004・釜兄 戒驕戒躁 ]
――四月。
優奈が自分のデザインした洋服ブランドの店を立ち上げた。
昔からの夢だったというそれを実現させたのだ。
芹香さんはその店の店長として迎えられ、結局は優奈に振り回されっぱなしの日々である。
それから一ヶ月半後――結婚から一年を迎える半月ぐらい前、ついにこの日が来た。
「……驚かないでくださいね」
「はい?」
そっと自分のお腹を撫でる芹香さん。もしや、前回同様のキツい冗談じゃないですよね?
「どうやら、正臣さんはパパになるようです」
恥ずかしさに負け、顔を覆って首を横に振りまくる芹香さん。
これは……冗談ではなさそうだ。
ボク……パパになるんですね……。
「まだ、検査薬で調べただけなので、絶対とは言えないんですけどね。明日、病院に行ってみます」
「こういう時、何て言えばいいんでしょうね……。何だか嬉しすぎて言葉もありませんよ」
パパパパパパパパパ……。
「名前、そうだ、名前を考えなくては……」
「気が早いですよー」
「息子だろうか、娘だろうか……ああ、娘だったらそのうち嫁にださなくてはならないのか……」
「正臣さん?」
「まさおみ……せりか……うーむ、そうじろう、あき、ゆうな、なおき……ウチの人間は名前に共通点がないのか。ならば気にせずに……」
「もしもし? 正臣さーん」
親への報告も忘れ、寝るまで……どころかベッドの中でも子供の名前を考えていた。
――次の日、会社から帰宅したボクは芹香さんに捕まり、寝室に連れて行かれた。
笑みが隠しきれていないその表情から、大体の予想はできる。
「どうでした?」
「うふふふ、もうすぐ三ヶ月だそうです。超音波写真、貰っちゃったんですよー。見ますか?」
見せられた超音波写真は白黒。どこが何で、何が何やらさっぱり分からない。
「今は2.5センチぐらいで、ここが頭。これが手になるんだって」
2.5センチ? 人間らしい形ではないが、これが赤ちゃんになるのか。丸いのとおたまじゃくしは、女性のお腹の中でものすごいスピードで進化するようだ。
「お腹を蹴られたら分かるんですか?」
「いや、まだ蹴れないでしょ」
それもそうだ。
「予定日はですねー、来年の一月なんですよー」
「ああ、来年にはパパですか……」
何とも言えぬ喜びを噛み締め、夕食の時間に家族へ報告をした。
「まぁ、そうなの? 予定日はいつ?」
「来年の一月上旬です」
喜ぶ母。そして優奈は……。
「わたくし、おばさんになってしまうのね……。でも、芹香さんがママになるだなんて、まだ信じられませんわ」
溜め息をつきながらも、嫌がっているという様子ではない。
「そのうち、お腹が目立つようになるわね。ベビー用品も揃えないと。とりあえず、お買い物ね」
「マタニティウェアもデザインしてみようかしら? 丁度いいモデルも居る事ですし」
と芹香さん以外、ボクも含めて皆、気が早い。
一応、まだ五月末なんだけど……。
電話口の父も、そっけなかったが『おめでとう』と言ってくれた。
顔が見えないからそんな風に聞こえたけど、一体どんな表情でこの報告を聞いたのだろう。
あの父に似合わず、表情を緩ませていただろうか……。
芹香さんの両親には、先に彼女が電話したと言う。
まさか、ボクより早くに報告したんじゃ……。
これを機に、優奈の店の店長を辞め、専業主婦になった芹香さん。
一日中、家に居るのも退屈だと漏らしていた。
――そのまた次の日。
仲人をしてくれた西岡部長に懐妊のご報告。
「おお、そうか。お前も父親になるのか……。出産前後は色々と大変だからな、覚悟はしておけよ」
何がどう大変なんだろう? 知識も経験もないボクには何のことやらさっぱり。
一度、本屋に寄ってその手の本を探してみる必要がありそうだ。
その後、近くでその話を耳にしていた同僚から聞き捨てならぬ事を聞いてしまった……。
「スポーツカーの座席シートって、ケツの方が下がってる感じじゃん。女の体には悪いらしいよ。骨盤が下がるだとか、子宮が下がるとかって、聞いたことあるけど? やたら跳ねる車は最悪の事態を招くとか……って――」
それはいかん! 早急に車を買い換える必要がありそうだ。
本屋よりも国産車ディーラーに駆け込むのが先か!
