004・釜兄 戒驕戒躁 Y


 それから幾度となく、待ち合わせの駅で……。

「ごめぇん、待ったぁ〜?」
 おやおや、芹香さん。身長がグーンと伸びましたねーって!! そんな事がある訳がないだろう!
「何しているんですか? ……えっと……麻里香さん?」
「あら〜? バレました〜?」
「バレバレですよ」

 ボクが彼女を間違えるはずがない。彼女はそんなおかしなイントネーションで喋ったりしない。そんなに外見を似せても、彼女とは違うオーラが出てますから……。芹香さん曰く、男を捕らえようとしている獣の目。
 今にも食われそうで怖い。
 芹香さんから聞いた話では、直紀も餌食になった上に、二、三ヶ月で振ったとか、振られたとか。何を考えていたのだ、直紀! 若気の至りか?
 しかし、世の中広くて狭いな……。
「麻里香ちゃぁぁぁぁん!!!!!」
 妹さんに見事な飛び蹴りを食らわせる彼女が、本物の芹香さんだ。
「いったいなぁもぉ! 服汚れちゃったじゃない!」
「賠償金だと思えばいいじゃないの!」
「何よアンタ、ちょっと話し掛けただけで金取る気?」
「麻里香ちゃんは男取って逃げるじゃないの!」

「たまたま好きになった男に彼女が居ただけで、男がワタシを選んだってだけでしょ? 人聞きの悪い」
「人聞きどころか、体裁が悪いわよ! いつもいつも、麻里香ちゃんは男が違うけど、芹香ちゃんはいい人いないのー? ってご近所のオバサンに言われてるの、知ってる?」

「……いい人、いないの?」
「いるじゃないのよ! そこに、私を待ってる彼が!」
「やっぱ、付き合ってんだ……」
「何よ、悪いの?」
「だからか……ミョーにキツかった子供っぽさが抜けたのか……へー」

 車の中でぽかんとしているボクの方に、妹さんが助手席の窓から体を乗り入れて聞いてくる。
「乳だけデカいでしょ、あの女。他は幼児体型で、バランスが悪い」
「は? いや、あの……」

 そんなこと、答えられるかー!! まだ一回だけだし、失礼だと思って、そこまでじっくり見てない! それより、こっちも見られているって思っただけで、恥ずかしくてそれどころじゃなかった。
 ああもう、変な方にスイッチ入っちゃったじゃないか!
「……っていうか、欲情しました? アレに……」
「麻里香ちゃぁぁぁんんんん!!!!!」

 真っ赤な顔をして妹さんの背中をボコスカ殴る芹香さん。
 その後、駅前が修羅場になったということは言うまでもない。

 初回は、そういうやりとりがあった。
 それから、幾度となく……ね。




 言われるまで気付かなかった。ボクは肝心な事を彼女に話していなかった事を……。
「誕生日?」
「そうです。聞いてませんでした」

 彼女の誕生日は優奈が教えてくれたから対処できたものの……。
「うっかりしていた私も悪いですが、過ぎた後だったら、今すぐにでも誕生日会する勢いですよ」
「……今月です。十月二十五日。幸いまだ過ぎていません」

 丁度、一週間先。本当に微妙な時期に気付いたものだ。
 彼女は慌てて携帯を取り出し、何かを打ち込んでいる。
「……これでよし。携帯が水没しない限り、忘れないわ……」
 どうやらスケジュールに打ち込んだらしい。しかし、携帯を機種変更したら意味がないような……。いやいや、そんなことで忘れるような事はないと信じているけど。
「ということで、二十五日、どこに行きましょうか?」
 ……考えてないのか! いやはや、初めての約束の日を思い出してしまうよ……。




「正臣、二十五日……」
「……ゴメン、先約が……」

 ボクの誕生日を目前に控えた日曜日。
 毎年恒例の誕生日パーティーの話であろう。しかし、残念ながら芹香さんとの約束の方が先だったし、後だったとしても今回は断るつもりだった。
 母の表情はみるみる曇る。
「ああ、今年はお見合い写真をプレゼントしようと思ったのに……。なんてことでしょう。それを察して逃げるとは……」
 普通はそういう風に解釈しないと思うのですが……。
 相変わらず、母は彼女の存在に気付かない。突拍子もない勝手な思い込みは常にそれだけを除外しているのだ。
「お見合いなんてしませんよ」
「どんなにお金持ちでも?」
「しません」
「どんなに美人でも?」
「しません」
「元・ミス日本でも?」
「結構です」
「将来、社長の椅子が手に入っても?」
「……そこまで出世する気はありません」

