004・釜兄 戒驕戒躁 W
「女性が男性にネクタイを贈る意味、それは……」
――それは?
「『貴方にくびったけ』とか『貴方を縛りたい』、そんな意味なんですよ……」
――ボクは貴女に会った瞬間から、きっと貴女の魅力に縛られていたんでしょうね……。
「……随分、遠回りしていたんですね、私たち……」
――そうですね。
ベッドの中で彼女がそう教えてくれた。
ボクの想い、彼女の想いを互いに全身で受け止めた。
唇を重ね……体を重ね……想いの全てを……。
『ゴールデンウイーク、旅行に行きませんか?』
そこに、深い意味など含まれていなかった。ただ一緒に行きたかったから、観光旅行を企画しただけ。
互いの想いを知るだけならよかった。
結婚前の女性と体を重ねてしまい、それが彼女の縛めになるのではないか、それが心配だった。
あれから、彼女の目が見れなくなった。その場の雰囲気に流され、そんなことをしてしまった自分を恥じた。
何もかもが中途半端なまま、会社から急に命じられた出張。
ゴールデンウイークが終わった直後から、彼女に会えない日々を余儀なくされた。
――五月八日 日曜日。鎌井家。
ゴールデンウイークの旅行から帰って、一切連絡のつかなくなった正臣を心配して鎌井家を訪れた芹香。
在宅し、彼女に対応したのは、彼女の先輩である優奈。
「正臣さんはいらっしゃいますか?」
不安を隠せていないその表情から、優奈は察した。
「……兄さんから何も聞いていないのですか?」
表情を苦痛に歪め、芹香はこくりと頷いた。
「わたくしも聞きたいことがありますの。中に入ってゆっくりお話しましょう」
優奈はお茶の準備をする為、芹香を自分の部屋で待つよう促した。
一人二階へと上がる芹香は、階段を昇りきったところで足を止めた。優奈の部屋を知らないという訳ではない。ここから見える扉のどれかが、正臣の部屋であるはず。そう考えただけで、その部屋に飛び込みたい、もしかしたら部屋に居るのかもしれない、もし居たとしても目を見て普通に会話ができるのだろうか、と複雑に思いが絡み、動けなくなってしまったのだ。
どのぐらいその場に立ち尽くしていたのか、背後からお茶の入ったトレーを持った優奈が声を掛けてきた。
「兄さんは今、ココには居ませんわ。……よろしかったら兄さんの部屋でお話します?」
二人は互いの家を行き来するような関係ではなかった。彼の想いを知ったのはつい先日の事。いつかはそんな日が来ると望んではいるが、こんなかたちで彼の部屋に入る事になるとは思いもしなかった。
優奈は一番手前のドアを開け、動く気配のない芹香に、どうぞ、と声を掛けた。
正臣の部屋は、ベッドと机、本棚程度しか置いてない。洋服などは備え付けのクローゼット内に全て納まっていて、本当に使用しているのか疑いたくなる程のものだった。
「……あら、パソコンまで持って行ってしまって、本当にしばらく帰ってこれないのかもしれませんわね」
「……正臣さんはどこに行かれたんですか?」
優奈はすぐには答えず、机に置いたトレーのお茶を一つ芹香に渡すと、自分もソーサーごとお茶を手に取りベッドに腰を下ろしゆっくりと口を開いた。
「兄さんは、二日前から出張で九州にいますの。急に決まったことらしいので、それで連絡が遅れてるのではないのですか?」
後で言った言葉は気休めでしかなかった。あの兄が大事に思っている人への連絡を怠るというのは考えられない。旅行から戻って、正臣の様子が変だった事にも優奈は気付いていた。それを正臣本人が言うはずもない。彼は何もかも自分で抱え込み、自らの手で解決させる。他人を頼る事を知らず、それを望まない。
「……でも……変です」
「そう、変ですわね。芹香さん、貴女も変です。一目見て分かりましたわ。兄さんを心配している気持ちの中に、何か後ろめたいものを感じますもの。悪い言い方をすると、会いたくない、という気持ち。旅行の時、何かあったのではありませんか?」
