004・釜兄 戒驕戒躁 X
――梅雨入り。
雨ばかりでどうしても室内に限定されるデート。
あの日から、逢うたびに互いに存在の証を刻み別れるようになった。
毎日逢うものだから、実際は痣だらけ。
これからどんどん熱くなり薄着になるというのに、しっかりと服を着込む毎日……。
ある日曜日。まだ布団の中でまどろんでいる時に、特に用もないのに部屋へ飛び込んできた優奈。
昨日の夜、蒸すように暑かったので、寝巻きの前ボタンを中途半端に開け、あげく布団から上半身を出したまま寝ていたせいで見られてしまい、まだ目覚めきっていないうちから鳩尾にイッパツ食らってしまった。
うっかりしていたボクにも落ち度はあるかもしれないが、急に入ってくる方も悪いと思う。それなのになぜ、ボクが八つ当たりされなければならないのだ……。
「お兄様のえっちぃぃぃ!!!」
「ちょっと待てぇ!」
そんな大声で叫ぶな、部屋から飛び出すな!
ものすごい勢いで階段を駆け上る音が聞こえる。そこには上品さのかけらもない。
開いたままのドアの前にこれまた見た事もないような形相で立つ母に、身の毛がよだつ。
「正臣さん……優奈に何をしたの?」
母がボクを『さん』付けしている……これは優奈の『お兄様』に匹敵する恐ろしさだ……。
「何もしてないです! 寝てる時に急に入ってきてこっちが驚いたぐらいなのに……暴力を振るわれたあげく勝手に叫んで逃げただけですから……」
「寝ぼけて何か不届きなことをしたに違いありません! いくら彼女ができないからって、妹に手を出すだなんて……許しません!! たとえ国会がそれを許しても、この母だけは許しませんよ!!」
国会でそんな法案が通ったら、町内を全裸で走りますよ! ……いや、解散総選挙で立候補します。そうじゃなくて、絶対にありえないから……。
恐るべし、片瀬の血筋! 勘違いと思い込みの激しさは、他人から変人扱いを受けるのにふさわしい。
こんな母を選んだ父は、明らかに古い考えの持ち主で、頭が固く、冗談さえも通用しない人だ。なぜこの人を選んだのかがものすごく謎だ。
……いや、こういう突拍子もない仕様が好みなのか……だから結婚したし、似たような性格、容姿の優奈に溺愛している。フェラーリを買い与えたような父親だからな……。
こんなことを考えていたら、両親に不信任案を提出したくなってきた。ダイニングではっきりと答弁してもらおうじゃないか。
思いついたようにどこかへ走る母。戻ってくると、どこから発掘してきたのか、ボクの剣道防具を身に付け……というより引きずって、竹刀を手にベッドの上で体を起こしただけのボクの前に立ちはだかった。
そんな体勢でも容赦なく振り下ろされた竹刀を何とか白刃取り。直撃は防いだが、手がじんじんと痺れる。
廊下からボクの部屋を覗く優奈は、ハンカチで目元を押さえ……両手を合わせた。縁起でもない。
「優奈ぁ! お前のせいだぞ! 何とかしろ!!」
ボクから目を逸らし、はにかんだ笑顔を浮かべる? 何だか嫌な予感が……。
「お母様、お兄様は何もしていませんわ。わたくしが部屋に入って勝手に驚いて逃げただけですの」
「あら? そうなの?」
竹刀に込められていた力が抜けた。優奈が狂言を吐いてまた叩かれると困るので竹刀を母の手から奪い取った。
優奈は頬に両手を当て、目を閉じて恥ずかしそうに頭を左右に振り……。
「だって……お兄様も健全な男性ですもの……朝から……お元気でしたわ……」
そっちかぁぁぁ!!!!