とその前に、芹香さんに相談。
「えー、買い換えるんですかー?」
見事に不満そうな顔だ。
そういう自分も、アレだけは手放したくない。
免許を取得してからずっと乗ってきたものだし……芹香さんと一緒に色々な場所へ行った、思い出の詰まった車だったから……。
あれこれ、十年近く乗っていると、愛着も相当なもので、それこそ、動かなくなるまで、形がなくなるまで乗ってやろうと思っていたのに……。
本当かどうかは分からない。他人から聞いた話というだけでも、あんな事を聞いてしまえば、そうも言っていられない。
しかし、他人の手に渡るのは……ちょっと待てよ。
免許は一応持ってるけど、車なんて所持して維持する余裕もなさそうだけど、一番信用できるのはただ一人。
もし先で手元に戻したくなればすぐにでも戻せる範囲。
これしかない。
「だったら、弟にあげちゃいましょう。知らない他人に乗られるよりいいでしょう。それならいつでも手元に戻せますし……」
とは言っても、手放すことには変わりなく、芹香さんはあまりいい顔をしない。
「まぁ……他人が乗るよりはいいですよね、その方が……」
「次は乗り心地が抜群にいい、高級車にしましょう」
すでに、目星はつけてある。
仕事の関係で何度か乗せられたアレ。あの車程いいものは他にないだろう。
弟と話をつけ、GT−Rは直紀の手に渡る事になった。
その話は、ボク、芹香さん、直紀だけの秘密ということで。
休日にディーラーに行って話を聞くと、最近の車は鍵でエンジンを始動しないらしい……。
すごい世の中になったものだ。
その日のうちに契約し、あとは納車を待つだけとなった。
それからおよそ、一ヵ月後。
納車日に合わせて、下取りに出したと偽る為に、我が愛車は弟のもとへと旅立った……。
しかしながら、寂しいものは寂しい。
そんな気持ちを紛らわすついでに、新しい車にも慣れようと、一人でドライブに出掛けたのだが……。
「――――ヒッ!!」
オートマは恐ろしい。クッとアクセルを踏むとピューっと行ってしまう。
操作が単純で少しつまらないが。
ハンドル周りや色々な場所にボタンが付いているが、全てを扱える日は来るだろうか……。
ライトスイッチやワイパースイッチも、今までとは違う位置……とはいっても、あの車が特別変なところに付いていただけに、慣れるのにも時間が掛かった。
「芹香さんは、オートマ限定でしたよね?」
「いくらオートマでも、運転しませんよ、こんな大きな車……」
全長五メートルちょっと、横幅一八三センチ。横幅に至っては、ボクの身長と二センチしか変わらない。
……それは大きいでしょうね。本人曰くペーパードライバーですから。
そのうち、彼女専用のお出掛けカーも必要でしょうか。
まぁ、今までずっと助手席に乗っていたのだから、これからも、できればそうしていて欲しい。
――八月。
サークルの旅行だとかで、東京に居る直紀から電話があった。
「小学校の卒業アルバムってまだある?」
何か確かめたいことがあるとかで、それを届けるようにと頼まれた。
届けるにあたり、待ち合わせた駅。
前もって車を買い換えた事を言っておいたので、気付いてすぐに駆け寄ってきたが……。
外見、雰囲気ががらっと変わっている事に正直驚いた。
髪はばっさり……と言っても、今まではカツラだったか。
服装もカジュアル。胸がなければ女には見えないだろう。
「持ってきてくれた?」
「あ、ああ。これでいいのか?」
紙袋ごと直紀に渡す。中身を確認すると、一度、頷いた。
「うん、これこれ。ありがとね。じゃ」
……ここまで呼び出しておいてそれで終わりかよ。
それから三十分も経たないうちに、また直紀から電話が掛かる。
『兄さん、高校の卒業アルバム、大至急持ってきて!』
まだ家に辿り着いていないというのに……。
「またぁ〜?」
と不満を漏らせば、こう来る。
『ジャイアントスウィング……』
低い声で。どんな技かは分からないが、いつぞやのこともある。ここは、こうするしかない。
