004・釜兄 戒驕戒躁 [


 そろそろ、両親に芹香さんを紹介しようと考えていた。
 いつも通り、彼女との待ち合わせ場所に向かおうと玄関から出ようとした時だった……。
 扉を開けると、顔色の悪い女の子がボクの顔を見るなり、にいさん……と呟いて倒れてきた。
 なんとか支えたものの……誰? この子どこの子? ボクを見て兄さんだと?
 ――!! もしかして、隠し子?
 いやそれはともかく、この子を何とかしなくては……。
「誰か、来てくれ!」
 家の方に叫び、とりあえずその子を抱きかかえようとした時、頭からズルリと髪の毛が落ちた。
「――――?!!」
 驚きすぎて声も出ず。
 髪の毛はカツラで、その顔は間違いなくボクの弟、直紀だった。
 胸には男のものとは思えない膨らみがある。
 何かのドッキリならいいんだけど……。
「お呼びになりました?」
「いえ、何でもないです。すみません……」

 出てきた坂見さんに焦ったが、とりあえず断り、直紀を隠すように部屋へ運んだ。

 寝かせる前にコートを脱がせると、余計に胸が目立つ。拾ってきたネコでも入ってるなら良かったのだが、そんなものではなかった。
 どういうことだ、コレは……。到底、ボクには理解できるはずもない。
 直紀が持っていた鞄をさぐると、薬と数枚の紙が出てきた。紙には術後の生活方法がことこまかにかいてある。
 胸と脇を濡らしてはならない?
 直紀の手を上げ、脇を触って確認すると、何か貼ってあるような感触が……。
 冗談ではなく、この紙に書いてある通りのことをしてきたというのか、お前は……。
 持っていた紙を、衝動的に強く握った。その紙は、手術の説明書きだった。


 結局、芹香さんとの約束はキャンセルし、直紀が目覚めるのを待っていた。
 部屋は随分暗くなっている。それでも電気を点けず、黙って待っていた。

「痛い……痛い……」
 そんな風に聞こえるか細い声で直紀が目覚めたことに気付いた。
 体を起こそうとしているが、うまく動けないような様子だった。
 手助けでもしようと直紀の側に寄ったが、怯えたような表情を浮かべ……。
「やだ……来ないで……私は……男じゃない」
 直紀が言うことがさっぱり分からない。
 勉強漬けが原因でついに精神的にきてしまったのだろうか?
 そこまで、追い詰められていたのか?
「大丈夫だ。今日はゆっくり休みなさい」
「痛い……痛い……」

 そういえば、鞄の中に薬が入っていた。痛み止めは座薬だと紙にかいてあったので、それを直紀に差し出した。
「痛み止めは座薬だ。使い方は分かるな?」
 直紀は薬の袋を抱きしめ、何度も首を縦に振った。
「じゃ、ボクは部屋に戻るからね。何かあったらいつでも呼んでいいから」
 頭を撫でようと手を伸ばすと直紀は身を硬くしたので、思わず手を引っ込めた。
 ――まるで、別人のようだった。それこそ、女の子みたいな感じで……。


 自分の部屋に戻っても、直紀のことばかり考えていた。
 ――最近、目を合わせてくれなくなっていたが、それより自分の事、芹香さんのことばかり考えていて、気にも止めなかった。
 それがこんな結果を招くだなんて、思いもしなかった。
 そこまで追い詰められる前に、話して欲しかった。
 直紀はボクじゃないんだから、必死になって追う必要はなかったはずだ。
 直紀だけ受験で失敗して、父を失望させたのがそんなに辛かったのだろうか。
 それなら、ボクだって悪いじゃないか。つまずく事を知らないボクが兄だったから、それが直紀のプレッシャーになっていたのかもしれない。
 出来のいい兄、出来のいい姉、そして直紀。周囲の期待は計り知れない。
 それを裏切れないのは、父の人柄のせいであり、職柄のせい。
 いつも父の顔色ばかり伺って、期待に答えようと必死だった。

 毎度、最高評価の通知表。
 テストも試験も、成績は常にトップクラス。
 それがボクにとっては当たり前の事だった。
 その代わりに欠けていたのはプライベートでは人と付き合わないこと、そして恋愛感情。
 恋愛感情に関しては、芹香さんに出逢ったことで……。確かに最初は何が何だか分からない感情に戸惑い、病気ではないかと思ったけど。


 ……それよりも、アレをどう説明するつもりだ。見つかるのも時間の問題だ……。




 ――次の日の朝は、優奈の悲鳴で目が覚めた。
 その声に駆けつける母と坂見さんであろう足音。
 ゆっくりとベッドから体を起こし、声のする部屋――直紀の部屋を覗いた。
「痛いってば、やめてよ」
 優奈と母が伸ばしてくる手を、必死に払いのけようとしている。
「やだ、やだ、助けて!」
「母さん、優奈、直紀が怯えているからやめてくれ」

