004・釜兄 戒驕戒躁 U


 恋 <コイ>
 特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚(コウヨウ)する一方、破局を恐れての不安と焦躁(シヨウソウ)に駆られる心的状態。
 Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

 【Microsoft Bookshelf Basic Version 3.0 より引用】




 ――水曜日、祝日。
 笑顔で見送る優奈に不信感を抱きながらも、車で芹香さんとの待ち合わせ場所へ急いだ。
 今日の待ち合わせ場所は、ボクと彼女の家の中間に位置する駅。
 時間より早くに到着したつもりが、芹香さんは待ちくたびれたのか、右往左往。
 もしかして、ボクが時間を間違えたのだろうか。
 彼女の側で車を停め、窓を開ける。気付いた彼女はわたわたと慌てだした。
「すみません、時間間違えましたか?」
 ブンブンと大袈裟に手と首を振る。
「いえいえ、私が早く来すぎただけですから……」
 彼女が助手席に乗り込むと、駅を後にした。
「どこに行きますか?」
「それが……全然考えてなくて……」
「……」
「……」

 会話続行不可。どこに向かって走ればいいのかも分からなくなり、とりあえず適当に走るだけ。
 買い物は先日したから、他の場所……。
 特に目的がないのなら、河川公園でもいいかな。走ってばかりだとガソリンもなくなるだけだし。

 とりあえず、河川公園に行ったのは良かったのだが、桜はみごとに散った後。まだ若葉も茂ってない。
 これは大失敗だと思ったけど、彼女は笑いながら言ってくれた。
「もっと早くに来れば良かったですね」
「来年は、桜が満開の時に来れるといいですね」
「え?」
「会社の付き合いで夜桜見物もいいですが、休日にお弁当持って、のんびり花見もいいかなと思って」

 斜面に腰を下ろし、ボール遊びを楽しむ家族の姿を目で追っていると、隣りに座る彼女は、そのままぱたりと横になった。
「芹香さん?」
「気持ちいいですよ。空もキレイだし。なんだか吸い込まれそう……」

 ゆっくりと空を眺めるのはどれくらいぶりだろうか。
 そのままの体勢で見上げた空はとても高くて綺麗だった。
 風が少し肌寒いけど、太陽の暖かな光が体の芯まで染み込んでくる。
 こんな休日の過ごし方もいいかな、と今更ながら思う。
「光合成〜」
 貴女は植物ですか!
 顔を背けて笑いを堪えようとしても無理。肩の震えが止まらない。
「あー、笑いましたねー。縁側で日向ぼっこしているおじいさんに失礼ですよ」
 おじいさんまで光合成しているとでも言うのか! ボクの考え方とは次元が違いすぎる。その突拍子もない発想が新鮮で面白い。
 ボクにとっては、笑いを堪えすぎて腹が痛くなるほどの破壊力だ。
 彼女もつられて笑い出す。
 ボクは大の字に寝転んで声を立てて笑った。
 明日、腹筋が筋肉痛にならなければいいが……。


「週末も……大丈夫ですか?」
 帰り際、芹香さんが不安そうに尋ねてきた。
 また土曜か日曜にでも会いたいということだろうか。
 基本的に土、日は休み。しかし、家に持ち込むような仕事を頼まれるか頼まれないかまでは分からない。
 頼まれると想定し、土曜に片付ければ日曜日に時間を作る事ができるだろう。
「そうですね。実際はどうなるか分かりませんが、日曜日なら何とかしますよ」
 ぱっと表情が明るくなり、
「ホントですか! よかったぁ。今度こそ、ちゃんと行き先、考えておきますね」
 帰りの車内。前回とは違い、彼女は笑みをこぼしとても楽しそうだった。




