り終えると、メインキャンドルへの点火。そして席に戻る。
「皆様、お二人にもう一度、お祝いの拍手をお願い致します」
 何度目かの一同の拍手が会場に響き渡った。
「それでは、新郎新婦をお席へお迎え致しました所で、ご来賓の皆様よりご祝辞を頂戴したいと存じます」
 ここからがまた長いこと。
 ステージで歌を歌ったり、九州支店代表者二名の暴走じみた漫才風の祝辞など……。
 その後、祝電披露。
 一番に読み上げられたのは、父からの電報だった。
「新郎、正臣様のお父様、鎌井宗次朗様。
 ご結婚をお喜び申し上げます。今日、お二人は手を取り合ってスタートラインに立たれました。前方にはハードルも待ち受けていることでしょう。お二人で力を合わせて乗り越え、よき人生を築かれることをお祈り致します。
 ご来席の皆様、本日はご多忙の中、ご参席くださいまして誠にありがとうございます。なにとぞ、末永く皆様のご支援とご教示を賜りますよう、心からお願い申し上げます」

 それから、何通かの電報を読み上げられたが、父からの言葉が胸に深く沁み、耳にまで届かなかった。

 いよいよ、クライマックス。
 ボク達、新郎新婦が両家の両親と向き合い……。
「ここで、新婦から新婦のご両親様へ、今日まで育てて頂いた感謝の気持ちを込めたメッセージがございます。
 今日の日を迎えるにあたって、色々な思いを手紙に託したとのことです。それでは、お願い致します」

 芹香さんは何度か大きく深呼吸をすると、マイクを持ち……少し間を空けてから口を開いた。
「お父さん、お母さん……ついにこの日が来てしまいました。
 今まで、どうにもこうにも男の人と縁がなかったもので、こんなに早くこの日を迎えるとは自分でも思いもしませんでした。
 ……お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとうございました。どんなに感謝してもしきれないぐらい……本当にありがとうございました。
 私は……お父さんとお母さんの娘に生まれて、とても幸せです。
 本当に、ステキな方と巡り会えました。
 これからは、正臣さんと一緒に……お父さんとお母さんに負けないぐらい、いい夫婦になって、明るい家庭を作っていきたいと思います……」

 涙で言葉を詰まらせながら、最後まで読み上げる芹香さん。
 彼女のお父さんとお母さん、ボクの母も何とも言えぬ表情。
 本当に……ボクなんかにはもったいない……。
「どうもありがとうございました。新郎も言葉にはしませんが、ご両親への感謝の気持ちは多大なものと存じます。この二人の感謝の気持ちを花束に込めまして、新郎新婦からそれぞれご両親様へ、花束を贈呈致します」
 ボクは芹香さんのお母さんへ、芹香さんはボクの母へと花束を渡す。
 ハンカチで目頭を押さえながら受け取るお母さんに、何だか申し訳ない気持ちでイッパイだった。
 だから誓った。お義父さんとお義母さんの大切な娘である芹香さんを絶対に幸せにすると……。

「それでは、これからご両家を代表致しまして、新郎よりお礼のご挨拶がございます」
 マイクがボクに回ってくる。
「私ども両名の結婚につきまして、皆様からご訓戒のお言葉やお祝辞を頂きまして、身に余る光栄とありがたくお受けいたしました。
 なにぶんにも若輩の二人でございまして、新しい出発にも、さぞまごつく事が多いだろうと存じますが、なにとぞあたたかいご支援、ご鞭撻<べんたつ>を賜り、末永くお導き頂きますよう、心からお願い申し上げます。
 本日はありがとうございました」

 挨拶を終えると、司会者の進行に任せ、お見送りの準備をする為に会場を後にした。

「これをもちまして、鎌井家、野間口家、ご両家の結婚披露宴をめでたくお開きとさせて頂きます――」

 両家と仲人は出口に並んで、披露宴に来てくれた方に声を掛けられながらお見送り。

 これでようやく、堅苦しい一連の式は終わり、服を着替えると、二人で別室に待ってもらっている西岡夫妻の元へ向かった。
 ドアをノックし、返事が返ってくると、失礼しますと声を掛けてから部屋に入った。
 西岡夫妻は少し疲れたような表情だった。
「本来ならお伺いしてお礼申し上げるべきところですが、この場を借りてお礼させて頂きます。本日は誠にありがとうございました」
 と、二人で頭を下げた。
「いやいや、こっちもいい経験をしたというか……二度としたくはないがね」
 そう言って苦笑いを浮かべた。
「ハネムーンだとか何とかで半月も休みを取るとは……」
「何かあっても、旅行中だけは受け付けませんからね。特に……急な出張は今後ご容赦を」
「はっはっは。まだあの時の事を根に持っているのかね?」