 二人と坂見さんが一斉にボクの方を見る。
「……正臣……何でそんなに落ち着いてるの? 知ってたの?」
 それは驚いたとも。弟だと思っていた直紀が、急に妹になってしまったのだから。
「黙っていてすみません。昨日、出掛ける前に……」
 ちらりと直紀の方を見ると、体を抱きこんで震えていた。
「……直紀がそうなってしまったのは、きっとボクのせいです」
 直紀から視線を逸らし、拳を握った。
「いや、この家の、家族のせいです」
「兄さん?」
「直紀の様子がおかしかった事も、精神的に追い詰められていた事も、誰一人気付かなかった。その結果がコレじゃないですか? 違いますか!」

 母と優奈は、不安を隠せない表情で顔を見合わせてから直紀の方を見る。
「とりあえず、カウンセリングでも……」
「お父さんが帰ってこなければ、この姿を見られずに向こうへ行かせてやれるんだけど……」
「……帰ってくるんですか?」

 こちらを見ずに俯く優奈、頷く母。
 まさに最悪の事態が起ころうとしている。


 ダイニングで三人、黙って座っているだけだった。
 今、思い出せば、不審な点はたくさんあった。
 ボクと目を合わせなくなったことだけではなく、昔から、明るい振る舞いの中に影があったこと。
 たまに帰ってくる程度だった父の顔をまともに見ることもなく、避けていた。
 それは、小学校の受験を失敗した辺りからだった。
 当時、来ていた家庭教師にも絶対合格すると言われ、期待していた両親を、結果は裏切った。
 勉強が足りなかったせいだと、父は直紀の勉強時間を増やした。
 ボクが勉強を教えるという申し出は聞いてもらえず、自分の勉強を優先しろと逆に怒られ、父は押し付けるだけ押し付けて、東京に戻って行った。
 それから、受験前とは違う家庭教師が毎日のように出入りした。
 勉強の合間に体を動かす事も大事だと、護身も兼ねて柔道教室にも行っていた。
 その頃からか、普通よりちょっと痩せ気味の直紀が太り出したのは……。
 今思えば、あれはストレスからきていたのかもしれない。
 友達と遊ぶ事を知らず、机に向かう毎日だった。

 中学受験は無事合格した直紀は、ボクも通っていた国立中学に入学。
 母、優奈、ボクは喜んでいたのだが、父は当たり前だと切って捨て、直紀は喜びを表に現す事はなかった。
 中学に入ってから、直紀は痩せ始めたものの、身長の伸び具合が悪かった。成長期のはずなのに、ほとんどといっていいほど伸びなかった。一番背の高い子と比べると、その差は歴然。
 精神的に、父の重圧に押しつぶされているような感じだったのかもしれない。

 高校はエスカレーター入学。この頃には、学年トップクラスの成績だった。
 特別進学クラス――ボクと同じ道を歩んでいる。
 それでも、月謝は高いが名門大学への進学率が高いという塾に通わされていた。
 相変わらず身長は伸びず、高校二年の時にはその成長も止まってしまった。
 身長が一五五足らずで止まったのだ。
 その事で暴力事件を起こしてしまったのが、高校三年の文化祭の時。
 相手に『アリンコ』と言われたのが頭にきたらしい。
 母と直紀、父の代わりにボクが相手の家に謝りに行った。
 退学を覚悟していた矢先、父が大金を寄付したとかで、学校側から停学処分との連絡が入った。
 この時の事は、父の口から直接何かを言われた訳ではない。
 黙って大金を学校に寄付したことが、返ってプレッシャーにもなったかもしれない。
 もう、父の顔に泥を塗るような失敗はできないと……。
 相変わらず、月謝の高い塾に行くか、部屋にこもって勉強する毎日。

 ……待て。あの手術費用はどこから出した?
 鞄の中には領収書も入っていた。それには現金一括で払ったように書いてあった。
 直紀がそんなことをするような子ではないが、念の為、確認する必要がありそうだ。


「母さん、通帳の残高、カードの利用履歴、今すぐ確認してくれ」
「どうしたの、急に……」
「直紀の手術費用、子供の小遣いでできるような金額ではない。領収書には、現金一括で払ったように書いてあった。……八十万もの大金が、どこから出たと思う?」