「ま、優奈ったら……これからは正臣が起きてくるまで、勝手に部屋に入っちゃダメよ。……それと、女の子の口からそんな事を言ってはダメ。お下品よ」
「だってお母様が勘違いなさったから……」
二人は何事もなかったように高笑いしながらボクの部屋を後にした。
……何だよこの人たちは! 朝っぱらから大騒ぎして。
しかし優奈め……ボクが布団から出れない事に気付いていたのか……。
まだ開いたままのドアから眠そうな顔の直紀が首を傾げて覗いている。
「何があったの?」
「……色々と、勘違い」
先程の騒動で起こされたのだろう。まだ半分眠っているような感じで反応がやたら遅い。
「……ふーん……。鍵、付けた方がいいよ。仰向けで寝てても姉さんは容赦なく飛び乗ってくるから……そのうち折られるよ」
半分寝ているくせに、なんという恐ろしい事を言うんだ、この子は! いや、同じ男だからこその忠告か……。
「そ、そうだな。気を付けるよ……」
「……おやすみ」
その場で壁にもたれかかって……。
「寝るな直紀! 部屋に戻れ」
「……んうー」
だめだ、これは。勉強のしすぎも体に毒だぞ……。今日は幸い日曜日だからゆっくりお休み……日曜日?
「……! あああー!!」
時計に目を移し、叫ばずにはいられないこの時間。約束の時間、十分前。
準備を始める前に芹香さんに電話して遅れると伝え、立ったまま眠ってしまった直紀を部屋に運んだ。
急ぎすぎて路面で滑り、途中、パトカーに追われたが何とか捲いて、約束の時間を三十分程オーバーしたが無事、目的地に到着した。
待ち合わせの喫茶店に入った頃には、ボクは精神的に疲れたせいか、フラフラだった。
「……どうしたんですかー? 何だか疲れてますね」
「……朝から優奈に押し入られ、母に竹刀を向けられ、立ったまま寝た弟を部屋まで運び、車は勝手に滑り出し、あげくパトカーに追われました……」
「……何だか意味不明ですよ」
「……気にしないでください」
溜め息をつき、そのままテーブルに突っ伏した。
「……ご休憩ですか?」
「……はい」
「三時間、四〇〇〇円になります。平日ならフリータイム……」
「……は?」
突拍子もない事を言うので、顔だけ起こして芹香さんを見た。
「最近、友達がそう言って、うるさいんです。やたら首突っ込んできて……」
胸元に手を当て、ボクから視線を逸らした。
「……見られちゃった……」
それは、アレのことですね。恥ずかしそうな表情だし、きっとそうだろう。
ボクはそのまま顔を伏せると、テーブルに額をぶつけた。
「……すみません……ボクも今朝……というよりついさっき、優奈に……」
「それでお母様に竹刀向けられたんですか?」
「いや、それとは関係なく、です……」
「弟くんはともかく、車って滑るものですか?」
「ドーピング現象じゃなくて……なんだっけ? 濡れてる路面で滑る現象……」
疲れのせいか、脳が思ったように活動していない。思い出そうとしているのに何も出てこない。
「ハイドロプレーニング現象ですか?」
「それです」
「自動車学校で習いました、それ。じゃ、パトカーに追われたのは?」
「スピード違反でしょう。何とか逃げましたけど……」
「見かけと家柄からは想像もできないような、波瀾万丈っぷりですね」
それは波瀾万丈と言えるのか?
「家はともかく、ボクはただのサラリーマンですよ」
足音がボクの横辺りで止まった。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「コーヒー」
突っ伏したまま、ウエイトレスにそう答えた。
「……もうコーヒー冷めちゃいましたよ?」
「んー」
「……本当に休憩に行きます?」
またも爆弾発言。こんな所で平気で口にするとは最近の子は恐ろしいものだ。
伏せていた体を起こし、頬杖をついて彼女を見据えた。
「……あのですね、その休憩は意味が違うんですよ」
「は?」
「知らなかったから平気で言ったんですね……。意味を知ってて言ってたらどうしようかと思いましたけど」
彼女は首を傾げるばかりで本当に意味を知らないらしい。
「どういう意味ですか? 教えてください」
「いや、ここじゃちょっと……」
ぬるくなったコーヒーに口を付け、視線をそっぽに向けた。
ここまでそっちに無知な子が今でも居る事に正直驚いたが……まぁ、自分も似たようなものか。
喫茶店で一時間ほど休憩し、ドライブに出掛けた車の中で、その意味を教えると、彼女は顔を押さえて首を横に振り続けていた。
まぁ、意味を知って踏みとどまってくれたからよかったけど……行きましょう、だなんて言われた日には、羞恥心から呼吸困難に陥りますよ! ああ、考えただけでも心臓に悪い……。
今日も雨。デートはやはり室内に限定される。
梅雨前から雨ばかりで、色々なショッピングモールにも行ったし、映画も見に行った。そのほとんどを制覇してしまい、最近では行く場所に困るようになってきた。
河川公園も、あの場所も、雨が降っていては行く意味がない。
だからと言って、このまま帰すには惜しい。
「どこに行きますかねー」
「カラオケなんてどうです?」
「……いや、ボクはクラッシック以外にはうといんですよ」