優奈は芹香の心中をズバリ言い当てた。そのことに動揺を隠せない芹香。この人に嘘を言ってもすぐに見抜かれてしまう、と思った芹香は、旅行での出来事を、嘘、偽りなく優奈に話した。
話を聞き終えた優奈は、一度カップに口を付けてから溜め息を漏らした。
「……そうですか。兄さんらしくない、というか、その後は兄さんらしい態度ですわね。
生真面目な人ですから、貞操観念も人一倍強くて……今時、そんな人が居る方が珍しいですわね。よそよそしい態度は、きっと結婚前に芹香さんを抱いてしまったことを後悔し、恥じているからでしょう。
それでなくても、貴女に会う前まで全く女性に興味がない人でして……正直言いますと、芹香さんの気持ちをわたくしが利用したのです。買い物に兄を付き合せたのも、あなた方を置いて帰ったのも、わたくしの策略でしかありませんでした。その後をどうするかは、芹香さん次第だったということです。
正直、こんなにうまくいくとは思いもしませんでしたわ。兄さんにも恋愛感情がちゃんとあるのだと知って、安心もしましたけど」
そう言って優奈はくすっと笑った。
芹香は、予想もしていなかった爆弾発言に呆然としていた。
「心配なさらなくても大丈夫ですわ。今は兄さんと貴女が舞い上がった気持ちから頭を冷やす期間だと思ってください。会いたくても会えないのはとても辛いことです。それは貴女だけではなく、兄も同じ気持ちだという事を忘れないでください。きっと兄さんは、出張から戻られたらすぐに貴女に会いに行きますわ。だから、待っていてあげてください」
言われて初めて気が付いた。今までは会いたいときに会っていた。今は……会いたいけれど会えない。会っても話ができるか不安だった。もしかしたら、話ができなくて、次第に会わなくなって、そのまま終わってしまう可能性だってある。そんなことになるぐらいなら、離れている期間も必要なんだと……。
それでも、会いたい気持ちは変わらない。
瞳から零れた涙が芹香の頬を伝った――。
口にはしなかったが、二人して根が真っ直ぐすぎて真面目なのも問題だと、優奈は思っていた。
――同日午後8時。九州のとあるビジネスホテル。
仕事を終え、ホテルの部屋でシャワーを浴びた後、鏡の前から動けず、ただじっと鏡に映る自分の姿を見ていた。
体に刻まれた無数の痣。あの夜、共に過ごした証、取り返しのつかない過ち。越えはならない領域に踏み込んでしまった。
彼女にしてしまったこと、黙ってここに来てしまったこと、彼女の事を考えるだけで胸がズキリと痛む。
会いたいのに会えない。会っても彼女の目を真っ直ぐに見つめる事ができるのか、自信はなかった。
鏡に映るボクは、この世の終わりみたいな悲しい顔をしている……。
「……くん、鎌井くん?」
頬杖をついたまま、パソコンのディスプレイ――正確には向いているだけで画面には焦点が合っていない。見えるはずのない遠くを見ている。
声を掛けられてもすぐに対応できていない。
返事もしないうちに、ココの部長がパソコンを覗き込んできた。
「折角来てくれてとるのに、仕事の進み具合がイマイチやな。具合でも悪いんか?」
「いえ……別に……」
「枕が変わると寝られんか? ホテルが落ちつかんか、水が合わんか?」
「そういうのは特に気になりませんが……」
「じゃ……置いてきた女が気になるか?」
ドキっとした。確かにそれではあるが、今は仕事で来ているのだから、そんな私情で仕事が出来ていないだなんて言えるはずもない。
が――。
「はっはっはっは。顔に出とると。ウジウジ考えんで、さっさと仕事終わらせて帰ったらんかい」
ボクの肩を強く数回叩くと、部長は笑いながら自分の席に戻り、女性社員にお茶を注文している。