「……取りに行けばいいんだろー? 仕方ないなー」
『よろしく』
いつもの陽気さを取り戻した声。それだけで電話が切れた。
……ボクを何だと思っているのだ。
今度は宿泊先のホテルまで届けることになる。
それにしても、ホテルの場所は国会議事堂やら官邸なんかがある、千代田区とは目と鼻の先。
せっかくだから会いに行けばいいのに……と思うだけで口にはしなかった。
いつものあのセリフが出ることを予想していたからだ。
それに、せっかくの旅行を台無しにする訳にもいかない。
無理矢理にでも、連れて行くこと、家に連れて帰る事も出来たはず……いや、直紀なら手加減なしに抵抗し、こっちの命が危ないだろう。
言わなくて、やらなくて良かった、と後で思った。
――盆の休み中。
優奈がどこかのブライダルハウスのオリジナルドレスのデザインとかで九州に行った帰り……直紀に会ったと言う。
直紀の話によると、ボクが車――GT−Rを譲った事がバレていたらしい。
あれだけ部屋の前で止まったりするなと言ったのに、まだやっているのだろうか……。
「直紀ってば、彼女が居るのよ。しかも、何だか男の子みたいで――」
そうそう。いつぞや直紀の所へ行ったときに居た、青年だと思っていた人。実は女性だったと聞いて仰天したものだ。直紀も自分が男だと正体を明かしたとか……。
「ねぇ、聞いてる?」
「聞いているよ」
ついでに、その彼女と同棲を始めようと考えている事も、直紀本人から聞いた。
勝手に電話を解約され、連絡方法がなくなった母は、しばらく塞いでいたが。
『彼女のために、体を戻したい――』
直紀は電話で、はっきりとそう言った。
もしかしたら自分の欲望のためだけかもしれないけど……、とも付け加えたが。
もっと、早くに彼女に会えていれば……。いや、今からでも遅くはないだろう。
いつかはこの家に戻って来ることを……。父と和解することも……。
――九月。
チャクタイ?
「着帯。腹帯です。戌の日に腹帯を巻くことで、安産祈願……だとかなんとか……」
妊娠期間の折り返し地点を過ぎた。
ずいぶん目立つようになったお腹を支えるように、さらしが巻いてある。
それが着帯やら腹帯だとからしい。
「犬の出産は安産らしいので、戌の日なんですって……あ、蹴った」
蹴った、という言葉に過剰に反応するボクは、すぐに芹香さんのお腹に耳を当てた。
……?!!
「ほーらほら、動いてる、動いてる。お風呂入ってる時、お腹が動くのを見ると、キャー、エイリアン! とか思うけど……」
エイリアンだなんて失礼な!
でも、動くということは、お腹の中で元気に育っているという証拠。
どんな顔なのか、どのぐらいの大きさなのか分からないけど、会える日が楽しみでならない。
「ホクトくーん(仮)聞こえますかー? パパですよー」
と自分に似合わない事も平気でできるようになった。
「あれ? いつからホクトくんになったんですか?」
「何となく……です。こう、なんというか、ビビっときたんですよ」
「びび?」
「あれだけお腹を蹴るんですから、相当やんちゃですよ」
「うん、それっぽい」
妊娠中の妻と、仲良くまだ見ぬ我が子の話。
なんて幸せなんだろう。
一日、一日がとても充実してて……。
――が、
「お兄様、キモい」
ボクの顔を見るなり、優奈がたまにそんな事を言う。
「部屋の前でまた止まったのか?」
「通ったらたまたま聞こえただけですわ」
怪しい。
引越しするなら今のうちだ。
駅近くに新しいマンションが建造中。
建つ前から分譲中。
休日に芹香さんとモデルルームに足を運び……。
平日の仕事の合間に銀行に相談。
独身時代に貯め込んだ金のほとんどを一気に放出。
よろしく三十年ローン。車も三年あるけど……。
三十年後って……五十八歳か。あまり考えたくないな。
とりあえず、会社で出世はしても肩だけは叩かれないよう懸命に働かなくては。
あっという間に契約成立。
十一月に引き渡し……?