「は、はちじゅう?!!」
 まず、坂見さんは、疑いから外れると思っていいだろう。他人から八十万も借りるとなるとそれなりのことだし、坂見さんが黙っているはずはない。先程も驚いていたし……。
 父さんがこんなことに金を出すはずがない。それだけは確信していた。
 優奈も慌てて自分の部屋に通帳を確認に走った。
 ボクは、キャッシュカードは自分が所持しているものの、通帳は母に預けてあるので、それを受け取ると、中を確認する。
 この半年ぐらいの間、何も書かれていない。記帳に行ったほうがいいのか、これは。
 優奈は数冊の通帳を持って降りてきたが、特に疑問点はなく、いつもの場所にあったと言っている。
 おや? 我が家の女性陣が、ボクに通帳を差し出しているということは……。


 仕方なく、家にある全通帳の記帳に走るボク。
 ATMで記帳を終えたが、気になるような問題点はどこにもなかった……あ、直紀の通帳がない!
 急いで戻り、状況説明。そして直紀の通帳について聞いた。
「直紀の通帳は直紀が持ってるわよ」
「塾の月謝は、どこから引き落とされているんですか?」

 母の通帳には、父から毎月生活費としていくらか振り込まれているぐらいで、塾の月謝が引き落とされている形跡はなく、とある通帳に毎月同額が送金されていたのだ。
「……直紀の通帳。送金してるのよ、毎月」
 また、面倒なことをしているものだ。
 直紀の通帳……確か昨日、鞄の中に入っていたが、気にも留めなかった。まさか……。

 二階に駆け上がり、直紀の部屋の前でノックをする。
 入るぞ、と声を掛け、ドアを開けると、直紀はベッドで寝ている様子だった。まだ具合が悪いのだろうか。
 音を立てずに昨日置いた場所から動かした形跡のない鞄を開け、通帳を取り出し部屋を出て静かに扉を閉める。
 開いた通帳の最後には、昨日、八十万払い戻ししたことが書いてあった。それでもまだ、残高が残っている。
 どう見ても、塾の月謝は引き落とされていない。母が送金した金が貯まっているだけだ。
 ページを戻り、月謝が引き落とされている月があったのは一年前の九月までだった。
 月に八万円の月謝を、十八ヶ月――実に一四四万円もの月謝を着服。たまに引き落とした形跡があるものの、まだ六〇万近く残っているという状態だ。
 塾のある日は、いつも学校帰りに寄るか、休みの日であれば自分で行き、帰りに迎えに行ったこともある。しかし、それは芹香さんと付き合う前までの話。

 色々と考えながらリビングに戻り、母に直紀の通帳を差し出した。
 ページをめくる度、みるみる顔色の悪くなる母。母の手の通帳を覗き込み、驚きを隠せない優奈。
「……塾には……行っていなかったということ?」
「それを見た限りでは、そうなるでしょう。あそこに月謝免除の規約があるとは思えないし」

 落ち着こうと、すっかり冷めてしまった紅茶を流し込んでみたが、溜め息が漏れた。
 直に……父が帰宅すると考えただけで、めまいがしそうだった。
 この件のこともあり、芹香さんを両親に紹介する時期は遠のいてしまい、その後の事も全てがまだまだ先の話になるのだと、少し憂鬱な気分でもあった。

 こんな時は、決まって彼女に逢いたくなる……。

「少し出てきます」
 空のカップをソーサーへ戻し、ドアの方へ足を向けた。
「こんな時にどこへ?」
 とっさに立ち上がり、ボクを止めようとする母。
「こんな時だからこそ、出たいんです!」
 そう言い捨てて部屋を出た。


 今日、本当は会う約束をしていたが、昨日の時点で断っていた。やっぱり逢いたいだなんて都合が良すぎる気もしないでもない。
 それでも彼女は、快くいい返事をくれた。
 芹香さんの自宅まで迎えに行き、人気のない場所――夜景の綺麗なあの場所。駐車場に車を止めて車内で話をした。
「昨日の電話、なんだかすごい剣幕だったので電話が賭け辛くて……」
「そうでしたか……すみません」
「それとは打って変わって、今日はしょんぼりですね」
「考えすぎて、昨日ほどの勢いがなくなってしまっただけです」
「何があったのですか?」
「それを……誰でもいいから聞いて欲しくて呼んだんです。たぶん、迷惑な話だと思いますが……」

 彼女に話したことで……溜め込んでいたものを吐き出したことで、少しは気が楽になったものの、芹香さんまで悩んで唸りはじめてしまった。
「それが、麻里香ちゃんのせいだったらどうしよう……」
 そういえば、高校二年生の頃、付き合ってましたね。
「そうとは限らないでしょ?」
「いや、私一度だけ、弟さんらしき人と玄関で出くわした事があるんです。それはもう、すっごく冷めた目をしてて、挨拶するのを忘れちゃったぐらいで……」