そんなに顔に出ているのだろうか。ボクがいつまでもぬるい仕事をすれば、ここの人にも迷惑が掛かるし、いつまで経っても帰れない。
「松野くん、今日は鎌井くんを気分転換にいい所に連れて行ってあげなさい」
「それって、上司命令っすか?」
「そだ」
「経費で出してもいいんすか?」
「……経費で泡風呂行かれちゃ困る。常識考えてものを言わんか」
「誰が風俗って言ったと? エロ上司は部下に嫌われるっすよ。それにそんなとこ行ったら逆に疲れるわ。疲れ取るならジャグジーの方がええでしょ」
松野というのは、ボクと同じぐらいの歳だろうか。それにしても、上司と部下の会話とは思えない程フレンドリーだ。他の皆もそう。ここの職場は年齢、階級関係なく、まるで友達と話しているかのように仕事の話をしている。
まだそれに馴染めていないが、ここの部長の人柄がそうさせたのだろう。
仕事が終わると、松野くんに無理矢理、銭湯に連れて行かれて体は見られるし、酒でも一緒に飲もう、と言ったから、店にでも連れて行ってくれるものだと思いきや、ディスカウント店で缶ビールを購入。彼の部屋で話をしながら飲むことになった。
そこでは、彼女のことを散々聞かれた。
彼も元々は出張で九州に来ていたらしいが、そのまま転勤になり、彼女に振られたとか。
その経験があったからか、何度も何度もしつこく、電話をするように言われた。
だけど、出張に出てから既に四日も経過している。
今更、電話を掛けて言い訳をして、彼女が傷つかないはずがない。
きっと待ってるとは思ってる。
だけど、どうしたらいいのか分からない。
――怖い。彼女が電話に出てくれるのか、自信もない。
何より、自分が傷つきたくない。
本当は、今すぐにでも会いに行きたい。抱きしめたい。
なのに、会えない……。
ただ、一日でも早く帰れるように、仕事に打ち込むことにした。それでも彼女の事が心の奥に引っかかったまま、彼女を想うたびに胸を痛めた。
謝って済むような限度はとうに超えている。それも分かっていた。
所詮、そんな仕事人間なんだと、彼女は呆れて去ってしまうだろうか……。
怖くて電源を入れられない携帯電話をポケットの中で持て余していた。
日に日に薄れる痣が、夢と現実の境界さえも曖昧にしていく。
彼女は本当に居たのだろうか……と。
今回トラブルがあったという相手企業との話し合いも幾数回。
予想もしていなかった、次々と浮上する問題点。
これから先、円滑に事を進める為の対処法をいくつか提案することで、何とかいい方向に持ち直してきた。
そして、ようやく今回の問題が全て解決した頃には、出張から二十日が経過していた。
「さすがはこの企画を立ち上げただけの事はある。対処もバッチリやったな」
最後の会議を終えたボクは、同行した部長と喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
「実は最初、ヌルい仕事しよったから、もう諦めとったと」
「どうもすみません……」
「まぁよかよか。それより……」
それより?!! まだ何かを頼まれるのだろうか。
「ウチの支社にこんか?」
――前略 父さん、母さん、優奈、直紀。
兄さんは、単身で九州への転勤が決まってしまいました。
どうも、帰らせてもらえないようなので、荷物を送ってください。
あ、その前に部屋探しか……。
……さよなら、芹香さん。馬車馬のように働かされ、ボクはもう貴女を迎えに行けそうにない……。所詮ボクの恋人は優奈の言うとおり、仕事だったようです。
過労死した際は、骨の一本ぐらいは拾ってください。
草々。
追伸 本社の部長、何でボクを呼び戻してくれないのですか? そんなにずさんな仕事をしていましたか? ボクは係長程の器がなかったのですか? だったらなぜ、昇進させたのか、教えてください。
それともこれは、遠まわしのリストラですか?