 それから、特別用事のない日曜日は彼女と会う約束をし、色々な場所へ出掛けた。




 芹香さんとそんな関係が始まって半年――。

 自宅でボクの誕生日を盛大に祝ってもらっていた。
 食卓には坂見さんが腕を振るって作った豪勢な料理が並んでいる。
 母から新調したスーツ一式をプレゼントされたり、優奈がボクの生まれた年のワインを買ってきてくれたり。
 不在の父からは電報。忙しい事は知っているからそこまでしなくてもいいのに、家に居ない時は必ず電報を送ってくれた。
 すっかり忘れていた様子で、何も準備していなかった直紀は少し居づらそうだったが、まだ高校生だからそんな心配はしなくていいんだよ、となだめた。

 これは毎年恒例のこと。内容もいつもと変わらない。
 でもどうして、どこか満たされていない感じがするのだろうか……。
 今までにこんな事、一度も思ったことはないのに……。
 そう疑問に感じながら、ふと気付いた。
 ――そういえば最近、変だ。何かがおかしい。
 仕事で疲れているという症状ではない。
 何かに集中していたり、仕事中など全くと言っていいほど気にならない。
 なのに、仕事を終えて緊張感が緩むと彼女のことばかり考えてしまい落ち着かない。
 どうすればこの気持ちは修まるのだろう?

 約束の日曜には、まだ遠い――。




 冬もそろそろ本番。身が切れそうな寒さになってきた頃、一週間が一層長く感じるようになっていた。
 どんどん自分が壊れていくような気がして、溜め息ばかりが漏れる。
 胸が締め付けられるように痛むことが多くなった。
 一体、ボクの中で何が起こっているのだろう。
 自分の部屋に居ても、携帯ばかりが気になる。
 ――彼女は今、何をしているだろうか……。


 仕事がいつもより早く終わった木曜日。車に乗り込んでも帰る気が起きず、車内でステアリングにもたれかかっていた。
 ――今すぐに彼女に会いたい。だけど……。
 きっと……迷惑だろう。
 それならそれで仕方ない。声だけでも聞けたら、この気分は修まるのかもしれない。
 のろのろと携帯を手にし、彼女の番号に掛ける。
 再びステアリングに頭を預け、彼女が電話に出てくれることを願った。
『――もしもし? どうかしましたか?』
 いつも通りの明るい声に少し安心する。
「突然すみません……今から会えませんか?」
『今からですか? えっと、今どこに居るんです?』
「まだ、会社の駐車場です。芹香さんはどこに居ますか? 今すぐに行きますから……」
『私は友達と駅の東口に居ますけど、どうかされたんですか? すごく思い詰めてるカンジがしますけど……』
「大丈夫です。じゃ、すぐに行きますから……」

 携帯を閉じポケットに収めると、一刻も早く彼女に会いたくて、いつもより深くアクセルを踏み込んだ。


 車の間を縫うように駆け抜け、駅に向かう。
 彼女の姿を、こちらに気付いて手を振る彼女を見てようやくいつもの自分を取り戻したように思えた。
 窓を開け、彼女と友達に声を掛けた。
「突然すみません。芹香さん、お借りします」
 芹香さんの友達はキャーキャーと聞き取れないような甲高い声を発し、彼女はそれに対し、そういうのじゃない、と必死に否定。助手席に乗り込んだ芹香さんは、少し頬を膨らませていた。
 彼女の友達への挨拶代わりにクラクションを一回鳴らし、車を発進させた。

「電話、すごく思い詰めてたようなカンジでしたけど、どうかしたんですか?」
 もう、そんな気持ちは吹っ飛んでいたが、心配させた事には変わりない。ボクは先程の気持ちを正直に話した。
「自分でもよく分からないんです。急に……芹香さんに会いたくなって、それであんな電話を……」
「そうですか、良かった。深刻な病気か何かだったらどうしようかと思いましたよ。体は大丈夫なんですよね?」
「はい、至って健康ですよ」