 その時、ダイニングの扉がバーンと勢いよく開いた。
「おーっほっほっほ。お母様、お兄様にそんな事言っても無駄ですわ」
 出てきたな、優奈。そろそろタイミングよく出てくる頃だと思っていた。そして、言わなくてもいい事を何か言うはずだ。今日はついに芹香さんの事がバレるのか?
 やましい付き合いはしていない。どこからでもかかってきなさい!
「お兄様はロリコンですから、美人には興味なくてよー。おーほっほっほっほ」
 ろ……ロリコン?!!
「ま! 小学生が好みなの?」
「なぜそうなるのですか?」
「そのうち誘拐だとか性犯罪に走って……ああ、恐ろしい! 母はそんな子に育てた覚えはありませんよ!」

 またしてもどこかに走って行った母。また竹刀か? あれはボクの部屋のクローゼットに仕舞ったはずだ。
 母は何もまとわず、持たず。後ろに直紀が付いて来ただけだ。
「今のうちに成敗いたしますわ! 直紀、やっておしまい!」
「え? 何の話?」
「とりあえず、一本背負いでも、足払いでも、何でもいいから、正臣の腐った根性を叩き直してちょうだい」
「直紀、しなくていいから……母さんが勝手に勘違いしただけだから……」

 首を傾げる直紀。しかし、体を適当に解し始めている。
「直紀……くん?」
「最近、あまり動いてないから、急に体を動かしたくなってきた……かも」
「だからって何でボクに?」

 じりじりと距離を詰める直紀から気を逸らそうと思ったのだが、視線はボクを捉えたまま、更に距離を詰めてくる。
「だって、女の人を投げる訳にはいかないでしょ?」
「そうよそうよ! やっておしまい!」
「成敗、成敗!」

 そこのギャラリー、直紀を煽るな!
「では、いきます!」
「やややや、やめろー!!!」

 と言った頃には直紀はボクの腕をがっちりと掴み、懐に入った後で……次の瞬間、体が浮き、フローリングに背中から叩きつけられた。
「キャー! 見事な一本背負いでしたわね、お母様」
「ええ。やはり柔道はいいわね。小さい者が大きな悪者を投げ飛ばす瞬間なんか、たまらないわ」
「よ……くない!」
「あー、スッキリしたー」

 スッキリするな! とばっちりを受けたボクの身になれ!
「竹刀がなければ、剣道なんて役に立たないわね」
 習えと言い出したのは貴女でしょう!
「お兄様、弱い……弱すぎる!」
 元を糺せば、優奈のせいだ……。
 ボクは仰向けに倒れたまま、しばらく動けなかった……。
 今日も約束の時間に遅れそうです……。


「珍しく、遅刻ですね。今回もまた疲れてますが……また竹刀でも向けられたんですか?」
 待ち合わせ場所である喫茶店に到着したものの、またテーブルに突っ伏していた。
「いえ、今日は投げられました……」
「は?」
「弟、柔道の……何段かは知りませんが、黒帯なんですよ。それなのに……たかが誕生日パーティーを断っただけで、優奈の狂言にまんまと騙され、直紀をけしかけてくるとは……」
「……大変ですね、相変わらず」
「何がお見合い写真だ……。あの家に嫁として来てくれるのかって方が心配になってきますよ……」

 泣き言ついでに、黙っておこうと思っていたことをついつい漏らしてしまった。
「……お見合いするんですか?」
「しませんよ。母が、今年の誕生日プレゼントはお見合い写真だとか言っていただけですから」

 普段なら、顔を起こして反論する所だが、どうしても顔を上げることができなかった。
「……誰かと結婚するつもりですか?」
「それは……いずれは……」

 貴女と……なんて、恥ずかしくて言えない。
「……呼んでくださいね、結婚式……」
 自分は対象外なのはなぜですか?
 ボクって……貴女にはその程度の男なのですか?
 それなら、いずれ『はい』と答えてもらえるような、男になろうじゃないか。
 ……ああもう、今日は絶対に厄日だ!




