■CAMPUS LIFE S■


  【2】


 真部寿という人は、平穏でいつも楽しそうな日々を過ごしているように見えていた。
 そんな彼でも、一度だけ意外な一面を見せたことがある。
 その年の夏――部室に入ろうとした時、室内からものすごい怒鳴り声と物音が聞こえ、慌てて飛び込んで見たものは……私自身も信じられない光景だった。

「――っまえのせいで、祐紀がどれだけ傷ついたと思う! 責任とれよ! 今までのアイツを返せよ!」
 どういう理由で真部と梶原くんがケンカをしているのか、よく分からなかった。
 とにかく、二人を止めようと、真部を必死に抑えようとしている領家さんを手伝おうと思ったけど、彼女にキツく睨みつけられたので私は体を引いた。
 領家さん――真部の彼女――の目は、年上であるはずの私でも怖いと感じた。
 ――誰であっても、どんな理由があっても、真部には触れさせない、という感じのもの。
 いや、彼は絶対に渡さない、の方かもしれない。
 女の勘は鋭いって言うし、もしかしたら気付いているのかもしれない。
 そんなことから、できるだけ真部には近づかないようにしようと思った。彼女がいる時は特に。

「紗枝ちゃん、結局、何があったの?」
 真部と梶原くんのケンカ騒動が終わった頃に現れた有福センパイ。
 私にも原因がわからないので、
「真部と梶原くんがケンカして……確か、ユウキがなんとか、責任がなんとかって……」
 としか答えられなかった。ケンカしてた二人と領家さんから話を聞けるような状態でもなかったし。
「ユウキって……紗枝ちゃん?」
「違いますよ。たぶん……真部の妹さんだと思います」
「へぇ……。梶原くんが妹さんに何かやっちゃったかな?」
 ああ、そういう考え方もできるわね。さすがセンパイ。それで真部があれだけ怒っていたと……。
 人をそこまで怒らせるってことは、相当なことをしちゃったのね。
「あ、しまった。レポート提出し忘れてる。よかったら夕食ついでに話を聞かせてもらえるかな?」
 話と言われても、自分が見たことはもう全部話してしまったのに……。
「いや……」
「もちろん、誘った僕のおごりで」
 出た、センパイスマイル。イヤミのない爽やかな笑顔。
「は、はぁ……」
 これを断れる人がいるのなら見てみたい。
「じゃ、できるだけ早く戻るから、部室で待ってて」
 ズルい人だ。卑怯とも言えるかな、ホントに。
 まぁ、夕食をおごってくれるのなら……。


「で、何で居酒屋なんですか!」
「なかなか鋭い質問だね」
 どこが鋭いのよ。ごく普通に疑問に思うでしょ? 夕食に誘われて来てみたら居酒屋だなんて。
「まぁ、アレだ。飲ませて、酔わせて、持ち帰りコース」
「そういうのは思うだけで口に出さないでください!!」
「おや、思うだけならいいのかい? だったらフルコースでその先まで……」
「いや、考えるのも不可です!」
 何を考えてるんだ、この人は。
「釣れないなぁ、紗枝ちゃんは」
「餌がうさんくさいからですよ」
「うさんくさい……かい? そうかなぁ……」
 といって、服を匂いはじめた。いや、別に臭いわけじゃないんだけど。
「そうじゃなくて……」
「僕はいつも真剣なんだけどね?」
「見えないじゃないですか」
「……少し、黙っておいた方がいいってこと?」
「そうですね。思ったこと全部口にされても、場合によっては引きますよ」
 悪い人ではないんだけど……口にする言葉が冗談だろうと何だろうと、いつも本気だから、時と場合によっては対応に困るのよ。
 今のだって、本気なのか、冗談なのか、さっぱり分からない。
「紗枝ちゃんは何を飲む? カクテル?」
「いえ、ビールで結構です」
「……前から思ってたけど、見た目ではカクテルとか好みそうなんだけどね」
「そうですか?」
 まぁ、大学に入った当時はどうもビールの味が嫌いでチュウハイとかカクテルばかり飲んでたけど……ビールも慣れればおいしいのよね。
 だから今はずっとビールだし。
 いや、ちょっと待ってよ。
 確か、夕飯に誘われたわよね、私。
「あの、夕飯に誘ってくれたんじゃなかったんですか?」
「そうだよ。とりあえず、食前酒」
 ……そんなつもりは全くないな。持ち帰りは本気かもしれない。
「ここは高級レストランじゃないんですから、食前酒は関係ないと思います」
「ホントに夕飯食べる気で来たんだね。残念ながら、ここには定食もコース料理もないんだ」
「分かってますよ、居酒屋ですもの。どう見ても!」
 ここでセンパイは顔を背けてクスクスと笑い始めた。
「な、何ですか!」
「いやね……ホントに、紗枝ちゃんといると楽しいな、と思って」
 楽しい――確かに、私もセンパイと一緒にいたら、楽しいですよ。突っ込まずにはいられない、とも言うけど。
 こういうのは、自分もはっきり言っておかないといけないところね。
「私も楽しいです。センパイの突拍子もないセリフが」
「せ、セリフだけ?」
「はい。突っ込まないと気がすまなくって……」
「僕は……紗枝ちゃんが好きだから、一緒にいられるだけでも十分幸せだけどね」
 え? 今、さらっと何を言いましたか?
 表情は普段会話する時と変わらない。だから尚更分からなくなる。
 ――今のは本気? それとも冗談?
「じゃ、とりあえずビールと……。食べたいものがあったら、遠慮なくたのんでいいから」
「……はぁ」
「足りなくなった場合は、紗枝ちゃんの体で払ってもらうけど……」
 メニューを見ながら言うセリフか!!
 なぜ私が体で払わねばならん!