 あの時――九州支社への出張。あれはあれで……。
「まぁ、あの頃……色々ありまして、二人の仲がぎくしゃくしていたものですから……。もしかしたら、あの出張がなければ今日はなかったかもしれません」
「離れた時間が二人をより深く結びつけたということか……。とりあえず、これからが大変だと思うが頑張ってくれ」
「はい、ありがとうございます」


 仲人を務めてくれた西岡夫妻への挨拶を済ませロビーに出ると、ソファーでくつろぐ披露宴参席者たち。
 こちらに気付いて駆け寄ってきたのは九州支店の松野くんだ。
「これから打ち上げやろー? ご両人を待ってたでー」
「でも、一次会しかしませんからね。明日から旅行ですから」

 ふっと松野くんの表情が悲しそうになる。何かまずい事でも言っただろうか?
「そうよねー。今日は初夜だもんねー。明日、飛行機に乗り遅れちゃマズいよねー」
「ちょっ……何を言ってるんですか!」

 初夜だなんて、ショ、しょ、しょー?!!
 なんていい響きだ……。いやいや、イカン。
「もう居酒屋開いてるかなー? この辺りに居酒屋ってどこにあるん?」
 どうやら、このままだと打ち上げは松野くんに仕切られそうだ。それはそれでいいか。
「部長さんは?」
「ああ、おいちゃんは若いもんには付いていかれん、とか言って先に宿泊先のホテルに帰ったよ」
「ああ……そう……」

 少し話でもできたらと思っていたのに……。


 打ち上げでは、質問攻め。何かと記念日にされてその度に乾杯を繰り返した。
「婚姻届っていつ出したの?」
「今日、式が始まる前……ホテルに来る前に……ね、正臣さん」

 彼女は満面の笑顔をボクに向けてくる。
 芹香さんのご両親には少し申し訳ない気もしたのだが、朝、彼女を迎えに行って、役所に婚姻届を提出し、その足でホテルに来たのだ。
「引越しとか済んだ?」
「だいたいは。残ってる物は旅行中に送ってもらうようになってるし……ね」

 このやりとりでまたしても松野くんの表情が悲しそうになった。
 そういえば、プロポーズしたら振られたんだよね。
「俺っちも結婚してぇー!! 『ね』ってやってもらいてぇぇぇ」
 伏せて悔しそうに机をドンドンと叩いている。
「……ね?」
「うおぁあぁ、鎌井までー、イジメだー!! あのオッサンに引き抜かれなければぁぁぁ!!! 俺だって、俺だってぇぇぇ」

 まだ、九州支店への出張が転勤に変わった事を根に持っているようだ。部長に向かってオッサンはないだろう。

 といった感じで、松野くんの暴走半分で打ち上げはお開きに。


 式と披露宴をしたホテルに今日は泊まる事になる。
 もう少しゆっくり休みたいところだが、明日の昼には、五泊六日のハネムーンに出発。
 外国ではなく、国内。何故か西岡部長が、外国は危険がイッパイだ、とか、日本にもいい所はたくさんある、だの、日本語の通じる所の方が疲れないだろう、とか、入国審査が面倒だと、色々と言うもので……。
 何かあった時に呼び戻して仕事をさせるつもりなんだとボクは思っているが。
 のんびり旅行するのもいいけど、どちらかと言えば、早く新しい生活に入りたい……。




 旅行を終えて戻れば、することが山積み。
 ご近所さんに挨拶に回ったり、お土産を配って歩いたり、芹香さんの運転免許証や通帳などの苗字変更の手続きから、引越し荷物の整理整頓。
 何より一番怖いものがある。それは……。