 ――そして、十月二十五日。
 平日につき、普通に仕事して……定時で退社、と思い荷物を持って席を立った時……。
「鎌井さ〜ん」
 女性社員がボクの前に立ち塞がった。
「あの……急いでいるのですが……」
「今日、誕生日ですよね。一緒に飲みに行きませんか?」

 オフィスがざわつく。
 どこからか、ついに鎌井に手を出すか? なんて聞こえる。それはどういう意味だ。
「先約があるので、すみませんがお断りします」
 きっぱりと断ってから、彼女の横を通り抜けた。

 外に出ると、陽は沈みかけていた。
 昼間の日差しも随分柔らかくなり、肌寒さをおぼえるようになってきた。
 風も、心なしか冷たくなっている。
 こんな中、彼女を長時間待たせる訳にはいかない。
 はやる気持ちを抑えつつ、ボクは彼女のもとへと向かった。


 駅で彼女を拾い、向かう先は……。
「とりあえず……ご飯ですかね」
 結局は考えがまとまらなかったらしい。
 とりあえず、近くのファミレス。

「正臣さん、誕生日おめでとうございまーす。かんぱーい」
 互いのグラスを当て、口を付ける。
 中身はジュース。もっと詳しく言えば、フリードリンクだったりする。
 ボクが運転手であること、芹香さん一人だけ飲むのは気が引ける、という理由でこうなった。
「二十六歳ですか……私が二十一だから……五つも違うんですね」
「芹香さんは早生まれだから、学年的には四つしか違いませんよ」

 彼女にとって年齢差は障害なのだろうか? 『五つも』という言葉が少し引っかかった。ボクは『四つしか違わない』と思う。年齢よりも、その人の存在が、自分にとってどうであるか、その方が大事だと思っていた。
 相違点はあって当たり前。ボクはボクの考えを持ち、彼女も彼女なりの考えを持っている。全く一緒だなんてありえない。
「……何歳までに結婚したいとかって……男性はそういうの、考えないんですか?」
 ぼそぼそと聞いてくる彼女を不審に思いながら、考えをはっきりと答えた。
「昔は全く考えてなかったですけど、今は……そうですね、二十七までには決めたいところですかね。芹香さんはどうですか?」
 二十七歳と言った理由もちゃんとある。今、大学四年生の彼女が卒業したら……という意味も込められている。 彼女は、どう考えているのだろう? 少し気になって、彼女にも同じ事を聞いてみた。
「それは……早い方がいいでしょう。女は子供産んだり、育てたりってのもありますから、遅いと体がついてこない気がするし……」
「子供は何人ぐらい?」
「それは……二、三人ぐら……って、何を聞いてるんですか!」
「あははははは」

 顔を真っ赤にして怒り出し、恥ずかしさに負けて両手で顔を覆って横に振り出した。

 ――貴女が思い描くその家庭に、ボクの姿はありますか?
 ボクの思い描く未来は、愛する貴女の居る、とても暖かい家庭なんですよ……。

 言葉にしなければ伝わらないのならば、いずれ言葉にしよう。
 ボクの願いが現実のものとなるように……。ボクの想い、キミへの想い、全てを込めて……。


「すみません……何だか結局、気の利いたことができなくて……」
 車の中で少し話しでも……と思い、乗り込んだはよかったが、しょんぼりモードの芹香さん。どうも、結婚がなんとかって話から、イマイチ、ノリが悪くなったというか……。
「ボクは嬉しかったですよ。最愛の芹香さんと一緒に誕生日を過ごせたのですから」
 また、サラっとそんなことを……あれ?
「どうしたんですか? 芹香さんらしくありませんよ」
「……正臣さん、本当に私の事、想ってますか?」
「どうしたんですか、急に……」

 気付かないうちに、彼女を不安にさせるような発言でもしただろうか?
「だって……あれから何もないじゃないですか」
「あれ……から?」
「旅行の時です」

 どどーん、と波が押し寄せ、危うく飲み込まれそうになるような衝撃ですよ、それは。
 かーっと顔が熱くなって、頭が混乱してきた。
「いや、その、あれは、なんというか……」
「一夜の過ち……ですか?」