「背は、どのくらいでした?」
「私とたいして変わらなかったと思います。制服、かなり着崩してたから、うわー、やられたー! って思ったんです」
「……は?」
「あれ? 雰囲気が似てると思ってたんですけど、弟さんじゃなかったです?」
「いや、間違いないでしょう」

 直紀が制服を着崩すなんてのがありえないと思っただけ。あれはかなり重度の潔癖症なんだが……。
 一体どこで何がどうなってこんな結果になってしまったのやら……。推測だけでは結論は出ない。やはり本人の口から聞かなければ……。
 ボクは大きく息を吸い、大きく溜め息をついた。
「そうだ。外に出て体を伸ばしましょう。深呼吸して……少しは落ち着くといいですね……」
 ああ、張り切って言い出したのは良かったのだが、途中から鬱になってますよ。貴女が気にしてどうするんですか!
「そうですね。少し体を伸ばしましょうか」
 車から出て体を伸ばし、深呼吸をしてみる。脳まで酸素が行き届くような感じで、少し頭が冴えたような気がする。
「ボク一人でウジウジ考えたって仕方ないですよね。ちゃんと本人に聞いてみなければ、結論は出ないですよね」
「そうです、そうです。前向きに行きましょう!」
「でも、すみませんね。せっかく父が帰ってくるのに、貴女を紹介しているような余裕がなさそうで……」

 彼女はボクの方に寄ってきて見上げてくる。
「いいんです。今話しても取り合ってもらえないでしょ。その場の勢いで反対されたらたまりませんよ。……私たちにはまだまだ時間があるんですから……」
「……そうですね……」
 ボクに抱きついてくる彼女。不安からか、いつもより少し強めに彼女を抱きしめた。
 やはり、彼女が側に居ると落ち着く……。
 また少しだけ、楽になったような気がした。




 父帰宅まであと三日。
 直紀もようやく調子が良くなったみたいで、部屋からは出てこないものの、食事はちゃんと取るようになった。
 が……頭のカツラは何とかならないのか。
 冗談ではなく、本当に女の子が居るみたいで調子が狂う。
「直紀、食事持ってきたぞ」
「ナオ……の方がいい」

 ……はぁ?!!
 その甲高い声はどこから出ているのだ。ヘリウムガスか?
 そんなものは持っていないが、疑いたくもなる。
 元々、物腰の柔らかい男なので、喋り方自体はそんなに変化はないように思うのだが、他が変わりすぎだ。急にころっと変えれるものなのだろうか。
「……何がキミをそうしたのかな? 話してくれないか?」
「私は生まれてくる性別を間違えたの。だから本来あるべき姿になったのよ」

 そういうの、一時話題になったな。確か……性同一性障害、とかいうやつか。
「カウンセリングは、受けたのか?」
「そんなの、いらない。私は女の子だから」

 カウンセリングを受けていない? まさか、精神的ストレスから話題に便乗した思い込みではあるまいな。いやいや、それでここまでする訳ないか。
「じゃ……ここ一年半、塾へ行かずにどこに行ってたのかな?」
「お買い物。よく男の人に声を掛けられて、困ったわ」

 男?
「服装は?」
「決まってるでしょ。スカート」

 ……もう、その頃から女装の趣味があったというのか。
「家では、男の子のフリをしていた、ということかな?」
「……そう」

 そんな風には一度も思わなかったのだが……。やはり一度、カウンセリングに連れて行った方が良さそうだ。
「もう、ご飯食べていい?」
「……ああ、どうぞ」
「いただきます」


 そろそろこっちの精神までおかしくなりそうだ。




 カウンセリングのために病院へ連れて行こうと思ったのだが、あんな姿になっても直紀は強かった……。
 意地でも連れて行こうとする母、優奈、ボクを威勢のいい掛け声と共に次々となぎ倒し、部屋に鍵を掛けて閉じこもってしまった。
「柔道は失敗じゃなくて、お母様……」
「女性にはそんなことしないって言っていたのに……」
「もう、自分は女の子だと思っているから、容赦しないんですよ……」

 廊下に三人が仰向けで倒れていた……。
「お痛ましゅうございます」
 こっそり見ていた坂見さんが、エプロンで涙を拭っていた。
「お勇ましゅうございます、直紀お嬢様……」
 今度は、ここからは見えない直紀の部屋の方を向いて、遠い目をした。
 坂見さん、切り替え早すぎるよ!