 ボクの部屋であり、これから夫婦の寝室になるという部屋。ベッドはダブルで枕は二つだ。
 旅行から戻ったその日、疲れていたので早めに夕食を取り、風呂にも入り、芹香さんと二人で寝室に入り、電気を点けた時だった……。
 優奈が居ないと思っていたらそういう事か……。
 ちゃっかり人の布団の上で指を咥え、もの欲しそうな表情でこちらを見ていた……っていうか、見るな。
 しばらく呆然としてその場から動けなかったのは確かだ。
「……いやん、エッチ……」
 誰がだ。今のお前の方がいやらしいわ。
 初日からこれなのだ。冗談ではなく、引越しを考えた方が良さそうだ。
 ボクが長男だから実家で親と同居だなんてやり方は古すぎた。しかし、今は我慢するしかない……。
「芹香さんにはいい先輩だったかもしれませんが、ウチの中では普段からあんなのですから……朝から平気で押し入って来ますから、鍵を締めるのだけは忘れないで下さい」
「……はい」
「優奈さん、ボクたち疲れているんです。もう寝ますから退室願えますか?」
「ふ……ふふふ……エッチw」

 そう言い残して部屋を出て行ったので鍵を締めた。……頼むから聞き耳たてるなよ。
「いいですね、芹香さん。我が家の女性陣ほど、この世で恐ろしい者はおりません。母と優奈は最強、最悪のコンビですから……いいですね?」
「……はい……」
「じゃ、寝ましょうか」
「はひっ?!!」

 ……?
「いや、今更そんなに気にする事ないでしょう?」
「確かに、旅行で慣れたと思ってたんですけど、だって……やっぱり、ここは……」

 芹香さんは真っ赤になった顔を手で冷ますように押さえている。
 この家の中には母と優奈が居るというのが気になるところか……。それもそうだ。いきなりアレだと……。
「今すぐには無理ですが、そのうち二人の城にでも引っ越しましょう。それまで我慢してください」
 そう耳元で囁く。彼女の前髪を掻き上げ、額にそっと口付けると、くすぐったそうに身をよじった。
「……ちょっと待ってくださいね」
 鍵を開け、素早くドアを引く。するとドサっといい音を立てて人間が倒れ込む。
「何をしているんですか?」
 下をよく見ると、優奈だけかと思っていたのに一人……いや、二人も多く倒れ込んでいた。
「母さん……坂見さんまで……一体何をやってるんですか!」
 三人は起き上がり廊下に出ると、ボクの方を見ることはなく、身なりを適当に整えている。
「ぼっちゃまが不届きなことをしないか心配で……」
「……ボク達、もう夫婦ですから、そこまで干渉しないでください」
「まご、まご。ま……知ってる? 作り方」
「……干渉しないでください」
「キスだけじゃできなくてよ、お兄様?」
「怒りますよ? 本当に……」

 この人たち、冗談じゃなくて期待してません? 何が楽しいんだか……。
「いいですね? 今後、この部屋の前で立ち止まらないでください。気になって夜も眠れなくなったらどうするんですか!」
 それより、なにより、プライバシーの侵害ですよ。そのうち訴えますよ。
「じ……じゃ、そういうことで、頑張って……」
 母はそう言って、顔の高さまで手を上げると、三人は解散。
 どういうことで、頑張るんですか。
 初日からこれだと……先が思いやられる。
 三人が廊下から消えたのを確認し、溜め息をつきながらドアと鍵を締めた。




 ――六月末。
 式から半月にも及ぶ休暇から仕事に復帰。
 今までなら昼食は社内の食堂、外回りの場合は適当に外食で済ませていたのだが、結婚すると何もかも変わってしまうようだ。

「鎌井くん、食堂には行かないのか?」
「ええ、お弁当を持たされまして……」
「おお! 愛妻弁当か。羨ましいなぁ。ワシも昔は……」

 と遠くを見つめる西岡部長。ボクがここに入社して以来、一度も見たことはないけど、そんなに昔の話なのか……。
「今のうちだぞ」
 そんなものなのか?


