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  1■小学生のリンダ


 大っ嫌いなあの人と離れたのが小学校に入る前。入学式で呼ばれた名前の苗字が、母のじーちゃんばーちゃんと同じものに変わった理由なんてよく分からず、しばらく慣れなかったのを覚えている。自分が呼ばれているにも関わらず、気付かずに返事をしなかったのもしばしば。

 その頃の俺は、林田孝幸(はやしだ たかゆき)という名前だった。
 慣れてきた頃には林は音読みで「リン」と読むことが国語の授業中に発覚し、あだ名はおのずと「リンダ」になっていた。
 身長はクラスでも後ろの方。顔は母さん似ではないと思うが悪い方ではない。クラスの女子曰く黙っていればの俗にいう残念な部類に入る、ごく普通の男子である。(自己評価)

 兄弟もいなくて、現在は母と二人で2DKのアパート暮らし。母が何の仕事をしてるか知らないし、特に興味もなかったが、何の不自由もなく、平和で平凡な生活を送っていた。
 学校に行って、友達と話して、授業を受けて、放課後は共働きの友達の家に寄り道してゲームして帰ると、たまに母さんの帰宅が早くて、「一度家に帰ってから遊びに行きなさい!」と怒られる。宿題をやってから遊びに行けとは言われない。それが母なりの教育か、言われなくてもちゃんとやる俺がおりこうさんだと分かっているからか……聞いたことはないから正解は知らない。


  □□□


 小学四年生になると、スポーツ少年団や塾、習いごとをする子が増えてきて、友達と遊ぶのも週に一、二度あればいいぐらい。どこにも属さない俺は暇を持て余した。別にスポ少に入りたい訳でもないし、興味がある習いごともない、学校以外で宿題以外の勉強を予習復習するつもりもない。
 とにかく学校が終わると退屈でつまらない毎日だった。
 いや待てよ。これまで同じクラスになったことないヤツの中にもしかしたらヒマしてる人がいるかもしれない。
 ただの遊び相手探しで、初めて同じクラスになったアイツの存在を知った。

 背は低いのにプリプリに太った、色白でいつも暗い表情をしている、顔色が悪そうな男子。
 鎌井直紀(かまい なおき)。
 クラスのヤツの話によれば、親が県議員か国会議員で、城のようなでっかい豪邸に住んでる坊ちゃんらしい。
 幼稚園もお金持ちが行くような所に行ってたとかで、小学校に入って一緒になったものの、同じクラスになったことあるヤツでさえよく分からないようだ。が、

「小学校の受験、失敗してるんだって。うちの母さんが言ってた」

 ということを聞いた。
 なるほど、だから金持ちの坊ちゃんが普通の市立小学校にいるのか。
 ――興味が湧いた。
 テストの点はいいのに発表はしない。
 休み時間になっても一人。
 昼休みは図書室で読書。
 放課後はさっさと下校。
 グループ活動になるとひとりぼっち。見かねた先生がどこかの班にねじ込むものの、全く溶け込めない、溶け込むつもりもない。
 声ひとつ発さず、いつも下を向いている……。

 ――いつかの自分と重なった。

 あの人に怯えて、誰かと目を合わせることさえ怖かった幼い頃の自分。ケンカする声に耳を塞いで、部屋の隅でうずくまっていた。

 ――殴られてもないのに背中にズキリと痛みが蘇る。

 助けてほしいのに、誰も助けてくれなくて、母さんは必至に俺を庇って、守ってくれたけど、ただただあの人が恐ろしく、『いなくなってほしい』と、すごく願っていた。
 結局は耐えられなくなった母さんと俺があの家から出て……あのアパートからいなくなったのは俺たちだった。その後のあの人のことは知らない。
 と、こうして平和を取り戻したわけだが、アイツのは深そうだな。
 根拠はない。思い込みかもしれない。