 そう言われればその類。でも、一応、意味は違って……。
「違います、だから……」
「分かってます。分かってるんです。貞操観念が強い方なんだって、知ってます。どんなに愛されているのかも分かってるんです。だけど……時々、ものすごく不安になるんです。だからって、こんな日に出なくてもいいのに……ごめんなさい、本当に……」

 顔を覆って泣き出す彼女。
 はっきりとした態度で彼女に接したつもりだったのに、それが却って不安にさせた?
 言葉や態度だけでは相手に伝わらない何かがあるのか……。
 それが体の関係?
 ボクには理解し難い、それこそが……。
 助手席に座る彼女を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「ボクは……ずっと自分の感情を抑えているんです。また、貴女の目を見れなくなるのが怖いんです。あの時は、急な出張で距離を置いたから、後の結果が良かっただけで……次はどうなるのか分からないから怖いんですよ。貴女が大切だから、失いたくない。こんなことで、失いたくないんです」
 あの日から封を切ったように溢れてくる欲望を、どんなに必死で抑えてきたと思う?
 今だって……今までだって、帰したくないと何度思った?
 キミと出逢ったことで、ボクの常識が打ち崩されたことも……こんなにも夢中になっていることも……。
 芹香さんの存在があってこそのこの感情も……今のボクが存在する理由も、何もかも彼女だけのため。貴女を想っているからこそ……どうすればいいのか、何をすべきなのか、分からなくなる。
「……まだ、早すぎると思うんです。だから……もう少し待っていただけませんか?」
 腕の中で何度も頷く彼女。しゃくりあげながら小さな声で何度もごめんなさい、ごめんなさい、と言う。それが却ってボクを辛くさせる。

 言葉でなければ伝わらない想いがある。
 態度や行動でなければ伝わらない想いもある。
 恋愛とは、難しいものだ……。

 ――ずっと側に居たのに、気付いてあげられなくて……申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 今のボクにできることは、彼女を強く抱きしめてあげることだけだった……。


「ほんっとーにごめんなさい! せっかくの誕生日に、何やってんだぁ私は!」
 両手を合わせて謝り出したかと思えば、今度は両手で顔を何度も叩いている。
「聞かなかった事にしてください! どこぞの欲求不満女じゃあるまいし、なんて事を……」
 それは貴女の妹さんの事でしょうか?
 まぁ、それは置いといて……。
「……ずっと、ボクの側に居てくれますか?」
「え?」
「側に居てください。そして……笑っていてください」
「……はい。そうします」

 ボクは……それだけで幸せな気分になるから……。
 一日でも早く、貴女にボクの想いが言えるように……ボクの願いが叶うように……。
 貴女の思い描く未来と同じでありますように……。

 その日は、きっと、貴女を帰さないでしょう……。


「ああ! プレゼント、うっかり渡し損ねるところでした」
 鞄を漁り、出てきたものはそんなに大きくもない。
 暗くてはっきりとは分からないが、手渡されたそれは、丁寧にラッピングが施され、リボンまで付けてある。
「ありがとうございます」
「開けてみてください。きっと驚くと思うんです」

 車内灯を点け、リボンを解き、丁寧に包装紙をはがすと……『zippo』と書いてある黒い箱が姿を現した。
 箱を開けると、キーケースとライターが入っていた。
 そのライターには、ボクが乗る車と同じ、『R32 スカイライン GT−R』が描かれていた。
「芹香さん……これは……」
「合ってますよね? 正臣さんの車と同じ……」
「間違いないです」
「知ってますよ。タバコ、吸われる事は……」
「え?」

 人前では吸わないようにしていた。ましてや、彼女の前では一度も吸った事はない。なのに、なぜ?
「いつ気付いたか、気になりますか?」
「それは、もちろん……」
「まず、匂いです。正臣さんに抱かれると……いつも、タバコの匂いがするから……」

 思わず自分の服の匂いを確認してしまった。……よく分からない。
「吸っている人は、意外と気付かないものですよ。慣れてるからじゃないかな? あと、灰皿……」
 と車の灰皿の位置に視線を向けた。
「使用感があるんですよ。だから、そうかな……って思って」
「そんなことで?」

