004・釜兄 戒驕戒躁 Z
指を絡めると、違和感がある。
今まで、なかったものがそこにあるから……。
部屋一体が、バラの香りに包まれている。
彼女は……ボクの体に包まれ……甘い吐息を漏らしている……。
今度は……ちゃんと彼女の目を見ることができるだろうか?
顔を髪の毛がくすぐるので目が覚めた。
まだ、けだるさが残っているものの、悪い気分ではない。
背中を撫でる手が、妙にくすぐったいけど、なぜか落ち着く。
ボクはそっと彼女の髪を撫でてから、背中に手を回した。
「あ、起きました?」
胸に顔を埋めていた彼女が、顔を上げてくる。
――大丈夫だ。ちゃんと彼女の瞳を見ることができる……。
「おはようございます」
「おはよう、芹香さん」
彼女はもぞもぞと動きだし、顔の位置をボクに合わせると軽くキスをして、微笑んでくる。
世間から見れば、些細なことかもしれない。だけど、どうしてこんなに幸せなんだろう。
ボクもそっと口付け、彼女を抱き寄せた。
「さ、身支度をしてください。いつまでもそんな格好でいたら、ボクがまた変な気を起こすかもしれませんから」
「抱きしめてからそんな事、言わないでくださいよ!」
手を緩めると、彼女は布団の中を這って足元へ。ボクに背を向けて着替えをはじめた。
さーて、ボクは……もうちょっとお布団の中でゴロゴロしておこう。
支度を終えるとルームサービスで朝食を取り、チェックアウトの時間まで、話をしながらのんびりとしていた。
「今日は……映画にでもしましょうか」
「本当ですかー? 丁度見たいのがあったんですよー」
「ついでに……芹香さんのお宅にでも」
「やややや、やめてください! まだ早すぎます!」
「……とは言っても、昨日、帰ってないんですよ? 今日でなくても、いずれはそうするつもりです」
彼女はもごもごと口ごもって、何を言っているのかよく分からない。
せっかくスーツ着ているのだから、丁度いいとも思うのだが……。
チェックアウトの手続きを済ませると、ショッピングモール内にある映画館へ。
上映時間は一時間半ぐらいだったので、終わった頃には昼食を取るのに丁度いい時間だった。
店内のレストランで食事を終えたが、行くあてもなく、しばらくここで時間を潰していた。
――そういえば、芹香さんは大学四年生だから、今は忙しい時期のはず。優奈はこの頃、毎日機嫌が悪かった気がするのだが……。
「芹香さんは卒業制作、何を作っているんですか?」
「え? 卒業制作?」
「……まさか、忘れてたとかってのはないですよね? 発表会……確か一月末じゃありませんでした?」
「ちゃんとやってますよー。っていうか、何で知ってるんですか?」
「二年前に優奈が……」
「あ、そうか。そろそろ、集中してやらなきゃいけないとは思ってるんですけど……」
ボクが仕事を終えると、毎日会いに行っていた。土日は朝から暗くなるまで一緒に居る。それで間に合わなかったとか言われてはたまらないな。
「会う時間、少し減らしましょうか」
明らかに不満な顔を浮かべる彼女。
「卒業制作が出来上がるまでの事です。……ダメですか?」
「嬉しくないです。……でも、間に合わないのも困るから、仕方ないですよね。そうします」
「どこまで進んでるんですか?」
「まぁ……裁断をぼちぼち……」
何を作るのかは知らないけど、それで間に合うのか?
「今から帰って作ってください。また一年待つのは……」
数ヶ月後に、貴女との生活を考えているボクには、一年は長すぎる。
「さ、帰りましょう」
彼女の自宅前で、車を止め、エンジンを切る。
嫌がる芹香さんを押すように玄関まで行き、チャイムを鳴らした。
出てきたのは彼女の母であろう。なんとなく似ている。
「卒業前の大事な時期に芹香さんを連れまわして申し訳ありません」
深々と頭を下げた。
「お父様はご在宅でしょうか?」
「ちょっと、正臣さん……やめてください」
「ええ、居ますけど?」
「大事な話があるので、少しよろしいでしょうか?」
「ど……どうぞ」
「正臣さーん!!」
今日と決めたら、今言って帰る。止めても無駄です、芹香さん!
和室の客間に通されたボク。なんとも言えない表情の芹香さん。
彼女の母は、すぐに主人を連れてきます、と言い残し、別の部屋へ行った。
間もなく現れたお父さんは……よくも娘を……! と言わんばかりの表情で、ボクを見つめていた。
……あれ?
