004・釜兄 戒驕戒躁 V
バレンタインの次はホワイトデー。
会社でもいくつか貰ったし、芹香さんにもお返しを……と思い、またしてもイベント前日にデパートへ。
会社の女性社員の分は、デパートのホワイトデー限定の特設会場で購入。
芹香さんは……ついこの間もプレゼントを贈ったばかり。あまり高い物だとまた変な顔をされそうだ。
ふと辺りを見回すと、花束を買う男性を発見。そうか、花という手もあるかな。
花は当日の方がいいと思ったが、どんなものがいいのか店員に聞いて予約し、明日取りに来ればいいか。
花もたくさんあって、どれがいいのかさっぱり分からない。困っているところ、接客の終わった店員に声を掛けられた。
「どれに致しましょうか?」
「あの、ホワイトデーに花束のお返しをと考えているのですが……たくさんありすぎてどれがいいのかさっぱりで……」
「大切な方ですか?」
「……とても、大切な人です」
すると店員は一本の赤いバラを取り、見せてきた。
「それなら、真っ赤なバラをオススメしますよ」
王道なパターンだが、それはそれで間違いなさそうだ。
「花言葉は愛情、熱烈な恋ですから……」
その意味には少し驚いたが、口にしない分、花に思いを込めてもいいかな、と思った。
「じゃ、それを……」
「本数は……十一本にします?」
中途半端な本数だな。
「十一本?」
「はい、海外の……どこだったかしら? 忘れちゃいましたけど、一ダースって十二本でしょ? 足りない一本は自分か、贈る女性と見立ててプレゼントするらしいですよ」
さすが、花屋に勤めているだけに、その辺りの話には詳しい。
「だったら、十本にしてください」
「十本ですか?」
「ええ。残りの二本はボクと彼女ですよ」
店員はなるほど! と言いながら手を打った。
「それ、いいですね。他のお客さんにも勧めてみようかしら」
「後、花は明日、取りに来たいのですが……」
「あ、そうですか。何時ごろになります?」
「夕方ぐらいに」
「じゃ、来られたらすぐにお渡しできるようにしておきますね。メッセージカードはどうされますか?」
さすがにそこまで考えていなかった、というのもあるが……。
「結構です。その……バラの花言葉だけで十分ですよ」
「……お兄さん、かっこよすぎ。ホレそうだわ」
いやいや、それも困るが……ボクの事を想ってくれる人は、一人だけでいい。ボクを虜にしてしまった彼女だけで……。
花屋で会計を済ませると、その日は女性社員へのお返しだけを持って自宅へと戻った。
ホワイトデーはいつもと違った演出を、と思い、駅の構内にある喫茶店で待ち合わせをした。
デパートに花を取りに行ったわりには、いつも先に待っている彼女より早く到着。ちなみに、花束は車の中。さすがにここで渡すのはどうかと思って。
ボクが店で待っているのが見えたのか、それとも駐車場に止めてある車に気付いたからだろうか、芹香さんは店の前を全速力で横切り店に飛び込むように入ると、息を切らしてボクの横で頭を下げる。
「すみません、遅れました……」
待ち合わせを二分ほどオーバーしている程度だ。走ったせいか、少し髪型が乱れている。
窓に映る自分の姿でそのことに気付いたのか、慌てて頭を押さえた。
その仕草がかわいくて、思わず鼻で笑ってしまった。
「いえいえ、いいんですよ。たまにはボクにも待たせる役をさせてくださいよ」
頭を撫でて髪型を直しながら芹香さんはボクの前に座り、揃ったところで飲み物を注文した。
飲み物を運んできた店員が去ったのを確認し、まだコーヒーを飲み始めないうちに本題に入る。
「ゴールデンウイーク、旅行に行きませんか?」
いつになく、真剣……もしくは強引、または彼女の言う『サラっとそんな事をしそう』の範囲か……。
突然そんな提案をしたボクに、芹香さんは持ち上げたシュガーポットの蓋を落とし、戸惑い、焦り、慌てる。
「いや、その、あの……えー?!!」
いつもよりトーンの高い声。顔を真っ赤にし、手を体の前で横に振っている。それはイヤという表現ではなく、慌てているだけに見える。
何を思ったのか、ボクのコーヒーにまで砂糖を入れ、彼女好みの味にされる始末。ボクは砂糖を使わないのだが……う、甘い……。
「ど……こに行くんですか?」
「まぁ……横浜辺りにでも。海が綺麗ですし、中華街にも行ってみたいと思いまして……。遊園地もあるみたいですし」
いわゆる観光である。
彼女はこくりと頷いたが下を向いたまま、まだ顔は真っ赤だった。
カップが空になると、ドライブに行こう、と彼女を車まで案内し、いつか行った夜景の綺麗な所へ。