 そのぐらいなら、もしかしたら会社の他の誰かの匂いが移ったとか、助手席に乗った誰かが……って可能性だってある。まぁ、元々、助手席に乗る人物といえば、限定されるが……。
「いえ、あと一つ。……キス……です」
「き……す?」
「ちょっと……苦い感じ……」
「やめましょうか?」
「キライじゃないです。……別に、嫌いって訳じゃなくて……正臣さんの味っていうか……」

 あ……じ?
 本日二度目のビッグウエーブ。……ざっぱーん。飲まれた……。

 嫌いじゃないなら何度でも。
 理性を失ったように、何度も何度も……。
 我に返って思ったことは……室内灯、点けっぱなしで、もしかして、外から丸見え?




 ――十一月、高校三年生の弟、直紀が学校で暴力事件を起こした。
 聞いた話によると、文化祭でちょっと肩がぶつかっただけなのに、暴言を吐かれたとか……。
 それでなくても、勉強漬けでストレスが溜まっているというのに、そんな形で発散することもないだろう。
 父不在の今、ボクが父の代わりとして、母と直紀を連れて相手のご家族に頭を下げに行った。
 その事件の事はもちろん父の耳にも入っている。
 大学への進学前の大事な時期ということもあり、学校側に大金を寄付し、本来ならば退学のところを一ヶ月の停学処分で済んだとか。
 何でも金で解決させるから、金持ちへの偏見が絶えないというのに、これも普段は離れている父なりの愛情なのだろうか……。




 ――私の前に居る時ぐらい、普段の正臣さんで居てください。
 好きな女の前ではかっこつけたい。かっこよくありたい。
 かっこいいと言われたい。


 今日はキメるつもりだ。いや、そうする。
 いつもより時間を掛け、いつもより……。

「お兄様、顔、緩んでますわ……」

 いやいや、そんなはずは……。
「優奈?!!」
 鏡の前で身支度しているボクに急に話しかけてきた優奈に驚き、大袈裟なリアクションでそちらを向く。壁にぶち当たってしまい、下がりたいのにこれ以上は後ろに下がれない状態だが……。
「お兄様がブルガリだなんて……」
 うっかり出しっぱなしの香水瓶を手に取り、手首に付けて匂いを確認している。
 ボクは壁に張り付いたまま、動けず優奈の行動を目で追うばかり。
「なぁんだ、いつものですか……」
 ボクの方に向きを変え、急に体中を匂いだす。
「なななな、何だよ、優奈……」
「……ちょっと、キツくありません? まぁ、兄さんの場合はフェロモン放出しすぎなので、つけすぎで隠すぐらいがいいでしょうけど……」

 フェロモン放出しすぎって何だよ!
「……この服では抱かれたくないですわね」
「臭いか?」
「ええ。程々になさった方がよろしくてよ」

 匂いの充満した洗面所で、嗅覚が鈍ったのか、自分ではよく分からない。
 仕方なく着替えに上がったのは言うまでもない。
 土曜日――休日にも関わらず、スーツに袖を通し、ネクタイを締め直す。
 ――クリスマスイブ。
 この日を選んだのに、特に理由などなかった。
 ただ、一日でも早く……という結果、今日になっただけ。
 どんな結果になっても、ボクの想いは変わらない。
 それだけの覚悟がようやくできたということ。

 出掛ける時間は、夕方。これも計画のうち。
 彼女があまり好きではない、ナイフやフォークが大量に並ぶであろうクリスマスディナーを予約してある。
 今回は前もって彼女に言っておいたので、それなりの覚悟はできていると思うが……。
 在宅中の母に出掛けると声を掛けるため、ダイニングに顔を出す。
 丁度、優奈とお茶の最中といったところか、坂見さんがポットや茶菓子をテーブルに並べていた。
 優奈と母、我が家の最強コンビを目の当たりにし、血の気が引く。無事に出掛けられるのか心配になってきた……。
「あの、ボク、出掛けてきます……」
 何より、優奈の言動に怯えている。その後の母の行動が恐ろしい。
「正臣、こんな時間からど――」
「いってらっしゃい、お兄様」