 ああ、もう仕事に行かなきゃ……。

 父帰宅まであと二日……。




 直紀は昨日から引越しの準備を始めていた。
 どのみち、地方の大学に進学を決めているだけに当たり前の行動なのだが、何かを察しているように思えてならない。
 明日、朝一番にここを発てば父にその姿を見られることもなく、知られることもない。
 だからと言って、こちらの都合で家から放り出すのもどうかと思う。
 この時期に父が帰って来るということは、これから県外に出る直紀に会えなくなるからかもしれない。
 それなのに、これはあまりにもひどすぎる……。
 今の直紀は、その姿が父の逆鱗に触れることだと分かっているのだろうか。
 本当に、何を考えているのだ、お前は……。

 問題は、帰ってくる日が平日であること。
 スケジュールを詰めてようやくできた休みであろう。
 急に仕事が入って、帰ってこられなくなればいい、と思ったりもした。
 ボクは仕事に行かなくてはならない。
 直紀を守る事も、かばう事もできない……。

 今、ゆっくりと芹香さんと逢っているような状態ではないので、彼女とは電話で話す程度で、真っ直ぐに家に帰るようにしていた。
 明日、父が戻る……。
 そう考えただけでも、体が重くなるような感覚に襲われていた。
 玄関を開けた瞬間、ただならぬ気配を感じ、ボクは立ち尽くした……。
 見慣れぬ黒い革靴、ダイニングから聞こえる罵声。
 間違いなく、それは父のものだった。

 飛び込んだダイニングでは、殴り倒されたであろう直紀を必死にかばう母。そして怒りに震える父。見ていられないと言わんばかりに顔を覆う優奈。影から見ている痛そうな表情の坂見さん。
「やめてください! 直紀は……直紀はきっと病気なんです」
「病気でこんな狂ったようなことができるか! 暴力事件といい、その格好といい、私に恥をかかせるのもいい加減にしろ!」

「父さん、もうやめてください!」
 ボクの声は父には届かず、手が振り上げられた。
 冷めた目で、父を真っ直ぐに見つめる直紀。
「私は……貴方じゃない」
 父の手が止まった。
「なんだと?」
「私は、貴方ではない。恥だと思うのは貴方だけだ。僕は……貴方の人形ではない!」

 父の手が直紀の頬を打った。
「今の貴方のように、僕だって怒れば手を上げる。それが他人との間の事だったから、暴力事件という名が付いただけ。今の父さんと何の変わりもない。感情的になって、相手に怒りをぶつけただけだ!」
「子供の分際で、なめた口を利くな!」
 更に直紀の頬を叩いた。
「二度と帰ってくるな。二度とこの家の敷居を跨ぐな! お前なんか勘当だ!」
「……ほら……私は所詮、貴方にとってその程度の人形でしかなかったんだ。期待に沿わず、恥ばかりかかせる出来損ないの人形なんだと……。
 でも、私は人形ではない。私は人間だ!」

「まだ減らず口を叩くか! 今すぐ出て行け! とりあえず、大学までは出してやる。その後は自分で何とかしろ!」
 そう言い捨てた父はソファーに腰を下ろし、腕を組み、脚を組んだ。
 直紀は立ち上がり、軽く服を払う。母の制止を無視してボクの横を通り、二階へ上がっていった。
 我が家で父に逆らうものはいない、父の発言は絶対だった。こんなことになってしまっても、誰一人説得しようとするものはいなかった……。ボクもその中の一人でしかなかった。

 二階に上がった直紀を追い、直紀の部屋に行くと、手には体に不釣合いな大きい鞄を持ち、これから外出するような格好だった。
「なお……き。本当に出て行くつもりか?」
「今すぐ出て行けって言われたんだから当然でしょ? まぁ、荷物の事を頼みに行く手間が省けてよかった。リビングにはもう行きたくなかったから……」
「しかし、こんな時間に……」
「まだ大丈夫。向こうの最終には十分間に合うから。部屋のダンボール、一応伝票も貼ってあるから、送ってください」
「あ、ああ。分かった」
「もう、行くね。今からだと新幹線の時間ギリギリだから……」

 直紀がボクの横を通り越し、階段を降り始めた。
「駅まで送ろう」
「ありがとう、兄さん」

 笑顔で振り返ってくる。なぜ笑顔なのか、ボクには理解できなかった。
「いいのか、挨拶しなくて……」
 玄関で直紀を止めようと思ったが、
「さっきので十分です」
 と言って、さっさと玄関から出て行った。
「鍵は、ちゃんと持ってるか?」
 ボクが言う鍵とは、向こうに借りたアパートの部屋のこと。行っても鍵がなかったら意味がないので一応聞いてみる。
「大丈夫。ちゃんとあるから」