ボクの向かい側に腰を下ろすのを確認すると、挨拶をはじめた。
「鎌井正臣と申します。卒業前の芹香さんを連れまわして申し訳ありません。……あの、失礼ですが、××企業の……」
「部長の野間口だ」
「その節はどうも……」
と頭を下げた。
「……何? お父さん知ってるんですか?」
「お仕事で何度か……」
会った人が、芹香さんのお父さんだったなんて……。
「キミは確か、株式会社イマジネーション、企画課、係長の鎌井くんだったかな?」
「はい、そうです」
覚えていてくれたのか……。
「正臣さん、係長なんですか? ええー?」
緊張からか、大袈裟に驚く芹香さん。この時、ふすまが開き、お茶を持った母が入ってきた。その後ろには、妹さんがこっそり覗いている感じ……だけど、ふすまは閉じられた。
お茶を配り終え、座った母。口を開こうかと思ったが、先に部長が喋りだした。
「大事な話とは何かね?」
そう聞かれると、頭の中が真っ白になりそうだった。向こうもある程度は察しているはず。だからこそ、はっきりと言わなくてはならない。
「以前より、芹香さんとお付き合いさせて頂いております。今年の五月には、黙って旅行に連れ出しました。昨日も、何の断りもなく芹香さんを連れ出して申し訳ありませんでした」
頭を下げるのもこれで何度目か。
「ボクは芹香さんと結婚を前提にお付き合いしています……」
「認めない、と言ったら?」
え?!
「そ、それはもう、認められるよう頑張る次第であります」
部長……いや、芹香さんのお父さんは一度溜め息をつく。これはありきたりすぎたか?
「……麻里香のせいで、若い者を見る目がすっかり変わってしまってね。最近の若い者はふざけた奴ばかりで、仕事が思ったより大変だから辞めるだの、休むだの。遊ぶ金欲しさに楽で給料のいい仕事を選ぶ。仕事がない、仕事がない、と言われる割には、職業安定所にどれだけの求人情報がある?」
「は?」
何の話ですか?
「何度か一緒に仕事をした程度だが、キミはウチの若い者とは何か違うものを感じたことをよく覚えている。キミのような人材を求めたが、結局、見つからなかったがな」
これは、評価されていると取っていいのだろうか。
「真っ直ぐで、いい目をしている。キミになら、芹香を任せてもいいだろう」
「あ、ありがとうございます」
「キミのような人でも、黙って旅行に連れ出したりするのだな」
いい評価を頂いた後だけに、ドキリとした。
「すみません」
「まぁ今更、過去の事をとやかく言う必要もないだろう。そういうつもりがあって、連れて行ったのだと、信じている」
どういう……つもり?
……! 違う、違うんです! そんな事をする為じゃなくて……。
「芹香……いい人に巡り会えたな」
「……お父さん」
「この子は大事な娘だ。私たちでは与える事ができない幸せをキミが……芹香を幸せにしてやってくれ」
頭を下げるお父さん。ボクも思わず頭を下げた。
「はい。必ず、幸せにします」
「芹香、部屋に上がってお話でもすれば? すぐにお茶を――」
「だめー!!」
客間での話を終えた後、お母さんの提案を跳ね除けた芹香さん。
「どうして?」
「だって……卒業制作のアレ……出しっぱなしだし……片付けたら分かんなくなっちゃうよ」
「……いいじゃない、見られても」
「いやぁだぁー!」
そんなに見られたくないのですか……。何だかショックです。
「いいですよ。卒業制作の進み具合が悪いようでしたので、お送りしたついでにご両親にお話しただけですから、ボクはこれで帰ります」
「そう? ごめんなさいね」
お母さんにそういうと、芹香さんの方に向いた。
「しばらく、ボクからは電話を掛けないようにします」
「え? どうしてですか?」
「卒業制作の邪魔になるといけませんから。一段落ついたら、いつでも電話ください」
彼女は渋々といった感じで首を縦に振った。
「それでは、ボクは失礼します」
玄関を出ると、芹香さんがボクを追って出てきた。
「しばらく……逢えないんですか?」
「その方がいいでしょう。今は作品を仕上げるのに集中してください」
彼女の表情が一層、不安げになった。
「ボクも辛いですよ。でも、そうするしかないでしょう、今は。今が大事な時期なんですから」
「……そうですね……」
「出来上がるまで逢わないとか、電話を掛けるなと言っている訳ではないんです。ボクからはそれができないけど、芹香さんが時間を取れる時は、いつでも会いに行きますし、電話にも出ます」
何度も頷いているが、今にも泣き出しそうだ。
そっと抱き寄せると、涙を浮かべた瞳で見上げてくる。涙を指ですくうと、彼女の唇にボクの唇を重ねた。
離れるのが惜しくて、何度も、何度も唇を重ねた。
「頑張ってくださいね。ボクはいつも貴女を想っていますから」
「……はい。早く仕上げて逢いに行きます」
「くれぐれも、無理はしないように。間違えても指までミシンで縫わないようにしてくださいよ」
「そんなことしませんよ」
彼女の顔に少し笑顔が戻っている。
「それでは、また……」
彼女が車から離れ、手を振る。
ボクも軽く手を振り、前を向き、車を走らせた。振り返ることもなく、ミラーも見ず……。
彼女を連れ去りたくなりそうだったから……。
たまに掛かってくる電話で、少し話すだけで、無性に逢いたくて……。
以前のように週に一度だけ、数時間だけど逢える時間もあった。帰したくなくて、何度も引き止めそうになった。
結局、正月は初詣どころではなかった。
机の上に飾られている写真を見るのでさえ辛くなってきた。
逢いたいのに、逢いに行けない。
ただ、仕事に集中して紛らわせることしかできなかった……。
――芹香さんも、同じ気持ちですか?