 芹香さんは家の中でもうまくやってくれている。
 今日、ボクの仕事復帰に合わせて、優奈に連れて行かれたものの、休み中は進んで家事をこなしていた。
 今までは、ほとんどを坂見さんに任せきりだった。
 食事の準備――芹香さんが手料理を振舞ってくれるなんて夢のようだ。しかも、なかなか美味いもので、家族にも評判だった。
 掃除――ボクの部屋である寝室と芹香さんの嫁入り道具なんかの置いてある部屋は、彼女が掃除してくれている。
 洗濯――とても楽しそうに洗濯物を干したり、畳んだり……。
 午後三時には、おやつの時間だとかで、ケーキやクッキーなどを作ってくれた。
 今からこんなにまめな事をするのだ。きっと、子供にも評判のいい、かわいいお母さんになることだろう。




 ――八月。盆休み前の土日を利用し、とある場所に単身で出掛けた。
 盆休み自体は、芹香さんと旅行を計画していた為、その日を選んだ。
 芹香さんはと言うと、ウチに一人で置いていくと気を使うかもしれないと思い、盆休み中には実家に帰れそうにないということもあり、実家の方でのんびりとしてもらっている。

 新幹線に乗り、辿りついたそこは、直紀が進学した大学のある場所。
 直紀は元気にやっているだろうか……。
 進学前にアパート選びや契約でこの辺りを走らされたので、直紀が住んでいる場所は知っている。
 芹香さんの実家で長話をしてしまったので、来る時間が少し遅くなってしまったが、昼間よりは会える確率が高いだろう。


 直紀の部屋の前……どこからかいい匂いがする。ハンバーグか何かだろう。
 ……急にハンバーグが食べたくなってしまった。直紀と話が終わったら、一緒に食べに行こうかな。
 部屋のチャイムを鳴らし、直紀の驚く顔を想像して鼻で笑ってみたり。
 はーい、という甲高い声に、現実に引き戻された。
 ――忘れてた。直紀は……妹になったんだった!
 出てきた人は、笑顔で小首を傾げ……すぐさま表情を一変させた。
 その顔、間違いなく直紀なんだけど、その姿、その仕草、女の子だよ……。
 少し悲しくなりながらも、懐かしさの方が勝り、その名を呼ぶ。
「なお――」
 しかし、いい終える前に、直紀の拳が鳩尾に叩き込まれた……。
「きびっ……」
 意識が遠くなる。途切れる直前に思ったことは、
 ――ハンバーグ、直紀の部屋から……。



 どのぐらい気を失っていたのか、目を開けると真っ暗な部屋、ベッドに寝かされていた。
 体を起こすと、腹の辺りに鈍痛が走る。
 それにしても、手加減なしに思いっきり急所を拳で殴るとは……。あの子は相変わらず、見た目より恐ろしい子だ。
 部屋にかすかに残るハンバーグの匂い……。
 ああ、そうだ。それより直紀はどこへ行った?
 部屋を見回すが真っ暗で何も見えない。
 ドアの隙間から漏れる光と人の声……。直紀と直紀ではない誰かの声だ。
「え? お兄さん?」
 もう一人は声の感じから男だと確信した。
 ……男友達ならいい。しかし、今の直紀があの姿なのだ。よからぬことを考えて近づいたに違いない!
 問い詰めてやろうと思い、勢いに任せてドアを開く。
「なお――」
 しかし、ドアの近くに居た直紀が素早く立ち上がり、今度は頭突きを食らわされた。
「ごべっ……」
 運が悪かったら、舌を噛みちぎるところだ。それ程の勢いだった。
 何か、ボクに恨みでもあるのだろうか……。
 何とか痛みに耐え、直紀の方を向いた。
「ヒドイではないか! せっかく兄が来たというのに!」
「誰も来てくれなんて、言ってないわよ」

 しかしながら、直紀の反応は淡白なもので、感動の再会どころではなかった。
 おのれ直紀、いつからそんなに生意気になったのだ。
 強い眼差しで、今にも噛み付きそうな直紀から視線を逸らさず見つめる。
 何か……必死に見える。何かを必死に守っているように……。
「あの――俺、邪魔そうなので帰りマス……」
 部屋に居た青年は立ち上がり、逃げるように部屋から出ようとしたので、思わず呼び止めた。
「ちょっと待ちたまえ、キミ!」
 恐る恐るこちらを向く青年と目が合った所で本題に入ろう。
「キミは、直――」
 その青年の方ばかり気にして、直紀の動きを見落としていたのが、今回の敗因であろう。
 飛んできた直紀の腕に首を引っ掛けられ、
「ぐぶべ……」
 そのまま後ろにひっくり返され、後頭部強打。
 頭の中が衝撃で揺れ、今にも意識を手放しそうなぐらい。しばらく動けなかったのは言うまでもない……。