はしゃぐ彼女はボクを置いて先に行ってしまった。後部座席に隠すように置いていた花束を後ろ手に持ち彼女の後を追う。
「何度見てもキレイですねー。まだ二回目だけど」
ボクの方に向き直る彼女に、花束を差し出す。
「バレンタインのお返しです」
「え? 旅行がソレだと思ってたんですけど……」
「あれは別ですよ。貴女にコレを受け取って欲しい……」
おずおずと手を伸ばし受け取ると、表情を緩め、花の香りをいっぱいに吸っていた。
「正臣さんって、ロマンチストですよね。……実は車内のバラの香りが気になってたんです。匂いはするのに現物が見当たらないから、もう誰かに贈った後だと思ってました」
大切そうに花束を胸に抱き、目を細めてバラを見つめている。
「この赤いバラ……正臣さんは、どんな思いでこの花を私にくださるのですか?」
「……それはヒミツです」
花言葉ぐらいなら知っていそうな気がしたので、いつか彼女から貰ったネクタイの時と同じように、曖昧に答えた。
「……いつか、聞かせてください……」
「はい……いつか、時が来たら……」
前に来た時より少し風が暖かい。
もうすぐ、二度目の春が来る――。
芹香さんは無事、大学四年生になり、ボクも会社に入社して四度目の春を迎えた。
約束通り、弁当を持って河川敷の公園に来た。
お弁当は芹香さんが朝早くから作ったという手作りのものだ。
満開の桜が、春の青空が、彼女の笑顔がとても綺麗だった。
彼女の胸元には、ボクが誕生日にプレゼントしたオープンハートのネックレスが太陽の光を反射して光っている。
こんな日々がいつまでも続くものだと思っていた。
ボクが提案した旅行であんなことさえなければ……。
――五月三日、旅行初日。
車で行ったので移動だけで疲れてしまい、観光は明日にし、そのままホテルにチェックイン。
もちろん、部屋は別々である。
今日はどこにも出ないということで、彼女がボクの部屋に来て話をしたり、窓から見える景色を眺め、明日、行く場所を相談したり、その程度。
夕食もホテル内のレストランで済ませ、彼女が自分の部屋に戻るまで、つたない話をした。
――五月四日、旅行二日目。
タワーでブラブラ。怪しげなお土産に二人で笑った。
公園でブラブラ。
海を眺めながら公園内を散策。横を歩いていた彼女が銅像の前で止まり、覗き込んでいる。
「赤い靴の女の子だー。ひーじーさんに連れて行かれたんですよね?」
自信満々にボクの方を向く彼女。
「え? 偉い人の方の偉人さんじゃなかった? 曾爺さんって、身内じゃないですか。……あれ? 外国人の異人さんだっけ?」
幼少の頃の記憶とは曖昧なものだ。
「穿いたら足が勝手に踊り出してしまう、脱げない呪いの靴でしたよね?」
「……いや、さすがにそこまでは覚えてない」
どんなに記憶を引っ張り出しても、そこまでは記憶に残って居なかった。覚えているのは……世間から見ても楽しいと言えるようなものはなかった。
父は年に数回見ればいい方だったし。
もし、家庭を持つようなことがあれば、そんな父親にだけはなりたくないと思っていたが、今は……。
「お腹空きましたー。次は中華街に行きましょー!」
とてもお腹が空いているようには見えない、軽い足取りで中華街の方へ向かった。
ボクはというと……日頃の運動不足のせいか、足腰が悲鳴を上げていた。
昼食を済ませると、ボクが疲れていることに気を使って、芹香さんはホテルに戻ろうと言い出した。
「いや、しかし、まだ遊園地が残ってるじゃないですか……」
「明日、足が筋肉痛でクラッチが踏めないとか言われても、私運転して帰れませんよ! オートマ限定ですから!」
あれ? 免許持ってたんだ。
「これから、タクシーでホテルに戻ります。いいですね?」
「……はい……」
今日は彼女の意外な一面を見たような気がする……。
ホテルに戻ると、強制的に彼女のマッサージを受け、悲鳴を上げる。
「あーいたいたいたいた……」
「我慢してください! 本当に筋肉痛になりますよ」
悲鳴を上げるのも疲れる……。
「たぶん、明日には出ないと思います。ここ数年、二日後に筋肉痛の症状が出ますから……」
「それは老化している証拠です! もっとしっかり運動しないと……えい!」
「いたいですってー!!」
彼女のマッサージが気持ちよくなってきた頃、途中で意識が途切れた……。
次に目を開けた時には、真っ暗な部屋でボク一人がベッドに寝ているという状態だった。
掛け布団の上にそのまま寝そべってマッサージを受けていたせいか、掛け布団を巻き寿司の海苔のように体に掛けてあった。