 病気――ある意味その類のような気もするのだが、『芹香さんに会いたい病』なんて病名があるはずもない。

 会話が途切れた。ボクはある場所に車を走らせるだけ。
 どんどん街から外れていく。
 しばらくして、彼女は落ち着きなく辺りをキョロキョロしだした。
 街灯もない、ライトが照らす部分しか見えない人気のない所。その行動は当然だ。
 別にとって食おうという訳ではない。ただ、ここに連れて来たかっただけ。それが今であるということ。
 頼りない街灯の照らす頂上の駐車スペースに車を止め、エンジンを切り、後部座席に放っていたコートを取って車を降りると彼女も降りてきた。
「こっちです」
 ボクが先に行こうとすると、慌てて後を追ってくる。
 駐車場から少し上った突き当たりの場所で足を止めると、ボクの横で止まった彼女から歓声が上がった。
「すごい、キレイ……」
 街外れに位置するここは、一面に広がる夜景が一望できる場所。
「免許取ったばかりの頃、昼夜関係なく走り回ってて、その時ここを見つけたんです。急に思い出して、貴女にも見せたいと思って……」
 夜景に酔いしれていたせいか、彼女の方を向いて初めて身を縮めて震えていることに気付いた。
 着ていたコートを脱ぎながら後ろに回り、肩にそっと掛けてやると、そのまま彼女を抱きしめた。
「あ、あ、あ、あの、ま……さおみさん?!!」
「すみません、しばらくこのままでいさせてください」

 ボクは目を閉じ、彼女の肩に顔を埋めた。


 どうして急に会いたくなるのだろう?
 なぜ抱きしめたくなるのだろう?
 このまま離したくないと思うのはなぜ?
 会えないと切なくて、苦しくて、自分を見失いそうで……。
 会えると胸が高鳴り嬉しくなって……。
 何もかも、放り出してでも会いたい。
 この気持ちを何と言うのだろう?

 ――これが『恋』?


「もう少し、会う時間を増やしませんか?」
 自分でも信じられないような言葉が口から出てくる。
 きっとボクはもう限界なのかもしれない。
 気付いたからこそ、胸が締め付けられそうになる事、携帯ばかり見てしまう事、彼女のことばかり考えてしまう事、その訳が分かった。
 ボクを維持するには、彼女の存在は不可欠なもの。彼女に会えるから、ボクはボクで居られる……。
 彼女はゆっくりと頷き、囁いた。
「……はい」
 彼女を抱く腕に力が入り更に深く顔を埋めた。


 自分の気持ちが落ち着くまでに少し時間が掛かった。
 彼女を車内で待たせると、ボクは駐車場に設置してある自動販売機で温かい飲み物を買い、車に戻った。
「寒いのに付き合わせて申し訳ありません」
 と言いながら買ってきた缶コーヒーのひとつを彼女に渡した。
「いいんです。夜景キレイだったし……正臣さんに会えたし……」
 なぜそこで恥ずかしそうに下を向く。
 急に、抱きしめてしまったことを思い出してこっちも恥ずかしくなってくる。
「いや、あれはなんというか、最近、情緒不安定でして、何だかホントに……すみません……」
 訳の分からない言い訳を始め、最後に謝ってしまう。
 何をやってるんだ、ボクは……。
 それから、少し会話をしてから彼女を家に送るべく、山を降りた。




 クリスマスは一緒に食事をした。
 正月は初詣。屋台の食べ物を物色。毎年恒例のふく三昧もいいが、こういうものもおいしいことを知った。
 二月――芹香さんの誕生日があると優奈が毎日のように言うし、ご丁寧に部屋のカレンダーには赤丸がしてある。
 毎週どころか頻繁に会っているのだからこれを無視する訳にもいかない。
 誕生日のことはあえて口にせず、彼女の誕生日――バレンタインに会う約束をすると、ホテルのフレンチレストランに予約を入れ、バレンタインの前日は仕事が忙しいとウソを言い、彼女へのプレゼントを探しに出掛けた。
 しかし、困ったことにバレンタインとは女性が男性にチョコレートを送るというイベントがあるのでどこもかしこも女性向けの商品が品薄傾向。更に期間限定で設けられているバレンタイン特設会場は女性客でごった返している。
 そういえば、優奈が『テファニー、テファニー』と鬱陶しいほど連呼していたな。
 テファニーとやらを探してみようと思い、優奈の大好きなブランド品の店へと向かった。