「ダメですか……」
せっかくの提案は否決されました。
「じゃ……雑貨屋巡りといきましょう! 丁度、この通りにあるんですよ」
彼女の要望通り、その雑貨屋へ行った。
アンティークな物から謎の物体まで各種多様に取り揃えてある店内は、商品だらけで歩くのにも困る。
「次はどこにしましょうか?」
「それなら、ホームセンターでしょう。何でも置いてあって楽しいですよ」
確かに何でも置いてある。文房具から照明器具、食器類にカー用品、ガーデニング、工具、家具……云々。
広い店内を隅から隅まで歩いて、あれはどうだ、これはどうだ、と楽しげに話す彼女。
「こういうベッドが欲しい〜って思うだけで楽しいんですよ。……あ、あのソファーもいいなぁ〜」
家具売り場のあっちこっちではしゃぐ彼女。見ているこっちも楽しくなってきた。
「こういう机で勉強したら、はかどりそう」
「ボクはこういうシンプルな方が好きですね」
「あ、やっぱりそうだと思いました。正臣さんの部屋って、すっごく……」
彼女は慌てて口を塞いだ。
「ボクの部屋がどうかしましたか?」
両手で口を塞いだまま、首を横に振るだけ。
「……もしかして、優奈が勝手に……」
視線をそらした。
「何もなかったって言いたいんですか?」
目が泳ぐ。図星だ。
「部屋にはあれ以外、必要ないんですよ。どうせ仕事するか寝るためだけの部屋ですから」
「でも、何だか寂しいです」
彼女は口を覆ったままでそう言った。
「……そうですか?」
「写真立て……せめて写真立てを机に置きましょう。さっき、いいのがあったんです」
彼女に手を引っ張られ、写真立てがあったという場所へ誘導された。
お揃いと言って同じものを二つ購入したまではよかったのだが……。
「肝心の飾る写真は?」
「……言われてみれば、そんなものなかったですよね」
旅行の時でさえも写真は撮っていない。それどころかカメラなんてものを持っていない。
「じゃ、今すぐに撮りましょう」
と言って取り出したのは携帯。最近出たばかりの最新機種のようだ。モバイルカメラ、デジタルカメラ内臓の上にムービーまで録れると会社でも話題になっていた。
それに比べてボクが使用している携帯といえば……電話とメールができればあとはどうでもいい、ということで、一、二年は余裕で前のモデルだ。一応モバイルカメラ程度は付いているが使った事はない。出張の時にはアラームとして活躍する程度か……。
「それで……どうやって現像に出すんですか?」
「あら? 知らないんですか? メモリーカードに登録して、それを写真屋さんに出せばオッケーなんですよ」
「……随分、便利な世の中になったんですね……」
「……見かけによらず、ものすごく時代に乗り遅れてますね」
「どうせ車も時代遅れですよ。当時は新車だったけど、もう八年目ですとも」
「え? 八年? ……ええと……それって免許取った時から乗ってるってことですか?」
「そうですよ」
「私より付き合いが長いですね」
「……でも、貴女ほどの深い付き合いはしていませんよ」
「あっはぁ。またぁ、そんなことをサラっと言うしー」
肩を思いっきり叩かれた。……何がいけないんだよ、何が。本当の事じゃないか。
写真を撮影するにあたり、その辺の駐車場だと人の目が気になるということで、やってきたのはあの場所……。
外は雨ということもあって、車内での撮影。
ボクの肩に寄り添う格好の彼女は、片手に携帯を持ち、カメラのレンズをこちらに向けている。
「いいですかー、撮りますよー」
と言った後、携帯からシャッター音が鳴る。
撮れたものを見て、互いの表情が曇った。
「……硬いです、表情……」
「……意識しすぎでしょうか……」
「うん。もっとリラックス。自然に、自然に……」
「こうですか?」
彼女の方に顔を向け、予行練習……が、
「何か……違う! まだ硬い」
彼女は不満そうな表情だ。
「いつものさわやかな笑顔はどこにいっちゃったのかしら?」
「さわやか……ですか?」
そんなつもりは全くないのだが……。
「私を見つめる、あまぁい表情とか、すっごくそそられるんですけど……」
「え? そんな顔していますか?」
「してますとも。あんな顔されると、どうにでもしてー、って気分になりますよ」
「お願いですから、そんな気分にならないでください」
どうにでもしたくなりますから……。
彼女は携帯を閉じて片手に持ったまま、ボクにしがみついてきた。
「撮影はもうおしまいですか?」
「だって……正臣さんが不自然だから……あんな写真は飾りたくないです」
それもそうだ。先程、撮った分は、ボクが無理に付き合わされている風にも見えてしまう。
どうすれば、自然な姿を撮れるものか……。
と考えていると、上目遣いでもの欲しそうな表情の彼女と目が合った。
自分でも気付かなかった強張った表情が、ふと緩むのが分かった。
彼女の顔にそっと近づこうとした瞬間、彼女の顔の横に構えられた携帯――そしてシャッター音。
「……」
「この顔です、甘い顔」
携帯のディスプレイをボクの方に向け、見せてくる。そこに写る自分は鏡で見るのとは全く違う別人と言っても過言ではないはず。
ボクは、彼女の前でこんな顔をしてるのか!!