――一月中旬。
昼休みに掛かってきた電話越しの彼女の声が、今までとは違い、陽気さを取り戻していた。
「出来ました、出来ました。間に合いましたー」
まるで受験に合格した人のような喜びようだ。
「今日、逢えますか?」
それはもちろん。
平日だったので、ボクが仕事を終えてからではあるが、芹香さんの自宅に迎えに行くという約束をした。
迎えに行ったついでに出来上がった作品を見せてくれるものだと思いきや……。
「絶対にダメです!」
と拒否された。
「見るんだったら、発表会かそれよりちょっと先にしてください」
とのこと。さっぱり意味が不明ですよ。
「発表会はいつですか?」
「今月末の日曜日……二十九日です」
「場所は?」
「プラザの二階ホールです。優奈さんも来るみたいですよ」
そこでなぜに優奈。
「あれ? 聞いてません? そっち関係者も来るんですよ、あの発表会」
そういえばそうだ。優奈も卒業制作発表会でその関連の方に声を掛けられたとか何とかで今の仕事に就いているらしいが。
「私も声、掛けられたら、就職安泰でしょうけど……」
「いいじゃないですか。なくても永久就職という手があるんですから」
「……あははははは。またまた、言いますねー」
何でも言いますとも。久しぶりにゆっくりと会えたのだから……。
お祝いも兼ねて一緒に食事を取る事にした。
いつもは運転手のボクに気を使って飲まないビールを、今日は勧めた。
「いやー、何かをやり遂げた後のお酒は格別ですねー」
意外とオヤジ臭い事を言う人だ。その上、意外と飲む。旅行の時はこっちが驚くほど飲んでたし、そのわりに二日酔い知らずで……。
「どんどん飲まれても構いませんよ。ちゃんと家まで送りますから……」
「……帰しちゃうんだ」
「そりゃそうでしょう。ボクは明日も仕事なんですから」
っていうか、ちょっと期待してしまったじゃないか。
……飲み過ぎて絡まれたらどうしよう。
――そしてやってきた、卒業制作発表会。
簡単に言えば、芹香さんたちファッション造形学科のファッションショーと言ったところか。
優奈が会場まで連れて行けとうるさいので、仕方なく車に乗せて行った。
二階のホールでは芹香さんのご両親と会い、話をしながら開始時間を待った。
「私は出来上がった作品は見ているんですけどね」
「ワシは見てないぞ」
「芹香、本当は今日、お父さんには来て欲しくなかったみたいですよ」
「なぜだ!」
「……芹香の作品を見れば、分かると思いますよ。形はどうあれ、二度も見て欲しくないですもの」
知っているお母さんの思わせぶりな発言にやきもき。お父さんはボクと同じく、見せてもらえなかった派らしい。
「芹香、一番最後だけど、大丈夫かしら?」
各自が論文を基にデザインし、作った服をまとい、ファッションモデル風にクルクルと回って見せる。
目的の芹香さんはまだかと、お父さんも痺れを切らしている頃……ようやく最後――彼女の番が回ってきた。
今までの作品とは違い、服の色は真っ白。手に持っているものだけが色鮮やかだった。ゆっくり、ゆっくりと歩みを進める。真っ直ぐに前を見ているのではなく、少し下の方を向いて……。あれは――!
「ウエディング……ドレス?」
芹香さんのまとう純白の服はそれ以外の何物でもない。
「真っ白な心で、愛する者の許へ嫁ぐ気持ちを形にしたもの。ふわふわとした感じは、嬉しくて浮かれた気分を現しているんだって。そう言ってました」
隣に居るお母さんがそう教えてくれた。
「お父さんに来て欲しくなかったのは、本番の一回だけ見て欲しかったからですよ」
ステージでゆっくりとお辞儀をする姿が、まるで他の誰かの許へ行くような雰囲気で、胸が締め付けられるように痛んだ。
芹香さんは顔を上げると、ボクの方を見てとても幸せそうな笑顔を浮かべた。
――この大勢の中からボクを見つけてくれた。
『見るんだったら、発表会かそれよりちょっと先にしてください』
貴女はその日の為にそれを作ったのですか?