――って、冗談を言っている場合ではない。
玄界灘の荒波に飲み込まれたような衝撃ですよ。
「はっはっはっは、なんちゅー顔たい。ウソっちゃ。はよ仕事終わらせて帰らせぇって向こうから言われとー。携帯の電源、入れとらんと? おかげで何度も何度もしつこーに言われたわ」
嘘だと分かって、安堵の溜め息が漏れた。松野くんみたいに出張が転勤に変わるのかと思ったよ。
「っちゅーことで、今日はお別れ会、企画しとると。まぁ、明日の午前中まできっちり仕事してもらうつもりやけどな」
からからと笑う部長。伝票を持って先に席を立ったのでボクもそれを追おうと急いで荷物を持つと、部長に手で制された。
「ワシは先に帰るが、もうちぃとゆっくりしていきぃや」
そう言い残し、部長は会計を済ませ、先に会社へ戻って行った。
ようやく、張り詰めた気持ちが緩んだ。無意識に内ポケットから携帯を取り出し、開くが相変わらず電源は入っていない。電源ボタンに手を掛けたが結局を入れることはできず、閉じて再びポケットに納めた。
代わりに取り出したタバコに火をつけ、灰皿を引き寄せると、溜め息混じりの白煙を吐いた。
今頃になって電話だなんて、一体、何を言い訳しようとしているのだろう。もう遅いんだ。
帰っても会ってくれる保証はない。
ただ、彼女を想いすぎて、行き過ぎた事を……。
女性とあれだけ親密に付き合ったのも、彼女が初めてだった。
だから尚更、どうすればいいのか分からない。
想いばかりが募る一方で、何をどうすればいいのか分からない……。
考えても、考えても、答えは出ることはなかった。
どんな顔をして彼女に会えばいい? どんな話をすればいい? どうせ口から出るのは言い訳ばかりだろう。
ボクは明日、帰ることになる。彼女が居る、あの場所へ――。
部署の全員が定時で退社。部長を先頭に皆で向かったのは居酒屋だった。
「取引先とのトラブルも無事、解決しましたー。これも応援で来てくれた鎌井くんのおかげ! 明日にはもう帰ってしまうので、今日は感謝の意味も込め、盛大にお別れ会を――」
「松野! 前振りが長か。どうでもええからさっさと乾杯せぇ」
「それでは、挨拶を押し付けたくせに、文句を言う部長の注文通り……乾杯!」
「「乾杯!」」
ボクは部長と松野くんの間に挟まれ、意見がちぐはぐな二人が振ってくる話に同意を求められ、曖昧な返事と愛想笑いをするばかりだ。
楽しかったけど、やはり心のどこかにいつも彼女の事が引っかかっていた。
明日も仕事ということで、一次会だけで解散。ボクはホテルに戻った。
いつもより長く出張先に滞在していたが、明日にはここを発つ事になるので、荷物をまとめた後、シャワーを浴びた。
最初のうち、気掛かりになっていた体の痣はとうに消えている。
あれは夢だったのかもしれない。
彼女の存在さえも曖昧。
自信がない。
彼女は本当に居たのか、彼女がボクを愛していると言ってくれた事……彼女と会えなくなり、会話をできない状況になったことで、それが現実だったのか自信がなくなってしまった。
痣が消えた事で、それは余計にひどくなった。
この頃には、彼女を抱いた事より、その方がボクには辛いものだった。
「どうも、お世話になりました」
午前中、ここでの最後の仕事――本社への報告を済ませたボクは、荷物を両手いっぱいに持って駅のホームに居る。
部長と松野くんが代表で見送りに来てくれたのだが、売店であれこれおみやげを持たされてしまい、大変な事になっている。
まぁ、言うまでもなく売店でも、九州のおみやげといえばアレだコレだと口論していたが、結局、思い当たるものを全て持たせることで二人は大満足。今は達成感で満面の笑顔。しかし、これだけ持たされるボクの身にもなって欲しい。
「帰ったら彼女によろしゅー」
「はぁ……」
松野くん、いきなり痛い所を突いてくるな……。