ある意味、衝撃的な事実。
「毎晩、携帯にチュウして寝なきゃね。……登録!」
「ああ! 芹香さん、やめてください!!」
「いいじゃないですか。別に他の誰かが見る訳じゃないですし。唯一、私だけに見せてくれる顔なんですから……友達に携帯とられないように気をつけなきゃ……」
最後の言葉が一番心配です。
「では、中断しちゃったので、続き、してください」
「え、ええ!!」
催促されるとうろたえてしまう、まだまだ未熟な自分が情けない……。
それから何度か、突発撮影され……顔を覆いたくなるような写真ばかりを撮られた。
その中から数枚、飾るのに使えそうな写真を店で現像してもらい、車に戻ると彼女は嬉しそうに写真立てに入れていた。
別れ際、彼女の自宅前。
「ちゃんと、写真、飾ってくださいね」
「はい、もちろんですよ」
とは言ったものの、我が家は――我が部屋はデンジャーゾーン。そんな危険なことができようか。
ボク一人が部屋に居る時だけ、机の上に置いてあるというのが現状だったりする。
この部屋に来る、来ない関係なく、廊下から足音が聞こえると、慌てて隠す自分がいる……。
特に優奈は要注意だ。
――夏は熱い季節です。
皆様、着ているものは必要最低限といった感じ。
しかしながら、サラリーマンなボクは夏でもスーツな訳で……上着と鞄を小脇に抱え、もう片方の手は額の汗を拭う。
ああ、学生が羨ましい。
室内での仕事なら文句は言わない。しかし、今日は外回り。上から照らす太陽が熱い、下から沸きあがる熱気が熱い。
トドメに自動車。凭れ掛かろうと思えば、色のせいもありヤケドしそうだし、やたら車内が熱い。ドアを閉めた瞬間、気が遠くなりそうな熱気に包まれ、汗が噴き出す。
エアコンよりもまずは窓を開け、車内の熱気を逃がす事から始まる。
腕の時計に目をやると、もう午後一時を回っている。
とりあえず、昼食にしますか……。
暑さのせいでボーっとしていたせいか、アルミ製のシフトノブにいつも通り手を置いてしまい……。
熱い熱い、と言いながら、手を振った。ヤケドするよ、ボク……。
このシフトノブといい、ステアリングといい、夏場は凶器に変貌する。
走り出そうかと思い、前を向いて驚いた。
片手を上げて車の前に立っている人が居る。
うっかり跳ね飛ばす所だったよ……芹香さん。頼むから車の前に立つのだけはやめてくれ。
ボクと目が合うと、彼女は手を下ろした時にうっかりボンネットを触ってしまい……息を吹きかけながら運転席側に回ってきた。
「何してるんでーすかー?」
「ボクは仕事ですよ。芹香さんこそ、こんな所で何をしているんですか?」
「講義が終わって帰るところです。車を発見したので、正臣さんかなーと思って……。でも、ボーっとしてて全然気付いてくれなかったし」
「うっかり跳ね飛ばすところでしたよ。それより、手は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ついでにその言葉、そっくりお返しします」
「見ていましたか……」
「見てましたよ」
しかし、今日は一段と、目のやり場に困る服装ですね……。出るところ出ちゃって……いやいや。彼女は女子大生だからなぁ、一応。
「今から昼食を取ろうと思っているのですが、暇だったら一緒にどうですか?」
「え、本当ですかー。行きます!」
助手席に放っていた上着と鞄を後ろの席に置くと、彼女は小走りで助手席に回り乗り込んだ。
仕事中に何をやってるんだ、ボクは……。まぁ、休憩時間ということで、細かいことは気にしないでおこう。
お昼に女子大生と一緒に居るサラリーマン。いい響きではない。
いや、女子大生に見えるのならまだ問題はない。それよりもうちょっと下に見えるのが問題のような……。決して援助交際とやらではないぞ。
彼女の家から遠くならないように、近くのファミレスに入った。
昼食を済ませると、持ち込んだ鞄から資料を取り出し、目を通す。