芹香さんの想いを込めて……。
「芹香……」
何とも言えぬ表情で、お父さんは彼女の名を口にした。
大切な娘……嫁に出すには惜しいでしょう。
ボクも……ボクにはもったいないぐらいですよ。
「さぁ、お兄様。芹香さんの手を取りに行ってはいかがかしら?」
仕事関係者と話をしていたので静かだと思っていたのに、やはり出たな、優奈!
今、ステージを壊す訳にはいかないだろう。
とりあえず、不審な表情のお父さんとお母さんに、自分の妹だと紹介しておいた。
発表会を終え、出てきた芹香さんと合流。
「あれ? お父さんとお母さん、来てたよね?」
辺りをきょろきょろと見回し、姿を探している。
「もう、帰られましたよ。とても綺麗だったとおっしゃっていました」
「そうですか……」
腑に落ちない表情。やはり感想は直接言って欲しいものだろう。
「本当に……綺麗でしたよ。もう一度見られると思ったら、楽しみでなりませんね」
「そ……そうですか?」
目を逸らし、恥ずかしそうに笑う彼女。
その背後に口をあんぐりと開け、何とも間抜けな表情の女性が三人……。
いつぞや、見たことある顔ぶれですね……。
「うわ! 出た! 芹香のダーリンだ!」
出た! とは何ですか!
「キャー、間近で見たらチョーカッコイー」
……何語?
「芹香にはもったいないって」
何て事を!!
貴女たちは、彼女の何を知っているんですかー!! 怒りますよ。
とりあえず出来た表情は……苦笑い。
「……ということで、帰ります! じゃ、明日ねー」
と三人に言い残し、芹香さんに腕を引っ張られてその場を後に……。
「芹香って小さいから、歳の離れた兄妹でも通用しそうよね?」
通用しては困ります!
その日は、芹香さんの自宅で夕食をご馳走になった。
楽しく会話が弾む中……妹さんの刺さるような視線だけは何とも言えなかった。
「この調子で卒業試験も何とかパスしなきゃ……」
意気込む彼女。
「麻里香も卒業試験なんとかなりそうか?」
そういえば、妹さんは直紀と同い年だから、高校三年生か。
ようやく、ボクから視線をはずし、父の問いに答える。
「試験、ムリっぽいから補習と追試じゃない? 出席日数足りないから、しばらく来いってさー。することないのにー」
「毎日、普通に家を出ていたくせに、どういうことだ」
「遅刻と早退、三回で欠席一回扱いっぽくて、ダメなんだって。先に言えーってカンジなんだけどー」
不良なのか、妹さんは……。
「……このバカモノめが……。鎌井くんの爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだな」
「爪の垢だけじゃなくて何でも飲んじゃうよ」
ボクの方を向いて、舌で唇をペロリと舐めた。その瞬間、背筋がゾクゾクとした。
「麻里香ちゃん!」
いやはや、家族で食事している最中に平気でそんなことを言うとは、恐ろしい子だ。
「母さんや、私たちはどこで育て方を間違えたのだろうか……」
「……友達との付き合いにもよりますから、一概にわたしたちが悪いとは言い切れないと思いますよ、お父さん」
二人して遠くに行ってしまったような感じの口ぶりだった。
「芹香はこんなにいい子なのに……」
お父さんは隣に座る彼女の頭を撫でる。笑顔でお父さんを見つめる芹香さんに対し、妹さんの反応は……。
「うわ、オヤジ、キショイ。姉ちゃんも撫でられて喜ぶなよ。加齢臭がうつるって」
年頃の女の子は父親をやたら嫌う時期があるらしいが、これはヒドい。汚いもの扱いじゃないか。それに比べると、本当に芹香さんはいい子だ。
妹さんに散々な事を言われたお父さんは、苦い表情だった。
「最近、娘が怖いよ……」
お父さんはボクの方を向いて、悲しそうな顔をした。キビキビと仕事をこなし、こっちから見てもちょっと怖い感じの野間口部長ですら、怖いものがあるんですね……。
二月上旬に卒業試験も控えているということで、もう少し会えない時期が続いた。
試験も無事に終えたということで、彼女の誕生日は一緒に時間を過ごす事ができた。
三月上旬……卒業が決定したと、彼女は電話口でおおはしゃぎ。中旬には卒業式を迎えた。
弟、直紀も進学する大学を決め、高校も無事卒業を迎え、何もかもが丸く治まったと思っていた矢先……。
とんでもない事件が、我が家で起こってしまったのだ……。