 優奈が母の言葉を遮り、手を振っている。
 母はターゲットを優奈に切り替えた。
「優奈さん? 何かご存知なのね?」
「……おーほっほっほっほ。わたくし、年下のお姉さまには大歓迎ですわよ。おーっほっほっほっほっほ」

 うわぁ、何だよお前は! ボクがそこまで考えていたことに気付いていたのか!
「正臣さん、何の話ですか、これは……がふ――」
 クッションを母の顔に押し付ける優奈。それを見て唖然とするボクと坂見さん。
「さぁ、お兄様、今のうちに……!!」
 優奈に声を掛けられ、我に返る。
「すまない、優奈! 今日は……戻らない」
 ボクは駆け出す。
 ガレージのシャッターが開く時間もじれったい。
 今日は、戻るつもりはない。
 ポケットの中をもう一度確認する。
 忘れ物は……ない。
 正面に立つカーブミラーに映る車もなし。
 走り出す。芹香さんの自宅へ……。


 彼女の自宅前。
 玄関から慌てて出てきた彼女は、何度か転びそうになりながら、玄関に向かって文句を言っている。
 玄関から覗く、妹さんと……母? 更にその上には中年男性が鬼の形相でこちらを見ていた。もしかして、お父様ですか?!!
 挨拶ぐらいはした方がいいだろうか……。
 車から降りると、タイミングよく芹香さんが転んだ。
 起こしに駆け寄るついでに、玄関から覗くご家族に簡単に挨拶をしておく。
「せっかくのクリスマスに申し訳ありません。芹香さんをお借りします。近いうちに挨拶に伺いますから……」
「キャー、もう、やめてください!!」

 立ち上がり、わたわたと慌てたかと思えば、くるりと家の方に向きを変え、家族には文句を言う。
「もー、いつまでも見てないで、さっさと家に入ってよー!!」
 ここで女性陣は顔を引っ込めたが、父だけはボクを睨むように見ている……かと思ったら、
引き込まれて文句を言われていた。あの声は聞いた事のないものなので、母親の声だろうか。


 芹香さんを車に乗せ、向かうはいつかバレンタインディナーで行ったホテル。
「今日は少し、身長が高かったように思いますが……」
「ちょっとかかとの高い靴なので……。慣れないものはダメですね。すぐ転んじゃいます」

 それで何度も転びそうになっていたのか。
「それはともかく……何で車から降りたんですか?」
「ご両親が覗いてらしたからです。挨拶なしで連れて行ったら、印象悪くなるでしょう?」
「まぁ……それはそうですが……」
「なぜ覗いていらしたのかが疑問ですけど……」
「この服装のせいです」

 今日は行く場所に合わせたといった感じでスーツ姿だ。相変わらず、髪は外に跳ねている。
「車の音が聞こえたから、こっそり出るつもりだったんだけど……部屋を出た瞬間に妹に見つかって大騒ぎしたので……」
 全員が玄関に出てきたあげく、出ようにも慣れない靴で転び……と言った感じか。
「……ボク、お父さんに睨まれていた感じなんですけど……」
「麻里香ちゃんが毎度違う男を連れてるから、警戒してるんですよ。話せば分かってくれる人なので大丈夫ですよ」
「……そうですか?」
「私、自分の親より、正臣さんのご両親の方が怖いんですけど……」

 父……現・総理大臣。年に数回、家に戻ればいいぐらいの多忙っぷり。とにかく固く、プライドが高い。ボクでさえ、顔色を伺いながら会話するような人。
 母……暴走機関車。たまに公邸に行っているが、直紀がまだ高校生ということで、特に用事がなければ在宅。
 今現在、一番恐ろしいのは、母と優奈の最強タッグ。たまに小さな巨神兵まで出てくる。
「……父はボクより頭が固いですからね。どうでしょう?」
 優奈は芹香さんの先輩なんだから、おかしなことを言いはしないだろう。……たぶん。
 ロリコンだの年下のお姉さんなどと吹き込まれた母は……どんな反応をみせるのやら。
 ――年下のお姉さん?
 出掛けに優奈が言った事を思い出してしまい、急に緊張してきた。
 ――いかん、いかん。せっかくの決心が揺らぎそうだ。