 それから、直紀は青年を見送り、部屋に戻って来て、倒れているボクの顔を申し訳なさそうな表情で覗き込んできた。
「……ごめん、兄さん……やりすぎた」
「……まぁいいさ。連絡して来なかったこっちも悪いし、直紀が元気なら……」

 何とか体を起こし、直紀を見つめる。
 元から女顔だったというのに、これでは本当に女の子だ。
 あの姿になってから、ほんの少ししか一緒に居なかったから、まだ慣れない。
「さっきの青年は? 直紀の何だ」
「聞かれると思った……」

 直紀は一度溜め息をつき、再び口を開いた。
「同じサークルの人。それだけ。それ以上じゃないのは確かだよ。今は『鎌井直』で通してるから、直紀って呼ばれるのはマズいんだよね、とりあえず」
 だからあのタイミングで攻撃をしていたということか。
「じゃ……同じサークルの人でそれ以上ではない彼を、直紀はどう思ってる?」
 直紀は視線を逸らし、目を泳がせた。
「……よく、分からない。嫌いじゃない。好き……かもしれない。一緒に居て楽しいし。でも、それが恋愛感情なのか、人間として好きなだけなのか、分からない……」
「その辺りはお前の自由だが、直紀の今の姿は偽りだ。よそから見れば女に見える。だけどお前は男なんだ。今も、彼を……皆を騙していることになる。後で傷つくぞ、お前も、皆も、彼も……。彼がお前を想っていたらどうするつもりだ?」
「……それは……」

 直紀が必死に守っているのは、今の『鎌井直』という女の子の存在なのだろうか。それとも別のものか……。
「お前がその姿であること、その姿になる事を望んだことを否定することになるかもしれない。だが、その姿である限り、皆を騙しているということを忘れるな」
 これは推測であり、ボクの常識から考えた結果論にすぎない。
 それを聞いてどう考え、どう行動するかは、直紀次第だ。
「すまなかったな。急に来て、説教するだけで……。今日はもう帰るよ」
「兄さん……結婚したって……ホント?」

 薬指の指輪を見せるように左手の甲を直紀に向けてみる。
「六月にな。呼んでやろうとは思っていたのだが……」
 急に父が参加したら困るし、芹香さんの妹さんの件もあったし、直紀があの胸だし……と、色々な理由があって、結局呼ばなかった。
 知っているということは、大方、母が電話でもしたときに言ったのだろう。
「幸せ?」
「すごく、幸せだよ。直紀にもいつか分かる時がくるさ」

 大事な人のこと、人を想うこと。それから、いつかは気付いて欲しい。あの日、父が怒った理由を、その後に後悔していたということも……。父のやり方は確かに厳しすぎる所がある。だけどそれは、子供を想っているから……。
 それがあってこその今だから、ボクはそれで良かったと思っている。思えるようになったんだ。だから、それに気付いて欲しい。
 玄関で靴を履き、鍵を解除する。一度、直紀の方に顔を向け、できるだけ明るく言った。
「じゃ、また来るから」
「ちょっと待って。連絡なしで来られるとさすがに困るから……」

 奥の部屋に一旦入ると、何かメモのようなものを持って戻ってきた。
「今使ってる携帯の番号。部屋の電話は使いたくないから、こっちに連絡して」
 と携帯番号の書かれているメモを渡された。
「お願いだから、誰にも教えないで」
 そう言いながらなぜそんなに暗い顔をするのだ。
 家の事を思い出して、恋しくなったのだろうか……。
「分かった、約束する。たまに電話掛けるよ」
 と言い残し、玄関のドアを押して外に出た。


 家から出たあの日、嬉しそうに見えたが、やはり時間が経つと家族に会えない寂しさが大きくなってしまうのだろう……。
 ボクの目には、別れ際の直紀がそんな風に見えた。


 ほんの数時間でとんぼ帰りするのも、結構疲れるものだ。

  【←004−[】   【CL−R目次】   【004−]→】