 ブランド品の店もいつもより男性向けの物を多く扱っているように見えた。
 一通り見て歩いていると、目的のブランド商品を見つけた。
 種類が結構たくさんあるが、何がいいだろうか……。
 指輪はちょっと気が早すぎるだろうか。サイズもよく分からないし。やはりネックレスかブレスレットあたりが妥当だろうか。
 ショケースの中を集中して見ている時に急に店員に声を掛けられ、驚いて飛び上がりそうになったけど。

 プレゼント選びは店員の助言もあり、思ったよりも早く済ませることができた。
 準備は万端! 明日、仕事が終わって彼女を迎えに行けば……。




 ――二月十四日、世間ではバレンタイン。
 ボクも同じ部署の女性からいくつかチョコレートらしきものを貰った。
 しかし、今のボクには『バレンタイン』というイベントである事よりも、『芹香さんの誕生日』である事の方が重要であり、最優先だった。
 仕事は定時時間前には全てを終わらせ、すぐにでも出れるように準備。時間になると、仕事をこれ以上頼まれない為に、逃げるよう退社した。

 いつもの待ち合わせ場所――駅では少しオシャレをした芹香さんが待っている。
 合流し、予約しているホテルへ。彼女には今日の事は何も言ってないので、きっと驚いただろう。
 まず、クロークで荷物を預けると言ったら表情を曇らせた。何を心配しているのかは分からないが、別に物色なんてされないって。
 レストランに入る際、レディファーストということで、先に歩かせればギクシャクとぎこちない。
 テーブルでは席まで案内してくれた支配人が椅子を引いてくれたことに焦り、どうもすみませんと頭を下げたり、目の前のナプキンを横に避けてみたり……頭に被らなかっただけまだいいか。

 ワインを注文すると、ソムリエがワインを持ってボクの側に来て、ラベルを見せてくる。
「結構です」
 そう言うと、ソムリエはボクのグラスに少量のワインを注ぐ。
 グラスを回し、香りを確かめてから飲む。
 もう一度、結構です、と言うと、彼女のグラスにもワインを注いだ。
「私、ワインは初めてです」
 と嬉しそうだったが、口を付けた途端、彼女の表情が曇った。
「……意外とおいしくないんですね……」
「……お口に合いませんか……」

 まぁ、人には好みというのもあるから仕方のないこと。正直に言ってくれなかったらそのまま飲ませるところだった。ワインはやめ、彼女にはカクテルを薦めた。

 大量に並んだフォークやスプーン、ナイフをどれから使えばいいのか戸惑っている。
 幼少の頃からテーブルマナーを叩き込まれているボクには当たり前の事でも、彼女には初めてのことで、ここに決めたのは失敗だったと思った。クリスマス同様、普通のファミレスぐらいにしておけば良かったかな?
 最初の料理が来ると、外側から使っていくのだと教え、終えた時も食器の置き方などを簡単に教え……その度に会話が中途半端な状態で止まってしまう。きっと彼女はつまらないだろうな。
「今日、バレンタインですよ。もしかして、何か期待して誘いましたか?」
 思ったとおり、皿に視線を落とし、懸命にフォークとナイフを捌いている彼女の表情は少しつまらなそうだ。
 確かに今日のメニューはバレンタイン特別ディナーだが、その言い方だと自分でも忘れているということか?
「確かにバレンタインですが、それ以上にもっと大切な事をお忘れではないですか?」
 急に彼女は手を止め、驚いた顔をした。
「……し、知ってたんですか? 私、言いましたか?」
「知っていますよ。芹香さんの誕生日です。貴女から聞いた訳ではありませんが」
「知ってて誘ったんですかー? 正臣さんって、時々ものすごく……信じられない事を平気でしますよね」