「休みん時にでも遊びに来いよ。色々案内したるから」
「はい、是非……」
「ついでに、結婚式ん時は呼んでな。会社休めるように平日だとありがたいけど……」
「松野! またいらんこと言いよる」
アナウンスが新幹線の発車を知らせている。デッキに乗り込むと一度荷物を下に置き、重さで痺れた手を何度か伸ばした。
「おみやげまでありがとうございました。それでは、失礼します」
「おお、元気でな」
扉が閉じても、まだ松野くんの口が動いていた。何を言っているのかは分からないまま、新幹線は動き出した……。
東京駅で乗り継ぎ――ようやく到着した駅は、いつも芹香さんと待ち合わせに使っていた駅。
帰ってきたという喜びはなく、夢か現実か分からなくなった今はただ辛く、思い出すだけで胸が痛む。一刻も早くこの場から立ち去りたいという思いでいっぱいだった。
両手の荷物の重さも気にせず、足早に駅を出てタクシー乗り場へと向かおうと思ったが、ふと足を止めた。
……ここは、いつも彼女が待っている場所だ……。
走馬灯のように次々と流れては消えるそのシーン。
体の向きを変え、駅を見上げて気付いた。
――いつもこの駅を背にして、ボクを待っている彼女が居た。
それは夢ではなかったはず。ボクは何度もここに彼女を迎えに来ていた。
それでも、確信はできなかった。
ふと向けた視線の先に彼女が居なければ……それを夢だと決め付けてしまったかもしれない。
外に跳ねた髪。一歩間違えば中学生にでも間違えそうなその後姿。だけど歩き方だけは落ち着いた大人の雰囲気。
何も変わってはいない。
彼女はそこに居る。
今、手を伸ばせば届く、すぐ側に……。
ボクは無意識にその人を追った。両手に荷物を持ったまま、必死だった。見失わないように、真っ直ぐに彼女を捕らえていた。
「芹香さん、芹香さん……」
何度言ったか分からない程、必死に彼女の名を呼んだ。
ボクの行動を不信に思って振り返る人の目など気にならなかった。
人の波に逆らいながら、人ごみに消えそうな彼女をただひたすら追いかけた……。
赤に変わりそうな横断歩道の前で、彼女は止まり、ゆっくりと振り返った。
不思議なものでも見るような表情で何度か瞬きをした。
ボクはここでようやく、自分の息が上がっている事に気付いた。
彼女は……間違いなく芹香さんだ。
時が止まってしまったかのように互いに動かない。ボクは動けなかった。
これ以上、距離を詰めるのが少し怖かった。
でも、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめている。
「……正臣……さん?」
ボクは何も言わず、ただ彼女だけを見つめていた。
「私の名前を呼ぶ声が聞こえるんです。いつも、ここに来ると聞こえていたんです。でも、振り返っても誰も居ないから、振り返るのが怖かった……」
「ボクは……ここに居ます。芹香さん」
両手の荷物を放り出し、ボクの胸に飛び込んでくる彼女を両手で抱きしめた。
――これは夢じゃない。彼女はちゃんとここに居る。音信不通のボクを待っていてくれた……?
行き交う人の流れの中で、ボク達は抱きしめ合い、互いの存在を確かめた。
「話したい事がたくさんあるんです」
「ボクも、貴女に言いたい事がたくさんあります……」
放り出した荷物が散乱していることに気付き、更に人にじろじろと見られていることに気付き、慌てて離れ、荷物を拾った。
ボクは荷物を持ち彼女を連れて一旦家に戻った。
彼女をガレージの前で待つよう促すと、ボクは荷物を玄関に放り込み、すぐに出ようと思ったが、帰宅に気付いた優奈が、声を掛けようとしていた。
「優奈、これ、ボクの部屋に運んでおいて」
とだけ言い残し、ガレージへと走った。
お久しぶり、GT-Rちゃん……なんてノンキな事は言ってられない。
【G】グレィトに【T】飛ばして――【R】ルンルン気分??