しまった、計算外だ。
契約後、母に引越し宣言。
急な事に表情を曇らせた。
「何が気に入らないの?」
「ただ単に二人で、いずれは子供と、暮らしたいと思っただけです」
「母が邪魔ですか?」
「いえ、そうではなくて、二人の城が欲しかっただけです。結婚当時から考えていたことですから」
「……衝動買い?」
「即決です」
「ま!」
「正直言うと……もっと早くにこうしたかった……」
「……そんなに居辛かったの?」
「……何となく、集中できな……」
そんなことは言わなくてもいい! わざとらしい咳をひとつ。
「心配しなくても、いずれ戻ってきます。……長男ですから」
「それならいいでしょう。どのみち、反対しても契約済みだと押し通すつもりでしょう。
芹香さん、今の時期が時期ですから、何かあったらいつでも呼んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
何とか、というより、結局は強引に押し通した感じだ。
――十月、末と言えば……。
「二十八歳の誕生日、おめでとうございまーす」
もう、三十路までのカウントダウンが始まってしまった。
彼女と初めて会った時は二十四歳だったのに……芹香さんはまだ二十三歳だというのに……ボク一人だけが歳を食っている訳ではないのにそんな感じに聞こえる。
小さいけど芹香さんの手作りケーキがテーブルの中央に置いてある。
やたらろうそくが立ち並んでいるのが少々気になるが、本当に二十八本も立っているのだろうか。火を点けるのも、消すのにも一苦労しそうだ。
これが二人だけの誕生日パーティならどれだけ嬉しかっただろうか。
さりげなく怪しげな笑顔を浮かべる、母とタイミングよく帰宅した優奈が向かい側に座っていなければ……。
「正臣さんはこれからパパになるので、プレゼントはこれにしてみました」
さん付けして益々怪しい母から差し出されたのは、ラッピングされた予想外に小さな箱。
「ありがとうございます……で、これは何ですか?」
「赤ちゃんの服」
すでにボク宛の物ではないのですね。貰って対応に困るような物よりはいいでしょう。
「わたくしからも、わたくし自らデザインし、仕立てたベビードレスですわ。これでお宮参りもバッチリですわ」
「ダメよ、優奈。昔からお宮参りは着物を羽織らせるのが伝統よ」
「まぁ、硬いこと仰らずに。最近は洋風ですわよ」
「認めません」
さて、この口論をどうすべきか……。
「だったら、ベビードレスの上に着物を羽織ったらどうですか?」
「……それもそうね」
「何で気付かなかったのかしら?」
二人はころころと笑い出す。
さすが芹香さん。自分に話を振られる前に収拾するとは……。ボクだったら両方の押しで、たじたじになるところでした。
今日は料理のほとんどを芹香さんが担当し、彼女の好意で坂見さんもパーティーに参加。
「ワタクシには勿体のうございます。おぼっちゃまは本当にいい方を奥様に貰われて、坂見も嬉しゅうございます」
感極まって布巾で目頭を押さえている。
そろそろ『おぼっちゃま』はやめてもらえないだろうか……。
――十一月、重たいお腹を抱えての引越し。
芹香さんのご両親とボクの母も手伝いに来てくれたが、片付けはできるだけボクが進んでやった。
片付けの合間の休憩で、丁度両家の親も揃っている事もあり、出産前後の話を少々。
「ボクの考えでは、予定日一ヶ月前から実家の方に戻ってもらった方がいいと思っています。昼間は会社に行っていますから、何かあっても対応できませんし……」
「じゃ、正臣はその間、家に戻るのね?」
すぐに食いついてきたのは母だった。
「……考えておきますよ」
優奈が家を空けることが多くなり、寂しいのも分からなくもないが、ボクはもう子供じゃないんだから……。いや、母にとって、ボクはいつまでも子供か。
「やだ」
……芹香さん?