 ホテルに到着。
 芹香さんは持っていたバッグをクロークに預け、レストランでは支配人に案内された窓際の席に座る。
 今回は緊張しているものの、焦った様子はない。二度目ということもあり、前もって言っておいたおかげだろうか。
 ナイフやフォークの順番も間違いなく、前回とは見違えるほど扱いも上手くなっているように思えた。
 楽しく会話しながら、何事もなく食事を終え、来たときと同様に、窓の外を眺める芹香さんの視線を追い、ボクも外の景色を眺めた。
 クリスマスのイルミネーションがとても綺麗に見える。あの場所から見る景色も……きっと綺麗だろう。
「キレイですね……あ、そうだ。帰りにあの場所に行きませんか? きっとキレイだと思うんです」
 頬を緩ませてこちらを向く彼女にドキリとする。
 ここではっきりと言わなければ、話は進まない。
 唾を飲み込み、膝の上の手をぐっと握った。
「今日は行きません」
「え? どうしてですか?」
「大事な話があるんです。……だから、今日は帰しません」

 我ながらものすごいセリフだ。
「ここのホテルに部屋が取ってあるんです。……行きましょう」
 席を立ち、半ば強引に手を引き、店を出る。
 この勢いを失わないうちに……貴女に言わなければならない事がある。
 クロークに寄り、フロントで手続きを済ませ、エレベーターで部屋の階まで上がる。
 部屋に入っても、彼女は戸惑いを隠せない表情で、入り口付近に立ったままだった。
「とりあえず……座ってもらえませんか? そこに立ったままだと話しづらいですから……」
 彼女は視点定まらぬ様子でソファーの、ボクの隣りに腰を下ろした。
 窓の外に広がる夜景を見る事もなく、バッグを膝の上に乗せ、強く握っている。
「あの……大事な話って……」
「そう硬くならないでください。聞いて辛いものではないと思います」

 ぎこちなく頷く彼女。先程からじっと、バッグの方を見ているように思える。

 どう切り出そうか考えていたはずなのに、彼女を前にすると言葉が出てこなくなってしまった。
 ええと……何だったかな?
 時間が経つほどどんどん消えていく。
 仕舞いには頭の中が真っ白になってしまった。
 このままではダメだ。……ああ、そうだ!

「芹香さん」
「はいっ」

 ボクまで硬くなってしまい、発する声に勢いがつきすぎた。彼女はそれに驚いたような返事で……。
「あの……ボクのワイシャツにアイロンをかけてもらえますか?」
 なぜかぽかんとした表情を向ける彼女。そして首を傾げる。
「ええと……今……からですか?」
 ちっがぁぁぁうぅぅぅぅ!!!
 愛想笑いを浮かべたあと顔を背け、こめかみを押さえて考え直した。
 これは遠まわしすぎなのか! 『味噌汁』じゃありきたりだと思ったからそうしたのに……。
 うーむ……だったら……。
 改めて、真っ直ぐに芹香さんの瞳を見つめる。彼女は少し驚いた表情で、何度か瞬きをした。
「毎日、ボクの帰りを待っていてもらえますか?」
 表情はそのままだったが、瞳にうっすらと涙が浮かんでくる。
 涙を隠すように顔を押さえ、何度も何度も大きく頷く。
「私なんかでいいんですか? 本当に……」
「貴女だから……貴女でなければダメなんです、ボクは……」

 顔を上げ、濡れた瞳で見つめてくる。
 スーツのポケットから小さな箱を取り出し、彼女の目の前でそれを開いてみせた。
「芹香さんが大学を卒業して、落ち着いてからで構いません。……結婚しましょう」
「……もぉ……最初からそう言ってくださいよ……」

 涙を拭いながらそう言う彼女。
 箱から指輪を出すと、彼女の左手を取り、薬指にゆっくりと滑らせた。
「……もう、取り消し不可ですからね」
「後で取り消すような半端な決心ではありません。もしも親が反対するのならば、貴女を連れてどこへでも行きましょう。……ボクは貴女以外には考えられない」

 彼女がボクの胸に飛び込んでくる。
 彼女を優しく包み込むように抱きしめる。
「必ず、貴女を幸せにします。悲しませるような事は、二度としません」
 腕の中の彼女に誓うよう、耳元でそう囁いた……。

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