 駅に向かう車の中で会話はなかった。
 駅のパーキングに入り、見送ろうと思っていたのだが、
「そこに止めてくれたらいいから。見送りは……いらない」
「分かった」

 いつも芹香さんを迎えに来る時に止める位置で、車を停めると、助手席の直紀が降りる。
 ボクはトランクを開け、荷物を直紀に手渡す。

「ありがとう、兄さん。……さようなら……」

 直紀はボクに背を向け、駅の中に消えていった。
 笑顔の直紀に、声を掛けることができなかった。どう言えばいいのか分からなかった。
 なぜ、笑顔でいられるんだろうか……。


 芹香さんと、幾度となく待ち合わせした駅。
 出張から戻ってすぐ、彼女と再会した駅。
 そんな場所が、弟――直紀との別れの場所になるだなんて……考えたくなかった。


 家に戻っても、直紀のことが心配で、携帯に電話してみたが……。
 なぜか隣の直紀の部屋から着信音が聞こえる。
 まさかと思い、直紀の部屋に駆け込むが、置かれていたダンボールにスネをぶつけてしまい、しゃがみこんだ。
 スネを撫でながら、顔を上げると、机がある辺りに持って行ったと思っていた携帯は置いてあった。
 直紀は……本気なんだ。本当に二度と戻らないつもりなんだ。
 自分の携帯を閉じると、直に着信音も止まる。
 部屋の電気を付け、机を見ると携帯の下に置き手紙のようなものがあることに気付き、机の前まで行ってそれを広げてみた。

 『ダンボール五個だけ送ってください。あとは処分されて構いません』

 と書かれていた。
 部屋にはまだ色々と残っている。
 無造作に積まれたアルバム。学校の卒業アルバムもある。
 本当に、何もかも捨てるということなのか……。あの姿になったことで、生まれ変わったと、別の人生を歩むということなのか?
 あの笑顔は、この家からの開放を意味するのか?
 自分が考えていたよりもずっと遠くへ、直紀は行ってしまったのだと、今になって気付いた……。




 また、春が来た。
 どのみち、この時期には向こうへ行っているはずの直紀。
 分かれ方が思っていたのとは違う形でやってきてしまったが、直紀は元気にやっているだろうか。


 直紀の騒動ですっかり喪中モードだった我が家もようやくいつもの雰囲気を取り戻していた。
「お兄様〜朝ですわよ〜」
「だーかーらー、勝手に部屋に入るなと言っているだろうが!」

 相変わらず、優奈が朝から奇襲をかけてくる。
「いいんですの〜? こんなにのんびりしていて……」
「今から準備始めようと思っていたからいいんだよ」

 部屋から優奈を追い出し、洗面所に向かい、部屋に戻ってスーツに着替える。今日のネクタイは芹香さんからプレゼントされたもので決まりだな。
 今日は、ついに芹香さんを紹介するのだ。


「母さん、会ってほしい人がいるんだけど……」
「ま、ままま! この歳になってそんな……」

 頬を染め、髪型を直すような仕草をする母。いや、違いますよ。
「そうじゃなくて……ボクが、結婚を考えている人と、会ってほしいんです」
「あらまぁ……どんなお金持ちかしら?」

 なぜそっちなんですか!
「ごく普通の家庭のお嬢さんです。お願いですから……ブランド物の話だけはやめてくださいね」
「おーっほっほっほ。わたくしの後輩ですのよ、お母様」
「あらまぁ、いつの間に……」
「わたくしがちょちょっと仕組んだらあっという間でしたわ」
「お前が仕組んだのか!!」
「おーっほっほっほ……おーっほっほっほっほ」



 何だか聞き捨てならないセリフもあったが、何とか、母とは会う機会ができたのだ。
 父は……こちらが公邸に赴くことになりそうだが、また今度ということで……。
 いや、父より何より、この変わり者の母の方が恐ろしい気がしてならない。
 特に、優奈との最強タッグときたら……ボクにとってこれほど恐ろしいものはないかもしれない。
 父が居れば、母もある程度、黙っているのだが……。

 彼女を自宅まで迎えに行ったつもりが、玄関で一家に迎えられてしまった。
 強張った表情で玄関に座ったままの芹香さん。
 心配そうな表情を浮かべるお父さん、お母さん。
 溜め息をつき、首を横に振る妹さん。
「こ……こんにちは。お迎えに来たのですが、どうかされたんですか?」
「こ……腰が抜けちゃったい」

 お父さんが頭を掻きながら呆れた声を出す。
「どうも昔から、面接とか、それみたいな対話が苦手でね。今日はついに腰を抜かしてしまったよ」
「芹香さん、別に母と一対一で話す訳ではないのですから、それに優奈も同席すると言ってますし……」
「あは、あはは、あはははは」