 それは誉めてるのか、けなしているのか……。
「でも、チョコレートぐらい貰ったでしょ? 何だかモテそうなカンジですし」
 何だか言葉にトゲがある。
「まぁ……いくつか……」
「貰えるうちが花ですよ。ウチのお父さんなんか、娘の誕生日なんかすっかり忘れて、今頃、居酒屋を巡っている頃でしょう。いや、今日は奮発してスナックで金を払ってモテてる頃か……」
 と言って彼女はフォークに刺したものを口に運んだ。
 自棄酒ですか、それは……。
「それと……部屋まで取ってあるなんてことはないですよね?」
「……ボクはそんな人に見えますか?」
「今日の事もありますし、サラっとそんなことをしそうです」

 そんな風に見られていたとは……ちょっとショック。


 食事を終えて席を立った時、ようやく周りがカップルだらけになっていることに気付いた。それだけ芹香さんしか見えていないという事か? 重症かな……。
 クロークに預けておいた荷物を取りに行きホテルから出ると、すぐには駐車場に向かわず辺りを少し散歩しながら会話を楽しんだ。
「ごちそうさまでした。まさか、私の誕生日を知ってるなんて思わなかったけど、誰に聞いたんですか?」
「我が家に居る、ブランド好きの先輩ですよ」
「あ、優奈さんですかー? 私、優奈さんにも言った覚えないのに……」

 だったら優奈はどこから情報を入手してきたんだ?
「でも……嬉しかったです。本当にありがとうございます」
 街灯の下で立ち止まり、体を反転。心から喜んでいるような笑顔をボクに向ける。
 ――そんな顔をしないでくれ……また、抱きしめたくなる……。
 持て余している手をポケットに入れると、小さな箱が指に触れた。
 このまま黙っていても、益々彼女を抱きしめたくなるだけ。話題を変えるのが一番かもしれない、と思いポケットの中でその箱を握り締めた。
「実はプレゼントもあるんですよ」
「え?」

 手のひらに乗るぐらいの大きさの箱を差し出すと、きょとんとした表情で彼女は箱とボクを交互に見ている。
「誕生日、おめでとう」
「でも……いいんですか?」
「芹香さんの為に買ったんですから、貴女が受け取ってくれなければ意味がありません」

 おずおずとその箱に両手を伸ばす。手に取りしばらく箱を見つめると、大事そうに胸に当て両手で包み込む。
「ありがとうございます……プレゼントなんて貰ったの……何年ぶりだろう……。もう、親に祝ってもらうような歳じゃないし、バレンタインだから友達も自分の事で精一杯で、祝ってくれないし……やだ……涙出てきちゃった……」
 俯く彼女から零れ落ちそうな涙をそっと拭うと、彼女は言葉を続ける。
「もう、私の誕生日なんて誰も覚えてないんだと思ってました……」
「ボクも、それをおしえてくれた優奈も、貴女の誕生日を覚えています。バレンタインよりも大切な……芹香さんの誕生日だと……。だから泣かないで……」

 悲しみの涙を流しながら嗚咽を漏らす彼女の頬を優しく撫でる。
「……嬉しいんです。嬉しすぎて涙……止まらないよ……」
 嬉しい時にも涙が出るものなのだと、この時初めて知った。
 彼女が落ち着くまで、その場で彼女を守るよう側に居た。