「私、正臣さんと離れたくありません」
「いや、でも、今でも十分、動きづらそうですし、家事も大変だと聞いています。出産後なんかは一ヶ月、家事をしてはいけないとか、それより育児が大変だとも……」
「でもイヤです」
……なかなか、頑固ですね。
「芹香はまだ子育てがどんなものか、知らないからそんな事が言えるんです。ここに一人で居る時に陣痛がきたらどうするつもり?」
「タクシーで病院に行く。ドラマとかでもそうでしょ。それが王道よ」
「甘い。陣痛って動けなくなるほど痛いのよ? ドラマで見るほど出産は甘くないの。ねぇ、お母さん」
芹香さんのお母さんがボクの母に話を振る。同じ出産経験者として、貴重なご意見をどうぞ。
「そうそう。何度殺されかけたことか……」
いや、それは恐怖を植えつけているだけだ。
そんな言い方をしたわりには、三人もよく産んだものだ。
ボクと優奈は二つ違いだけど、直紀とボクは八つも、優奈とでも六つほど歳が離れている。何を思ってそんなに空けたのだろうか。
急に赤ちゃんを抱きたくなったとかいう安易な考えではないことを願いたいが。
「それなのに、入院に必要な物を持って、行けるはずもないでしょう。ずっとウチに居ろって言っている訳じゃないんだから、素直に戻ってきなさい」
「ヤ」
「出産後、ゆっくり体を休めないといけないの。家事が出来ないんだから、居ても迷惑でしょ!」
強く出ましたね、お義母さん。迷惑だなんて思いませんけど……ボクも家事は出来ませんから……。
「芹香さん、無理をして辛くなるのは、貴女だけではなく、お腹の子供も一緒だと思います。赤ちゃんの為にも、そうしてもらえませんか?」
無理されて、早産にでもなったらそれこそ貴女のご両親にも申し訳ない。
「……分かりました。出産前後はお休みを頂戴いたします」
何とか説得完了。
「では、その時はよろしくお願いします」
とお義父さんとお義母さんに頭を下げると、
「いえいえ、意外とワガママな娘ですみません」
と逆に頭を下げられた。
「その代わり、仕事が終わったら毎日来てくださいね」
実家に戻る代わりに、それが条件ということか。
「それはもちろんです」
言われなくてもそのつもりだった。
――十二月。
お腹はこれでもか! というぐらい大きくなっている。
芹香さんは明日には、明日には……と言い続け、結局、出産半月前の今もマンションに居る。
二人掛けのソファーで身を寄せ合い、その事について話を始めた。
「……本当に、そろそろ……」
「私、布団が変わるとダメなんです」
「嘘はいけません」
新婚旅行といい、各種旅行中、一度たりともそんなことはなかった。
「……寄り添うものがないと、眠れません……」
「離れたくない気持ちは分かります。ボクも同じですから」
「正臣さんが居ないと……イヤです」
「でも、もし何かあった場合、ボクは自分自身を責めるでしょう。だからお願いです。
明日、土曜日ですから、ボクが家まで送ります。それでいいですね?」
頭を下に向けた。頷いたわけではなく、納得はしていないといった感じだ。
隣に座る彼女の顔を覗き込み、そっと髪を撫でると、芹香さんは顔を上げた。
「毎日、来てくれるんですよね?」
「当たり前です。そちらの都合が良ければ、土日に泊まってもいいんですよ」
「……そうしてもらいます。でなきゃ私……一人じゃ不安です」
大きなお腹、たまに張って痛いと言う。
それがどんなものなのか分からない。
ボクが居る事で彼女の不安が少しでも軽くなるのなら……そうしたい。
――いや、それだけ愛されているという事?