 もう、極度の緊張が限界を突破しておかしくなりはじめている。
「鎌井くん、芹香のフォロー、頼むよ」
「それは、もちろんです」

 彼女の手を取り、何とか立たせたものの、膝がガクガクとしている。
「いゃははは。膝が笑ってるよ」
 貴女もおかしくなりすぎて、強張った表情のままで笑っていますよ。

 何とか自宅の客間まで連れて来たものの、緊張から更に表情も、体も固くなっていた。
 たまに、呼吸さえも忘れている。
 ドアをノックする音で、ついに横に倒れ……そうになったので何とか支えた。
「芹香さん、しっかりしてください」
 と耳打ちする。覚醒した芹香さんは、何度か顔を叩いた。
「だ、大丈夫です……たぶん……」
 なんとも弱々しい返事だった。
 そして、入ってきたのは、母、優奈、お茶を持ってきた坂見さん。
 母と優奈が対面側に座り、坂見さんがお茶を配る。
 ボクが彼女を紹介しようと思ったら……。
「彼女がわたくしの後輩であり、お兄様の婚約者の野間口芹香さんですわ。ついこの間大学を卒業したばかりで、二十二歳ですのよ。ああ、若いっていいですわね。お兄様は二十六だから……四歳違いですわね。
 芹香さん、こちら、わたくし達の母、鎌井亜季。もう、聞いて驚くような年齢ですわね」

「まぁ! 失礼しちゃうわね。これでも心の中はまだ二十代よ」
「おほほほほ。そして、こちら、我が家の家政婦さんの坂見さんですわ」

 坂見さんは自分まで紹介してくれるとは考えもしなかっただろう。慌てて身なりを整え、頭を下げた。
「それからそちらがわたくしの兄、鎌井正臣。ごくごく普通のサラーリーマン。万年女日照りだと思っていたのですが……まさかわたくしより先に結婚を決めてしまうなんて、天変地異でも起こらなければいいのですが……」
「……優奈?」

 なぜこの場を取り仕切り、ボクまで紹介しているのだ。妹であっても何を考えているのか、さっぱり分からない。呆れてそれ以上声も出ない。
「そしてそしてわたくし。鎌井優奈ですわ。芹香さんとは同じ学部、同じ学科、同じサークルでしたのよ。何だか気付いたら二十四歳になってしまいましたわ。……恋人はノーコメント。ファッションデザイン関係のお仕事してますの。四月からお願いしますね、芹香さん」
 一体、何の話なんだろう? 何の話をしに来たんだっけ?
「どうも、迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします……」
 と、優奈に向かって頭を下げる芹香さん。
「あのさ……何の話をしているのかな? 四月からなんとかって……」
「芹香さん、四月からわたくしの助手をして頂きますの」

 もう既に、この家の女の呪縛に早々とハマってしまったということか、それとも早くも仲間入りか?
「早く孫の顔が見たいわ」
「えー、わたくし、オバサンになるのはイヤですわよ」
「だったら優奈さんも早く結婚して、正臣さんをオジサンにしてしまえばよろしいんじゃなくて?」
「おーっほっほっほ。直紀なんて、二十歳前にオジサンだかオバサンだか……――」

 ぶっ飛んだ話を勝手に始めたかと思えば、どーん、と沈み込む母と優奈。
 自爆してどうする、優奈。
「後はそちらにお任せしますから……日取りが決まったら、教えてくださいね……」
「お母様、ちゃんと芹香さんのご両親に挨拶に行かなくては……」
「そ……それもそうよね。近いうちに……来週の日曜でいいかしら?」

 ああ、またしても喪中に逆戻り。
 しかも全くもって干渉する気なし?
 よたよたと退室する二人と坂見さん。
 本来の目的は果たせたのか、果たせなかったのか。何にせよ、優奈のペースにどっぷりハマってしまい、こちらから話を切り出す事もなければお茶を飲む余裕さえもなかった。
 まぁ、反対しているような様子ではなかったし……だからと言って、いきなり子供の話はないだろう。


「……なんだか、拍子抜けですね」
「何だか安心しました。お母様も優奈さんと同じカンジで、面白い方ですね」

 そう言って頂けるとありがたいですが、あの突拍子もない性格を面白いの範囲に入れられるとは、貴女はなんて心の広い方でしょう。
 父が居ないのが当たり前な今、彼女ならこの家でもうまくやってくれそうな気がしていた。