 放課後、さっさとランドセルを背負って帰ろうとする鎌井を追って、肩に手を掛けたところ……一瞬で世界がひっくり返って背中を強打していた。ここ廊下。

「……ごめん、なさい」

 身体は太いくせにか細く高い声で上から言ってるけど、視線は合わなかった。

「ああ……何で俺、ひっくり返されてんの?」
「あの、反射的に……柔道やってて、護身」

 後ろから肩ポンしただけで投げられたのか。

「頭、打ってない?」
「大丈夫、先に背中打った」

 廊下は固いからかなり痛かったけど、辺りがざわつき始め、騒ぎに気付いた担任が教室から出てきてこちらに駆け寄ってきた。

「どうした……林田、鎌井?」
「すみません、投げました」
「話があって呼び止めようとしただけで、ちょっとした事故です」

 そう、事故だ。
 指先が肩に触れる前に声を掛けるべきだった。
 それならいいんだが、と先生は周りの子供に帰るよう促すと、教室の方へ戻り、俺と鎌井を囲む人ごみは散り階段へと向かう流れになった。

「話ってなに? 早く帰らないと、家庭教師が来るんだ」
「ああ、うん……」

 早くと言われると、どう切り出せばいいか分からない。ただ直感で思ったことを言うのもどうかと考えたが、のんびり言葉を選んでる余裕なんてなさそうだ。ならば直球勝負。

「お前、家で何かないか?」

 意味不明だ。
 家での自分の立場とか……少々踏み込んだ質問のつもりでそう聞いたが、あれだけでそこまで汲み取ってくれて話してくれるかどうかは分からない。
 が、合わない視線は落ち着きなく泳いでいた。

「な、何でそんなこと聞くの?」

 動揺が隠せてない震えた声音。それだけで俺は勝手に確信していた。
 コイツ、家に何かある! そういう性格とか態度の理由。

「今度遊びに行っていいか?」
「え!? 無理だよそんなの!」
「じゃ、俺んちに遊びに来い!」

 鎌井はぽかんとしていたが俺の目を見ていた。が、すぐに逸らした。

「分からないよ、そんなの……勉強しないといけないし……」

 本気で困られて、俺もこれ以上押すのは無理だと思った。
 まぁ、遊びに来なくても話そうと思えば昼休みだっていいんだし。

「そうだな、うん、突然悪かったな!」

 鎌井が余計なことを気にしないよう明るく言うと、鎌井はごめんね、と小さな声で言った。頷く程度に頭を下げ、階段へと駆けて行ったが、少し笑ってるような気がした。

「鎌井と何話してたの?」

 机にほったらかしのランドセルを取りに教室へ戻ると、席の近い友達が寄ってきた。

「ああ、別に」
「飛んだだろ、リンダ!」
「すごかったぞあれ、宙舞ってた」
「飛んだという感覚より背中強打したって感じ」

 あの場面を見ていたらしいクラスメイトの男子数名からやたらつつかれた。
 普段は誰も鎌井のことなんて構いはしないくせに、俺が話しかけたことは気にはなるんだな。


 帰宅後、ふと鎌井が帰り際に笑っているように見えたことを思い出す。
 ……はっ! もしかしたら、うまいことブン投げてやったぜヨッシャー! とか思ってたんじゃないだろうな?
 なんて考えたら、急にあのデブが憎々しく思えてくる。
 あの肉々しいチビが、憎々しい!!

 なんて思ったのも一瞬ではあるが。
 自分の勝手な思い込みで人を憎んではならない。


  □□□


 ――詰めてやる、詰めてやる!

 授業の間の休み時間、いつか遊べなる日はないかと聞いてみたところ、困った顔をして教科書で顔を隠された。返事がない、ただのシカトのようだ。

 ――ジリジリと詰め寄ってやる!

 昼休み、今日はドッジボールをやると誘われていたのをわざわざ我慢して、鎌井をつけて図書室へ。
 『図書室では静かに!』というポスターがあったので話しづらい。
 だから本棚の前で立っているときに後ろを通り過ぎるフリをして、その見事な腹を揉んでやると……真っ赤な顔をして睨んできた。
 そういえば身体測定のときチラッと見たが……コイツ、胸もあったな。
 一度離れてからこっそり近付き、後ろから胸を……おお!!!