 しばらく外に居たせいですっかり体が冷えてしまったので、車の中に退避。
 気温が低いせいか、車内もなかなか暖まらない。
 ラジオから流れるのはバレンタイン特集。うまくいって今は彼氏と一緒だとか、粉砕したとか……。
 誰もがバレンタインというイベントで騒いでいる。レストランのカップルも同じだ。
 ボクは……ボクだけは違った。バレンタインではなく、芹香さんの誕生日であることが大切だった。それ以外、何も考えていなかった。
「お見苦しいところをお見せしてすみません……」
 落ち着きを取り戻してから、ずっと恥ずかしそうに下を向いたままだった芹香さんがようやく口を開いた。
 それはバレンタインに感じていた不満をボクに漏らした事? それとも泣いてしまった事? その両方?
「実は、私も正臣さんにプレゼントがあるんです。誕生日の事は言ってなかったから、てっきりバレンタインのお誘いだと思ってて……」
 彼女のカバンから、ラッピングされた縦に長く薄い箱が出てくる。
 ……ネクタイか?
「こういうのプレゼントされたら困るかもしれませんが……」
「いえいえ、毎日使うものですから、却ってありがたいですよ」
「え……ええー?!! ……中身分かりました?」

 中身の事は何も言ってないのに、外箱を見ただけで当ててしまったので彼女は驚き、慌てる。
「ええ、まぁ……」
「まさか、その意味まで知りませんよね?」
「……意味?」

 女性が男性にネクタイを贈る意味だろうか。そういう知識は持っていないのだが……。
「知りませんよ」
 一瞬、顔が曇り、溜め息が漏れる。
「あの、どういう意味ですか?」
「いえ、私の口からは言えません。ついでに誰にも聞かないで下さい」

 そう言われると益々気になる。帰って優奈にでも聞いてみようか。
「じゃ、帰りますか?」
「正臣さん、飲酒運転?」

 ……確かにワインのテイスティングで少し飲んでるが、その後は飲んでいない。結構真面目な方なんだな、芹香さんは……。
「大丈夫ですよ。テイスティングで少し飲んだだけで、その後は飲んでませんから」
 構わずシートベルトを着用し、ハンドルを握った。


 時間的にはいつも通り、九時前後に芹香さんの自宅へ到着。
 感謝の言葉の後に、ネクタイを贈る意味は誰にも聞くなと釘を刺された。


 帰宅後、玄関を開けると優奈が立ちはだかっていた。報告を期待しているような表情だ。
「おかえりなさい、お兄様。今日もいいことありまして?」
 毎度毎度、何を期待してるのだろうか。
 とりあえず、ただいま、とだけ返し、優奈の横を通り抜けダイニングに向かう。
「ねぇ、芹香さんに何をプレゼントいたしましたの?」
 ボクを追い、じゃれついてくる。
「ネックレス」
「じゃ、芹香さんから何か頂きました? 今日はバレンタインですわよ?」
「……ネクタイを……」
「ま!」

 その驚き方だと意味は知っているようだな。足を止め優奈の方に向き直り聞いてみた。
「女性が男性に贈るネクタイの意味とは何だ?」
 優奈は小首を傾げ、にこりと上品に笑う。
「それは……オンナノコのヒミツですわ。おーっほっほっほ」
 上品とは言えない甲高い笑い声を上げながら優奈は自分の部屋へと上がっていった。
 ……益々、増す増す気になる!!!
 とりあえず、ダイニングに行き、母に帰宅の挨拶をしてから部屋に戻った。

 どうにもこうにも答えが知りたい。とりあえず、ネクタイで出来そうな事を連想してみた。
 ――ごく普通にネクタイとして使用。
 ――首を絞める。殺人系。
 ――頭に巻く。酔っ払い系。
 ――手を縛る。SM系。
 我ながら、ろくな回答が出てこない。明日、会社でそれとなく聞いてみるか……。


 先輩、後輩の男性社員に聞くと、イヤそうな顔をされてしまい誰も答えてくれない。
 女性社員も恥ずかしがって誰一人教えてくれなかった。約数名、泣きながら去っていったが……。
 結局、意味が分からないまま、いつの間にかボクはその件の事は忘れ去っていた。

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