オヤジギャグとやらが出るようになったら、ボクも歳だな……。
ガレージのシャッターを開け、車に乗り込む。彼女も助手席に。
向かう場所はただ一つ――夜景の綺麗なあの場所だ。
車を走らせている途中、いつもシフトノブの上に置いたままの左手に、彼女がそっと手を重ねてきた。今まで、こんな事は一度もなかったから少し驚いたけど、走行中ということもあって、彼女の方を向く事はしなかった。信号で止まった時、助手席の彼女の方を見ると、はにかんだ笑顔を浮かべていた。そんな彼女にボクも表情が緩む。
――想いは変わっていない。むしろ一層強くなったように思える。ボクだけじゃなく、彼女も……。
彼女の手から伝わる体温が、とても心地良かった。
出張期間のあの気持ちが、胸に痞えていたしこりのようなものが嘘のように解けてなくなっている。
あの期間はきっと、ボク達の想いを試されていたんだ。
あの場所に到着した頃には、雲行きが怪しくなりはじめていた。
それでも、景色の一望できる所へ行った。
どちらからともなく繋いだ手。ボクに寄り添う彼女。
言いたい事はたくさんあったはずなのに、静かに景色を眺めるだけ。
まだ薄暗い街に、ぽつぽつと浮かぶ光。少しずつ暗くなるにつれ、それが多くなり、目立ってくる。
どのぐらい景色を眺めていただろうか。到着した時よりも辺りは暗くなり、足元さえもはっきり見えなくなってきた。
ようやく、沈黙を破るようにボクは口を開いた。
「……ゴールデンウイーク明けからずっと、出張で九州に行っていました」
「……知ってます」
え?
「連絡が取れなくなったのが気になって、お宅に行ったんです。その時、優奈さんに聞きました」
「そうですか……」
そんな事、一言も聞いてない。というよりも、初日に家の方に電話しただけで、その後は一切、連絡を入れていなかったから、知るすべもないか。
「一言ぐらい言って欲しかったけど……これで良かったと思ってます」
「……すみません、何度も電話しようと思っていたのですが、どうしてもできなくて……」
「私も、何度も電話しようと思ってたけど、できなかった。家に行った時……もし正臣さんが居たとしても、どんな顔して、どんな話をすればいいのか分からなかったんです」
「ボクも……あの日、芹香さんの目を見る事ができなくなって、普通に会話ができなくなってしまったからどうすればいいのか分からないのに、それでも会いたくて、不安で……何もかもが矛盾していますね」
鼻で笑っていると、手を繋いだまま、彼女がボクの前に立ち、見上げてくる。
「でも、今は普通に話をしているし、正臣さんの目を見る事ができます」
ボクも真っ直ぐに彼女を捕らえている。空いている手でそっと彼女の頬を撫で、髪を掬った。
「ボクも、貴女を……」
言葉よりも態度でそれを感じて欲しかった。ボクはゆっくりと、やさしく彼女を抱き寄せた。それでもまだ足りない部分を言葉で紡ぐ。
「貴女をどんなに愛しているのか、はっきり分かりました。この想いはどんなに貴女を強く抱きしめても、どんなに言葉にしても足りないぐらいで……」
彼女も空いている手をそっとボクの背中に回した。
「私も……言葉や態度で言い表せないぐらい、正臣さんが好き……大好き」
背中に回されている手に力がこもった。ボクもそれに答えるよう強く抱きしめた。
ポツ……と手に冷たいものが当たった気がして空を見上げると、顔にもポツポツと水が降ってくる。
「雨が降りそうですよ。車に戻りましょう」
彼女の手を引き、足早に車へ戻ったが、少し濡れてしまった。
先程、置いてきた鞄があればタオルぐらい出てきたのだが、さすがにそんなものは車に積んでいない。
助手席のドアを開け座席シートを前に倒すと、後ろに乗るように言った。乗り込んだのを確認すると、ドアを閉め自動販売機に暖かいものを買いに走った。
ボクが車に戻る頃には雨も本格的に降り出してしまい、随分濡れてしまった。
上着を脱いでボクも後部座席――彼女の隣に座ると、飲み物を差し出す前に彼女がボクの顔に触れた。正確には手ではなくハンカチか何かで。
「使ってください」
「ああ、ありがとう」
彼女からハンカチを受け取ると、代わりに缶コーヒーを渡した。
雨で濡れた顔を適当に拭き、洗ってから返すと言ったのだが、彼女はボクの手からハンカチを抜き取り、鞄に戻した。
「ボク、自分の車の後部座席に座ったのは初めてですよ」
「え? そうなんですか?」
「他人に運転させると変な癖がつくから嫌ってのもありますけど、そんなに人を乗せることもないですし……使ってもせいぜい、荷物を置くぐらいですかね」
「車って、他人が運転すると癖が付くんですか?」
「まぁ、本当かどうかは知りませんが、こう……クラッチの具合とかちょっと変わったような気がするんです。……とにかく、いつもと違って運転しづらいんですよ」
「へー……」
嘘ではないが、何でこんな話になったんだろう? と考えながら、ネクタイを緩め、窮屈なワイシャツのボタンを上から三つほど外した。
「あ、そうだ。ネクタイ……持って行ってくださったんですね」
まさに今、緩めたネクタイこそ、彼女にプレゼントされたもの。この暗い中で見えるはずもないのに……明るい時に気付いていたのだろうか?