だからこそ、一緒に居たい。
それは、ボクだってよく分かってる……。
離れたくないのは、ボクだって同じなのだから。
――次の日。一緒に行った、彼女の実家。
また駄々こねてたんでしょ! と玄関で出迎えてくれたお義母さんに怒られる芹香さん。
それでなくてもしょんぼりしていた芹香さんは更にしょんぼり。
「これから母親になろうっていうのに……」
自覚が足りないとでも言いたげだ。
「まぁ、これは仕方のない事でして……」
ボクは弁解に回るだけ。あえて自分の気持ちは言わないけど。
「芹香さんがこんな状態ってのもあるので、これは提案なんですけど――」
「正臣さん、土日はウチに泊まってもらうことで手を打ったからそうしてね」
控え目に提案しようと思っていたのに、芹香さんがズバリ。
「あら、それは構わないわよ。それにしても……この寂しがりやな所は誰に似たんだか……」
聞こえていたのか、ダイニング辺りから喉を鳴らす音が……。
意外ですね、お義父さん。
まぁ、上がって、と言われ、ようやくダイニングに入る。
お義父さんに挨拶をし、荷物を芹香さんの部屋に運ぼうと廊下に出ようとした時、お義母さんに呼び止められた。
「じゃ、早速、今日泊まる?」
「お願いします」
それから、二日程、野間口家でお世話になった。
芹香さんの機嫌もこの間にすっかり直り、安心したのだが……とにかく、妹さんが怖くてたまらなかった。
お風呂を借り、下を穿き終わってからだったのでまだいい方だった、と思いたい。
音も立てずに開いたドア。
はっはっは。芹香さん、そんな大胆な……。
なんて悠長に構えていたら、覗いていたのは、彼女より少し背の高い……。
「なななな、何をしているんですか、麻里香さん?!!」
思わず手で持っていたタオルで体を隠す。
女性の前でこの格好はさすがにマズい。
「……お義兄さん、いい体してますね。……抱かれたぃ……」
警戒以外の何をしろというのだ。
芹香さんがお風呂に行っている間にでも取って食われるのではないかと警戒。
お義父さんとお義母さんの水入らずを割って入る事になっても、ここが一番安全だと思い、ダイニングで待つことにした。
これから先もこの件に関しては不安でイッパイ。
ふと、直紀が気になったのが十二月末。それこそ大晦日の一日前。
予定日まではまだある。
芹香さんは実家で、彼女のご両親が居るから安心。
かなり不満そうな顔をした彼女だが、弟の事情もよく知っていることもあり、ちゃんと許可を得て直紀に会いに行った。
驚かせる事を優先し、またも連絡ナシで……。
引越し先……というか、彼女と同棲しているというアパート。
住所は聞いていたがそれが一体どこなのか、分かるはずもなく、駅からタクシーでそのアパートに向かった。
駐車場には我が前愛車、GT−R。在宅している事は確かだろう。徒歩で出かけていなければ。
二階に上がり部屋番号を確認してから、チャイムを押し、ドアに背を向けた。
覗き穴から見られて居留守を使われては面倒だ。
どんな驚く顔が見れるのかと考えながら、頬を緩ませて出てくるのを待つ。
ドアの鍵が開いたのと同時に振り返り、直紀、遊びに来たよー。とでも言おうと思っていた。
――のだが、
「なおきび……ウグゥ……」
としか言えなかった。
正確には、ボクが振り向き、思ったより早くドアが開いた瞬間、直紀に思いっきり、変な体勢で固定された。
「なにやってんの〜にィさ〜ん♪」
やけに楽しそうな直紀の声。そんな声とは裏腹に、更に体を締め上げられたボクは何とか声を出すのが精一杯だった。
部屋の中から覗いてこちらを見ているいつぞやの青年……いや、直紀の彼女。名前は直紀から聞いている。
「い……や、様子見にき……タ……あたた。ゆぅきさん、こんにちは。こんな格好ですまない……あたたたた」
「ちょっと直……卍固め、違うよ。技掛けられている人も、向こう向いてなきゃ……」
「そ……そう?」
そんな事はいいから、早く何とかしてくれ。苦しいし痛い……。
開放され、改めて直紀を見ると何か違和を感じ、首を傾げた。
本来ならば違和感ではない。これこそ、当たり前の姿なのだ。
「直紀……胸は?」
「三週間ぐらい前に取っちゃったよ」
「……そうか……一度ぐらい触りたかったな……」
冗談のつもりで言ったのだが、直紀はそう捉えてくれなかった。
ゆっくりと伸びてくる手に、直紀自体から殺意を感じ、後退りした。
それから、掃除の邪魔をしたとかで、手伝わされた。
ボクはじぶんの部屋の掃除程度しかしたことはないのだが……。
直紀は随分と手馴れている感じだ。
掃除が終わっると、夕食をご馳走になった。