「……そういう顔もいいですね」
まだ食べている最中の彼女がそう言うので視線だけ芹香さんの方に向けると……また携帯を構えていた。しかも向いた頃にはシャッター音が鳴った後だった。
「……またまたー」
「お仕事の邪魔ですね。続けてください」
「はいはい」
最近は彼女にペースを乱されっぱなしだ。
幸い、今は仕事中ということもあり緊張感が健在。何度か鳴った携帯カメラのシャッター音も気にせず、仕事の方に集中していた。
すると、ボクの携帯がポケットの中で震え出したので、取り出し応答する。資料から目を離さないままで。
「はい、鎌井です……先程、終わりました。……だったら、すぐに戻ります。失礼します……」
携帯を閉じてポケットに戻し、キリのいいところまで資料を読んだ後、それを鞄に戻した。
「戻るんですか?」
「ええ、すみません。どのみち、自宅まで送る余裕はなかったので……」
「いいですよ。いつもなら平日のお昼に会うことなんか、ないんですから。会えただけで嬉しかったです」
「じゃ、仕事が終わったら電話します。とりあえず、ゆっくりしていってください」
と、伝票の下に少し多めにお金を置くと、足早に店内を後にした。
「昼間のパパは〜ちょっと違う〜♪」
仕事帰りの車の中。助手席の芹香さんが楽しそうにそんな歌を口ずさんでいた。
……あれ? 今、何か聞き捨てならないフレーズが……。
「誰ですか。パパって……」
「正臣さんです」
「何でパパなんですか?」
そう聞くと、ゆっくり下腹部に手を当て、やさしく撫でる……。
心臓は口から飛び出しそうな程大きく跳ね、言葉にできないような衝撃が体を貫いた。それでも冷静を装おうとしたが、口元が引きつっていた。
「あ、ははは。……ご冗談を……」
「もちろん、冗談です」
彼女は満面の笑顔だった。
「昼間、何だか別人みたいだったから、この歌の通りだなーと思って」
「まだ、パパじゃないんですね?」
「当たり前でしょ」
何年か前に流行した『キスしたら子供ができる』というのが実は本当だったのではないかと、一瞬、信じてしまったではないか。
いや、あの件の事もあるし……。一回だけで当たったら、宝くじも一等が当たるかな……。
エアコンが効いて涼しい車内で、冷や汗をたっぷりかいてしまった……。
「正臣さん、信号、青ですよ」
「……はぁ……」
ボクは溜め息にも聞こえるような返事をした。
優奈に負けず劣らず、爆弾発言の多い方だ……。このまま、更にエスカレートするような事になったら……ボクの心臓は耐えられるだろうか。
――夏休みに入った彼女は平日の昼間、バイトをしているらしい。
ボクの夏休みは、お盆前後の一週間程度。
「今度の土曜日、駅通りでお祭りがありますよね。今年は一緒に行ってくれますか?」
去年は関係が曖昧だった事、時間的な事もあり、彼女とは夏祭りには行っていない。
彼女のお願いを断る理由もないし、今年は一緒に夏祭りに出掛けることにした。
夕方、家まで彼女を迎えに行くと、芹香さんは初めて買ったという浴衣を着て、いつもは下ろしている髪を結い束ねていた。
車は駅近くの駐車場に停め、ここから先は徒歩。
慣れない格好のせいで疲れたのか、芹香さんは駅前のベンチで休憩しようと言い出した。
……しかし、こう駅の前で立っていると、出張から帰った日の事を思い出してしまい、恥ずかしくなってくる。
彼女の方に向けていた体を反転させ、屋台の並ぶ駅通りの方を見た。やたらカップルばかりが目に入る。ボク等もその中の一組か……。
「はーい、オッケーでーす。張り切って行きましょー」
いつの間にか隣りに立っていた彼女に腕を取られ、引っ張られるように人ごみに吸い込まれていった。
「ううー、かき氷はどこですかー?」
周りが人だらけで、ボクより頭一つ分小さい彼女には見えないらしい。
「あっちですよ」
「分からないですよ。連れて行ってください」
ボクは展望台ですか?