「ええ、せっかく芹香さんから頂いたものですから……」
せめて、旅のお供に……というよりも、彼女に貰ってからはほとんどこればかり使用している。
そういう芹香さんも、ボクがプレゼントしたネックレスをいつも身につけてくれている。
「ネックレスも、ネクタイと同じ意味でしょうか?」
「……あなたにくびったけ、ですか?」
「それです。縛るには無理がありますが、同じ首につけるものですから、なんとなく……」
「そういう意味だと嬉しいです」
彼女は肩を竦めて嬉しそうにそう言った。
「そういう意味ですよ。ボクは芹香さんに夢中ですから……」
すぐ隣りに座る彼女を両手で抱きしめた。先程、抱きしめた時より顔が近くにある。息遣いまではっきりと聞こえ、首筋に感じる。
彼女の頬に自分の頬を当て、愛しい彼女の髪を撫でた。
顔を起こし見上げてくる。あの日と同じ……。いや、二度と同じ過ちは繰り返さない。あの日の事をもう後悔したりはしない。想いの伝え方を少し間違えてしまっただけ。
貴女が大切だから、守りたい。ずっと側に居て欲しいだけだから――。
そんな想いを込めて、彼女の唇にそっとボクの唇を重ねた。
何度も、何度も……。
呼吸も、時間も忘れるほどに……。
――キミに逢えて、好きになって、愛し合えてよかった。
今、心からそう思った……。
もう絶対に離すまいと、更にきつく抱きしめた。
腕の中の彼女が身じろぎするので腕の力を緩めると、ボタンを外してはだけた胸に顔を――唇を押し当てるように埋めてきた――次の瞬間、体に痺れるような感覚が走り、首から脳天にかけて一気に温度が上昇。心臓も跳ねるように強く打ち始めた。
「な、にしてるんですか、ちょっと……」
小さくちゅっと音を立てて離れた彼女はいたずらっぽく笑っている。
「あーあ……何て事を……」
コレがすぐに消えない事は芹香さんも知っているはずだ。
「大丈夫です。服で隠せる場所にしましたから」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
何をしたのか分かってるんですか、貴女は! 半混乱のボクはわたわたと情けなく慌てるばかり。
「私にも付けてください」
何言ってるんですかー! と言いたいのに、口がパクパクと動くだけで声にならない。
「別に変な意味で言ってる訳じゃないんですよ。ただ……私が正臣さんの側に居る事、正臣さんが私の側に居る事……私たちは一日に逢える時間が限定されてて、一人で居る時間の方が長いんですよ。だから……私は不安なんです。出張のこともあったから、本当に私の側に居てくれてるのか……今日、帰ったら泣いちゃうかもしれないから……。これは夢じゃないって証拠。それが欲しいだけなんです」
不安要素があるのなら、それを取り除けばいい。これで彼女が涙を流さずに済むのなら、ボクはそうしよう。
肩を抱いて一度首筋に口付けると、そこダメー、ってボクの胸を叩いてくる。別にそこに付けるつもりはく、ただ、少しいじめてみたくなっただけ。
少し下のほうに顔をずらし、今着ている服でもギリギリ隠れるか、ぐらいの位置で……。
彼女は少し、体を強張らせた。
耳障りな程、雨が車体を叩いているのに、それさえも気にならない。
ボク達は抱き合い、口付けを交わし、日付が変わる頃まで一緒に居た……。