直紀がキッチンに立つ姿が意外でもあったが、大学に進学してからずっと自炊しているとかで、その味は絶品であった。
まぁ、芹香さんの愛妻料理に勝るものはないだろうけど。
これも冗談で一言。
「直紀……いいお嫁さんになれるぞ……」
しかし、敏感に反応したのは直紀ではなく、祐紀さんの方。
「兄さん、それは違うよ」
直紀はつまらないぐらい淡白な対応だった。
「それより、帰らないでいいの? それとも、喧嘩したの?」
家庭を持つボクが一人でこんな所にいるのだから、そう考えるのが当たり前なのだろう。
一応、子供が生まれる事は言ったはずだが、実家に戻った事まで話してなかったな。
「ああ、ご心配なく。嫁さん、出産で実家に帰っているから」
「結婚してたんですか?!!」
そんなに驚かなくても……。
直紀はそういう話はしないんだろうか。適当にその辺りの事を今になって話している。
「一年半ぐらい前に結婚したんだよ。もうすぐ、子供が生まれるんだってさ」
それから、年齢の話、兄弟の話へと移ったが、祐紀さんの様子が少しおかしかった。
まるで逃げるかのように、部屋でテレビを見ると言い出す。
キッチンに残された直紀とボク。
直紀の表情は不満の色を露わにしている。
「だって、何か引っかかるでしょ、今の会話。最近、何かヘンなんだよ……」
箸を置き、直紀を真っ直ぐに見つめた。
「直紀には、隠し事はないのか? 彼女に言えない、何かが……」
「そんなものはないつもりだ」
言葉は強かったが目はそう言っていなかった。
「……いや、誰にでもあるはずだ。誰にも言えない事が。――直紀は思い出話が嫌いだったね? 思い出したくない過去があるから、自分からその話題には触れない。それも同じではないのか?」
直紀はボクから目を逸らした。
「ほら、心当たりがあるだろう? 誰にでもある事だから、気にしないのが一番だな」
そう話に区切りを付けると、ボクは箸を持ち食事を再開した。
食器の片付けを手伝っていると、祐紀さんの居る部屋から叫び声が聞こえたと思ったら、今度は馬鹿みたいに笑い出す。
……先程の様子といい、これといい……悪い人ではないのだが、よく分からない人だ。
さて、そろそろいい時間になってきたし、これ以上二人の邪魔をする訳にもいかないだろう。
直紀と彼女が居る部屋に顔を出し、帰る旨を伝えた。
「それではそろそろ帰るよ。お邪魔しました」
「え? これから、千葉まで帰るの?」
まさか。まぁ、こんな時間になるとは思わなかったけど、
「いやいや、近くのホテルを予約して来たから、ご心配なく。明日の昼には、向こうに帰る予定だから」
一応そこまでしている。
「そう……」
目を伏せ、寂しそうな声を上げる直紀。
たまにしか会えないので、それはボクも同じ。だけど、ボクには帰る場所があるのでそうも言っていられない。
玄関で靴を履き終えたボクは、思いついたよう口を開いた。
「今度、遊びに来いよ」
しかし、眉間にしわを寄せ、嫌そうな顔をした。
「そんなに嫌か? 大丈夫だよ。もうあの家にいないから」
直紀の表情は緩み、きょとんとした顔に変わった。
「二ヶ月前に、駅近くのマンションに引っ越したから、直紀が心配しているようなことにはならないよ」
直紀は微笑んで頷いた。
あの家の家族の中で、ボクだけには心を開いてくれている。それも嬉しかった。
「じゃ、夕飯ごちそうさまでした」
「あ、すみません、何のお構いもしないで……」
祐紀さんが部屋から出てきて、帰ろうとするボクにそう声を掛けてくれた。
「ああ、こちらこそ、いきなり押しかけてしまってすまなかった」
「本当に今度は、電話してから来てよね!」
ボクは笑顔で、直紀の頭をポンポンと優しく叩いた。
「そうだね〜。怪しい技ばかり食らっていたら、こちらの身がもたないな」
まさか今回も食らうとは予想外だったので、二度あることは三度あると思う。次はちゃんと連絡してから来るとしよう。
また暇な時に遊びに来ると言い残し、ボクは予約しているホテルへ向かった。
こちらも予想通り、何で帰って来ないの、と芹香さんに怒られ、泣かれ……。
もう、とにかく謝る事しかできなかったけど……。
帰ってからも、芹香さんの機嫌取りに余念がなかった。
それから予定日を軽く通り越し、一生腹の中から出てこないのではないかと不安に思いだした一月の第二日曜日、早朝。
土日は彼女の実家に泊まっているボク。
まだ外が暗いのに、芹香さんに揺すり起こされた。
「……正臣さん、起きてください」
「んー?」
なんだか布団の中が……ぬる温かい……。っていうか、服に染みてない?