 次は父である。
 とにかく古い考えを持つ、頑固で頭の固い超常識人。
 国会議員であり、現在、内閣総理大臣である父は、総理大臣の住まい――総理公邸が自宅であるようなものだ。
 国会がなければ、総理官邸で仕事をしているらしい。
 多忙なことは知っていても、実際、どんな仕事をしているかなんてボクが知るはずもなく……。
 電話をしても父本人ではなく、秘書の方が応答した。
 暇と言える暇はないことは承知していたので、父に会いに行くのは、土曜日の夜にした。

 景色が綺麗ということで、アクアラインを経由し、目指すは千代田区永田町、総理大臣公邸。
 あの辺りは、国会議事堂や国会記者会館、国土交通省や警視庁など、テレビでよく耳にする建物が集中している。
 総理とその家族の住まいでもある公邸だが……何度か来た事があるものの、やはりここは落ち着かない。

 相変わらずの表情の父。仕事で色々な人と会い、会談しているという経験からか、人の目を見ただけでだいたいどんな感じの人間なのか分かるらしい。
 簡単な挨拶を終えて、少々怯えながらも、真っ直ぐに父を捉える芹香さんの視線に、父はどんな感情を抱いただろうか。
「だいたいの話は母さんに聞いている。君は、今年大学を卒業したばかりだということだが、就職は決まっているのかね?」
「それは――」
 目だけこちらに向ける父に威圧感を感じ、それ以上口にしなかった。
「正臣、お前に聞いている訳ではない。彼女に聞いているのだ」
「すみません」

 相変わらず、他人にプレッシャーを与えすぎだ。
「優奈さんのお仕事の助手をさせて頂くことになっております」
「ファッションデザインか。優奈は自分のブランドを作ることが夢だと言っていたな。まぁ、君も頑張りたまえ」
「はい、ありがとうございます」

 やれやれ。あの表情から見ると、何とか評価はよさそうだな。
「……結婚か……。いつかはそんな話をされると覚悟はしていたのだがな。いざそう言われると、どう答えていいのか……」
 ふぅ、と溜め息をつく父。何となく嫌な予感がする。
「正臣はご存知の通り、鎌井家の長男だ。言うまでもなく、跡を継ぐのはお前だ」
 出た。お固い話が。
「君は長女で、ご兄弟も妹さんだけだと聞いている。君の家の跡継ぎは、どうなっているのかね?」
「私の父は次男で、分家だからその辺りは気にしないでいいと言っております」
「娘二人を嫁に出しても構わない、そう捉えていいのだな?」
「はい、そうだと思います」

 父の雲行きが怪しくなってきた。
「私はそれが納得いかない、が……それで私がこの結婚を反対した場合、お前は私の許から去るのだろう?」
 そう、その通り。ボクも直紀のように、貴方の許を去るつもりです。反対された場合は、自分と彼女の幸せのために、何もかもを放り出す覚悟をしていた。
 ボクは彼女を必要としているし、彼女もそれに同意してくれている。
 それだけの想い、父に反対されたからと言って簡単に諦められるものではない。
「そうですね。何なら、ボクも気に入らないと、直紀のように放り出しても構わないんですよ?」
「正臣、お前……」
「誰が何と言おうと、ボクは彼女と結婚します」

 父はふと表情を緩め、今までとは違う暖かい目でボクを見つめた。
「それだけの想いがあるのなら、私がとやかく言う必要はないだろう。分かっているだろうが、私はそちらのご両親へ挨拶にも行けないほど忙しい。いつになるか分からないが、時間が取れた時には挨拶に伺うことにしよう。
 君は……真っ直ぐで芯が強く、優しい目をしている」

 父の目に、狂いはなかった。

「結納や式の日取りはおおよそ決めているのか? 仲人はもう頼んであるのか?」
「直紀の件がなければ、もう少し早くするつもりだったんですけどね」

 それを聞いて、父の表情が曇った。
「仲人は、会社の上司に頼みました。今のところ、六月までに何とかしたいと思ってますけどね」
「えらく急ぐのだな。しかし、私は……」
「分かってますよ、言わなくても」

 忙しいから、結納も式にも出れないだろう、って言いたいんだろう?
 何年、貴方の息子をしていると思っているのですか。
「そうか……。すまんな」
「話し相手が居なくて、退屈でしょう。暇な時にまた来ますよ」
「ああ、楽しみにしているよ」



 まともに心休まる時間もない、それでなくても気を使う仕事をしているのだ。
 あの日……せっかく帰った自宅にあんな姿の息子が居たら、尋常ではいられないだろう。それでなくても、あんな人なんだから……。
 直紀の名を出しただけで、あれだけ顔色を変える……きっと、その時の感情に任せて言ったあの言葉を後悔している。
 人を見る目が父譲りならば、父は……直紀が心配で、本当はすぐにでも連れ戻したいけど、プライドがそれを許さない。そんな風に見えたんだ。

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