 未体験ゾーン突入。
 振り向く鎌井はまるでホトケのような面。
 しかし胸に添えられた俺の手を、へし折るつもりで握りつぶしてくる。

「ちょっと、いいですか、林田くん」

 図書室なだけに小さいけど、かなりお怒りな声音。
 移動する鎌井の後ろを素直について歩き退室。

「何がしたいの、キミは!」

 廊下に出て図書室から少し離れたところで振り向いてきた鎌井は、顔を真っ赤にして怒鳴りつけてきた。

「お前と話したいだけ」
「嫌がらせされてるとしか思わないよ!」
「そうか、すまん……でも、勃起した」

 鎌井は更に顔を真っ赤にして、拳を握った。さすがに殴られるな。

「バッカじゃないの! 死んじゃえ!!」

 と怒鳴っただけで、ドスドスと廊下を踏み鳴らしながら教室の方へ帰っていった。
 そんなにドスドスやったら学校、壊れる。


 手が感触を忘れないうちに、

「ちょっと胸触らせてくれ!」

 クラスで一番成長のいい女子に直談判。しかし当然……、

「エロリンダ、死んじゃえ!」

 と引っ叩かれた。
 まぁ、当然の反応。


  □□□


 体育の授業前、もたもた着替えるおデブ……いや鎌井がいつも身につけてる綿100%そうな純白の肌着をそっと背後に回ってめくってみた。
 真っ白でマシュマロのような肌が出てきたのでギョッとしつつも一安心。
 ――よかった、殴られたような痕はない。
 そんな安心はよそに、鎌井はプルプルと震えはじめる。体操服のズボンに乗っかる脂肪も揺れている。
 今日のおやつはちょいと遠いが江山商店でチョコマシュマロ買おう。

「だからなんなのもう、キミは!!」

 今まで聞いたことないほど大きな声を発する鎌井に驚くクラスメイトがこちらに注目。

「リンダ何やってんだよ」
「うわ、スゲー」

 いたるところで声が上がるが鎌井は俺の手を払い、着衣を整える。

「ごめん、そういうつもりは……」
「もう、僕に構わないでよ」

 その態度、声音から感じたのは、『拒絶』だった。


 それでもしつこく、幾度も鎌井には絡んでみたが……結局、アイツから話してくれることはなく、どうにもならないまま四年生は終わり、五年で鎌井とはクラスが離れた。


  □□□


 新しいクラスにも慣れてきた頃、ゴールデンウィークという休日ラッシュでせっかく整ってきた生活時間をぐっちゃぐっちゃにされる。まぁ、休みが嫌いなわけではなく、むしろ大歓迎。だけどありすぎると後が面倒なんだ。
 そんな心配はよそに、母が少しこわばった顔で俺の前に正座した。

「孝幸、突然なんだけど……会って欲しい人がいるんだ」

 あれ、見たことあるぞ、こういう展開。家庭環境が複雑なマンガとかドラマで。でもこの母に限って、まさか。と勝手に決めつけてもいた。
 俺が小学校入る前から仕事してたから保育園だったし、まぁいつからどういう仕事してるかは詳しく知らないけど、出会いなんて……結婚考えてる相手なんかいるわけがない! いつも普通に帰ってくるし、ダントツ遅くなるとか一度もない。休みの日、まれに一人でふらっと買い物とかはあった。俺ももう連れて歩かないといけない年齢じゃないし、留守番ぐらいできるんだからわざわざついていこうとも思わなかったし。

「会社の人なんだけど……」

 冗談だろ?
 そういう前触れさえなかったから、ただただ目がテンになるだけ。
 親が再婚して、新しく産まれる血が半分しか繋がらない弟か妹ばかり可愛がられて孤独な俺は、お父さんになる人に影でいじめられて……俺はそういう星の元に生まれたのか。これが逆らえない運命か!
 希望のない絶望の未来を勝手に思い描いていると、別の設定が追加される。

「相手の方も子供がいて、孝幸よりひとつ下の女の子なの」
「もう会ってるような口ぶりだな」
「うん……何回か」

 俺だけ蚊帳の外かよ!
 俺だけ今初めて知ったのかよ!
 まぁウチの母はいつもこんな感じだ。『起』『承』『転』ぶっ飛ばしていきなり『結』で来る。

「会ってみて、ダメならダメでもいいの」
「死ぬ気で説得するつもりだろ」
「まぁ、説得するけど……ダメだったら無理に一緒にはならないから……」

 そういう話になってるから俺に話したんだろ。本当は再婚したいに決まってる。

「分かった、会うだけ会ってやる」
「よーし、決まりっ。じゃぁ明日、9時に河川公園でお散歩よ! 早速電話しなきゃー」

 そこまで決まってたのかよ! もう、はめられた感しかねぇ。
 『序』も『破』もない、『急』だ。


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2014.03.20 UP
2015.11.19 改稿
2016.01.29 改稿