いや、寝る前に水分は取ってないんだけど……、さすがにこの歳でそれは、恥ずかしい超えて情けない。
いや、ボクが犯人ではない。
彼女が? そんな……。
「何だかね、破水しちゃった……かも? それにたまーにすっごくお腹が痛い……です」
ハスイ?
ジンツウ?
――――――!!!
「びょぉいいいいぃぃぃぃぃんんんん!!!」
朝から叫ぶ。部屋の中をわたわたと動き回る。
何をすればいいのか、混乱して分からない。
とにかく、病院だ! どうやって行くんだ。救急車か、タクシーか、はたまたボクの車か、お義父さんか。
ボクの慌てた行動に気付き、部屋を覗きに来たのは、隣の部屋の妹さん。
「どうしたんスかー? 誤爆? 暴発? それとも夜這い失敗?」
と実際は突っ込みどころ満載のセリフを吐く麻里香氏だが、今のボクにそんな余裕はない。
「お義父さんとお義母さん、呼んでください。芹香さんが、芹香さんが……」
「死にそうですか? いっそ、ワタシと再婚を……」
「麻里香さん!!」
「冗談ですよ。たぶん」
ようやく、お義父さんとお義母さんを呼びに行ってくれた妹さん。
何を言ったのかは知らないが、血相を変えて両親が部屋に飛び込んできた。
「芹香ぁぁ、傷は浅いぞ。すぐに病院へ――」
お義父さんもかなり取り乱している。
それとは違い、お義母さんは状況を把握するとテキパキと指示出し、何とか病院に辿り着くことができた。
さすが、経験者。よくご存知だ。もし、お義母さんが居なかったら……部屋で産まれていたかも知れません。
病院の待合室で、お義母さんを拝むように何度もお礼を言った。
芹香さんが病院に行ったという知らせを受け、駆け込んで来た母。
「産まれました?」
早いよ、そのセリフは。
「まだです。思ったより進行が早いらしくて、今は分娩室に――」
――ギャァァ。
「あ、産まれたみたいですね」
病院に駆け込んでわずか一時間。
超スピード、超安産。
本に書いてあった、三日三晩苦しむだとか、初産は時間が掛かるとかってのは、人それぞれであって、芹香さんの場合はそれが早く、長い時間、苦しまずに済んだだけ良かったと思う。
「フルマラソンより疲れるよ、これ……」
分娩室の分娩台の上。
お腹の辺りがすっきりした芹香さんは、疲れきった表情ではあったが、頬を緩ませてそう言った。
「ありがとう、芹香さん……」
その芹香さんの隣には、小さな生まれたての赤ちゃんが居る。
たまに目を開け、きょろきょろと目を動かし、また目を閉じる。
「この子、パパの声に反応してるんじゃないかな? きっと探してるんだよ」
「ホクトくん、パパはここですよ」
そっと頬をつついてみるが、反応らしい反応は返ってこない。
つまらない気もするが、いきなり喋られても困るものがある。
「名前、ホクトくんのままですね」
「だって、ホクトくんって顔をしているじゃないですか」
「……それもそうですね。それにしても、パパにそっくり。きっと、モテモテで罪な男になるんでしょうね」
それはボクも該当するような言い方ですけど……。
「赤ちゃんってこんなに小さかったかしら?」
「ほら、せっかくだからお父さんも抱いてみなさいよ」
「いや、それは……」
赤ちゃんを抱きまわす母たち。進められて対応に困っているお義父さん。
それを見守るボクと芹香さん。
芹香さんの顔からは笑みがこぼれている。
いつかボクらにもそんな日が来る。
今日、産まれた北都くんがお父さんになる日。
時が経つにつれ薄れゆくこの感動を、その日、改めて思い出すことだろう。
今日は記念日。
北都くんが産まれた日。
芹香さんがママになった日。
ボクがパパになった日。
そして、ボクたちと北都くんが出会った日。
そんな、たくさんの記念日。
<終わり>