……今、何時だろう。芹香さんは夕食を取っただろうか。
手にした携帯で時間を確認するついでに、彼女の携帯に電話をした。
もういつの間にか八時を回っていた。ホテル内のレストランの営業時間は確か九時までだったような……。
『はい。正臣さん、起きましたか?』
「すみません、ついつい眠ってしまって……夕食、どうされましたか?」
『まだ食べてませんよ。もうちょっとしたら起こしに行こうと思ってたんですけど、今から行きますか?』
「そうですね」
『分かりました。すぐに準備しますから、エレベーターの前で』
……いや、起こしに来られては困りますよ。布団を剥ぎ取られでもしたら、ボクは立ち直れませんよ。
オーダーストップギリギリでレストランに駆け込み、なんとか食事を取る事ができた。
食事を終え、自分の部屋に戻ろうとカードキーを差し込んだが、芹香さんは部屋の前でドアを開けず立ち止まっていた。
「……どうかしましたか?」
彼女はドアの方を向いたまま俯いている。ぎゅっと拳を握ってから、搾り出したような声……。
「あ、の……」
「はい?」
「部屋に行っても……いいですか?」
「ええ、構いませんよ。一緒にお酒でも飲みますか?」
自分の部屋のドアに向いたまま、彼女は頷いた。もしもし、ボクはこっちですよ。
備え付けの冷蔵庫からビールを取り出し、グラスを二つ手に持つと、ソファーに座る彼女の隣りに腰を下ろした。
ビールを並々と注いだグラスのひとつを彼女に手渡し、乾杯。
「今日は一段と浮き沈みが激しいような気がしますが、どうかしましたか?」
「……いえ、何も……」
やはり少し様子が変だ。昼間はあれだけはしゃいでいたのに……疲れているのだろうか。
というボクの心配をよそに、芹香さんの飲むペースはどんどん上がり、空のビンが大量にテーブルを支配する。
彼女の様子どころか、体まで心配になってきた。
「あの、飲みすぎ……」
「正臣さん」
ボクの言葉は遮られた。
「はい?」
「怖くてずっと聞けなかったことがあるんです」
「何ですか?」
「正臣さんは……私の事を……どう思っているんですか?」
「大切な人だと思ってますよ」
彼女は何かを振り払うように首を激しく横に振った。
「それは、どういう『大切』ですか? ホワイトデーのバラの意味も……今なら覚悟はできています。正直に言ってください。貴方が誰を想っているのか……」
それは、不安? 今までの中途半端な付き合いが彼女を不安にさせていたということだろうか。
「ホワイトデーのバラは、花自体にも、本数にもちゃんと意味があるんです。花言葉はご存知ですか?」
「……はい」
「ボクの想いそのままです。メッセージカードを付けなかったのも、花にそういう意味があるから、あえてそうしました。本数……数えましたか?」
「はい……十本でした」
「花屋で聞いた話ですが、外国のどこかでバラの花を一ダースには一本足りない、十一本贈る習慣があるそうです。贈る本人か、贈られる相手の方を足りない一本に見立てることで、一ダースになるんです。ボクが十本にした理由は、足りない二本がボクと貴女だからです」
彼女の表情から不安の色が消えた。
「いつか貴女を抱きしめてしまった日……あの時、自分の気持ちに初めて気付きました。恋愛なんかしたこともないボクが、貴女に恋をしたんです」
「正臣さん……」
「ボクは貴女を愛しています。芹香さんはボクの事をどう思っていますか?」
手に持っていたグラスをテーブルに置き、彼女は真っ直ぐにボクを見つめてくれた。
「私、初めて正臣さんに会った時、一目惚れしちゃったんです。毎週会うのが楽しみで、貴方を思うと幸せな気持ちでいっぱいになるの。でも……別れ際が寂しくて……、次も会えるのか不安でした。一緒に居ると楽しいのに、正臣さんの気持ちが分からないから不安でした」
膝の上で震える彼女の手に優しく手を添えると、瞳に涙が浮かんでくる。
「私、ずっと正臣さんが好きで……っ」
涙でそれ以上言葉が出てこなかった。
そんな彼女が愛しくて、彼女を優しく包み込むと、彼女もボクの背中にそっと手を回してきた……。
彼女が落ち着くまで、ずっと抱きしめていた――。
少し離れ、見上げてくる彼女にぎこちなく口付けた。何度も、何度も……次第に深いキスになってくる。呼吸も忘れるほど夢中になった。
彼女の甘い吐息がボクを狂わせる――。
そう広くもないソファーで彼女を……。
「ここ、イヤ……。それにシャワー浴びたい……かも?」
……押し倒している。何やってんだボクは!