アレがいるコレがいると、買っては食べ、買っては食べ……。その体のどこに収まっているのか不思議でならなかった。
彼女が座って食べている最中は、芹香さんを守るように前に立っていた。身長のせいでそれが却って目立ったらしい。
ぽんぽんと背中を叩かれたので振り返ると……。
「お兄さん、お一人ですかー?」
……。
正面を向くと彼女――芹香さんは黙々と食べ……ていない。顔が険しい。
「げ、お姉ちゃん?!」
「何してんの、麻里香(まりか)ちゃん……」
先程、声を掛けられてすぐに芹香さんの方を向いてしまったのは、あまりにも彼女に似ていたからだ。姉妹だということなら納得できるが、どちらかと言えば、妹さんの方が芹香さんより容姿は大人に見える。
「この人、もしかしてお姉ちゃんの彼氏?」
「麻里香ちゃんには関係ないでしょ! それより、また逆ナンしてるんじゃないでしょうね?」
「出会いを求めに来て何が悪いのよ!」
いやはや、これは止めた方がいいのか……?
「男をとっかえひっかえするのはやめてくれって言ってるのよ! 私が勘違いされて何度拉致されそうになったと思ってるの!」
「えー? ワタシとお姉ちゃんを間違える人が居るの〜? ソイツの目、腐ってるわ」
ああ、見事な姉妹喧嘩ですね……。なんて悠長な事を言っている場合ではない。
「あの、芹香さん……」
「正臣さんは黙っててください! このバカ女にはちゃんと言っておかなくては……」
「誰がバカ女よ! この、万年男日照りのロリータ女!!」
「男を食い散らかすどっかのバカ女よりましよ!」
女同士の喧嘩ほど、恐ろしいものはありません。
何度か止めようと思ったが全て無駄に終わり、それからネタが切れるまで二人はののしり合っていた。
喧嘩が終わったのを見計らって、彼女を人気のない場所へ連れて行き落ち着かせると、色々と話してくれた。
「正臣さんに声なんか掛けてきたのが頭にきちゃって……ついついムキになってしまいました」
「仲がよろしくないようですね」
「……そうですね。あの子、好きじゃありません。何だか、許せないんです」
「男性との付き合い方が、ですか?」
「特にソレです」
ふと、先程の喧嘩の中で気になった事を彼女に聞いてみた。
「間違えられて拉致されそうになったって……」
「あ、それですか? ぱっと見、似てるらしいですね。私はそうは思わないんだけど……。まぁ、されそうになっただけで、何もありませんよ。車の運転免許に何度助けられたことか……」
彼女は手に何かを持ち、見せるような素振りをした。
「私、姉の方です〜! って。身分証明?」
「……心配になりますから、決して一人では帰らないようにしてくださいね。……それでなくても、貴女はかわいい人なんですから……」
「う〜ん、美人と言われるにはまだ足りませんか……。しかし、いつかは『ロリータ女』の汚名を返上しなくては! ……せめてもう五センチ程、身長が欲しかったかなぁ」
ぶつぶつと不満を漏らす彼女に、ボクは正直な気持ちを伝えた。
「ボクは、今のままでいいと思いますよ?」
「そうですか?」
「十分過ぎるほど、綺麗ですから」
「うふふ……またサラっとそんな事を……」
またですか?!
「でも……正臣さんにそう言ってもらえるだけで幸せです」
ドーン、と大きな音がしたので空を見上げると、夜空にパッと花が咲いた。
「あ、もう花火の時間なんだ……」
次々と打ち上がる花火。彼女はそっと身を寄せてくると、ボクの顔を下から覗き込む。
花火に照らされた彼女の表情は、今、幸せであることを物語っているように見えた。
暗がりで他人から見えないのをいいことに、手を――指を絡めて繋ぎ、何度か唇を重ねた。
――夜空に浮かぶ花火を、寄り添って見上げた。