急に恥ずかしくなり彼女から逃げるように離れると、彼女は火照った顔を恥ずかしそうに押さえていた。
そして、彼女は逃げるようにユニットバスへ駆け込んだ。
何がどうしてこうなったのやら……。
自分もシャワーを終え、二人ソファーに並び身を硬くして座っている。
している事といえば、飲みかけのビールに口を付けるぐらいで、あれから会話らしきものもない。
それでなくても飲みすぎの芹香さんは、更に、更に飲み続ける。
「芹香さん、本当にそろそろ飲むのをやめてください! ……っ?!!」
急に抱きつかれてしまった。これは酔いの勢い……か?
「二人で居る時ぐらいは、私を離さないで……不安になるから抱きしめて……」
ボクの耳元で聞こえるその声は、まだはっきりとしている。
彼女の背中に腕を回し、なだめるように背中を撫でた。
「ボクは感情を表に出すのが苦手ですから、それが貴女を不安にさせているんですね……」
まだ湿っている髪にそっと触れ、口付けると、彼女はボクの首に腕を回したまま、顔だけこちらに向けてきた。
「ボクは貴女でなければダメなんです。言葉だけでは足りませんか?」
何度も、窒息しそうな程、口付けを交わした。――貴女への愛を誓うように。
耳元で何度も愛の言葉を囁いた。――その度に彼女は強く抱きしめてくれた。
ボクの想いはそれだけでは……もっと深く愛したいと思った。
ボクの想いを受け止めて――。
彼女の想いを受け止めて――。
心で、体で……五感の全てで感じたい。
貴女を――貴女の全てを感じたかった。
ボクの全てを感じて欲しかった。
――五月五日、旅行最終日。
目覚めるといつもより体が重く、だるかった。隣りには気持ちよさそうに寝息を立てる彼女。
揺すり起こそうと彼女に手を伸ばしかけ――視界に入ったソレに気付き、引っ込めた。
彼女の体に桜の花びらでも散らしたかのような赤い痣。
背筋がゾクリとする。
――ボクは……彼女に何をした?
はっきりと覚えている。脳に、体に刻み込まれている。
――この、一糸まとわぬこの姿を何と説明し、どう言い訳する。
急に罪悪感がこみ上げてくる。
この場に居る事に耐えられなくなったボクは、ユニットバスに逃げ込み、頭から思いきり冷水を浴びた。
しかし犯してしまったこの罪は、洗い流せない。流せる訳もない、決して消える事もない……。
体の震えが……止まらない。
動悸は激しく、息が苦しい。
罪悪感からか、彼女と普通に話す事もできない。同じ部屋に居るのにすぐに会話が途切れてしまう。
彼女の目を見れない。
このまま、同じ部屋に居ることが、息苦しくて何より居心地が悪かった。
――どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
理由は分かっている。自分のせいだということを。
明日から仕事だからと理由をつけ、予定より早めに帰路についた。
目が合っても互いにすぐ逸らし、帰りの車内でも二人して黙ったまま、別れ際の挨拶もぎこちなく、昨日までの関係がまるで嘘のように崩れようとしている。
――昨夜の事が夢だったらよかったのに……。
何度も、何度も、消えぬ罪を後悔した。
晴れない気持ちと重い体に鞭打って、何とか会社まで来た。オフィスに入ると、課長がボクを見つけた瞬間、血相を変えた表情で駆け寄ってきた。
「鎌井くん、今すぐ九州支店に飛んでくれ」
ゴールデンウイーク明けから、そんな命を受けてしまった……。
「九州……ですか?」
「ああ、キミの企画でちょっとトラブルがあったらしい。悪いが、今すぐ準備して九州に向かってくれ」
転勤ではないだけまだいい方か。こちらも雇われている身。素直に従うだけ……。
会社へ来たばかりなのに自宅へとんぼ返り。会社で持たされた資料と必要な物を鞄に詰め、タクシーで駅に向かう。
途中、何度も彼女に電話しようと思ったが、結局できなかった。
彼女に……芹香さんには何も告げず、ボクは九州へと旅立った――。