 居酒屋のメニューと言えば、やはり酒のつまみになるものばかり。
 定番の若鶏のから揚げ、さしみの盛り合わせ、焼き鳥などの串盛り合わせぐらいしか注文するものはない。
 何と言っても、飲み物がビールであり、居酒屋だから。
 何度メニューを見ても、丼もの、焼肉、鍋ものは個人的に論外。
 デザートにしても、ビールでだくだくに満たした胃に入れるには抵抗がある。
 あら? ここの居酒屋、ユッケがあるじゃない。
 脂っこいものばかり注文して食べたから、あっさりしてていいわね。
「センパイ、ユッケ注文していいですか?」

 ピリ辛のタレが食欲をそそる、ここでは牛の生肉。やっぱり、馬より牛ね。
 私の場合は卵ナシでおいしくいただきます。
 でも……大皿の真ん中に盛ってあるレタスとかいわれに乗っかるようにちょっとだけ添えてあるような盛り付けを見ると、がっかりするわね。


 結局、真部と梶原くんのことは何も聞かれず、居酒屋での夕飯を終えた。
「ごちそうさまでした」
「じゃ、これからどうする? カラオケ? それとも、僕の部屋で一夜を過ごす?」
 どっちも密室じゃない!
「いえ、帰ります。遅くなるなんて家に連絡してませんし」
「そう……残念だな。それにしても、紗枝ちゃん、全然酔ってないね?」
「度重なるサークルの飲み会のせいで、ずいぶん強くなりましたよ。そういうセンパイだって、いつも普通じゃないですか」
「……いや、これでも目が回ってて、普通に振舞うのに必死なんだけど……」
 センパイらしくない弱々しい笑顔を浮かべる。
 そうだったの? 全然気付かなかった。
「大丈夫ですか?」
「うん……残念ながら紗枝ちゃんを自宅まで送れそうにないかな」
 そこまで考えて誘ったの? さすがとしか言いようがない。
 センパイは足元をふらつかせ、立っているのもおぼつかなくなってきた。
 これじゃ逆にセンパイを一人で帰らせる方が危ないじゃないの!
「ホントに大丈夫ですか? 足元があぶな――」
 よろけたセンパイに思わず駆け寄る。抱きつかれる格好になるのは当然といえば当然。
「ごめん、紗枝ちゃん……」
 ものすごい近くで、耳元で低く弱々しく囁かれ、一瞬ドキリとした。

 センパイが住むアパートは居酒屋から徒歩で十分程のところらしい。
 それって……本気で私を連れ込む気満々だったんじゃないかと今更ながら思う。
 センパイのおぼつかない足取りではアパートまで二十分以上掛かってしまい、ヒールの高い靴を履いていた私はセンパイに肩を貸していたこともあり、通常の倍以上疲れていた。
 部屋の鍵を開け、玄関に入ってすぐに何かを踏んでしまい、体はバランスを失った。
 ドアが閉まる。
 倒れた時にはどこもぶつけなかったけど、足を少しひねったかもしれない。
 センパイは?
 私の下に人がいる。どうやら私はセンパイの上に倒れてしまったらしい。
「センパイ、大丈夫ですか?」
 起き上がろうと思ったら、背中に腕を回されて、慌てる私。
「ちょっと、あの……っひゃ!」
 ゴトンと音を立て、体勢をひっくり返された。
 マズい! これは絶対にヤバい! 逃げられない!
「紗枝ちゃん……」
 センパイの指が私の頬をなぞるように触れる。
 顔を背けてもセンパイからは逃れられない。
 ただ、身を硬くして何も起こらないことを願うだけ。
「……そんなに、真部くんの方がいいかい?」
 気付いてた!?
 私はその問いに答えなかった。認めてしまったら、自分でも抑えている気持ちがどうにもならなくなりそうな気がして怖かった。
「歓迎会の時、僕がどんな気持ちで紗枝ちゃんと真部くんのキスを見ていたと思う? あの時――一瞬でも気を許してしまったキミを見て、どれだけ辛かったと思う? あれからどんどん真部くんに惹かれていくキミをどうすることもできなくて……今まで通りに振舞うのも、辛いんだよ」
 センパイの想いが重くのしかかってきた。
 全然、気付かなかった私のせいみたいじゃない……。
 センパイは一度もそんなこと言わなかったじゃない。
 私が……気付かなかっただけ? 冗談だと思って気にも留めなかったから?
「紗枝ちゃん、一度だけキスしよう。それでも真部くんがいいというのなら、僕はキミを諦める。もし、気持ちが僕に向いたら……必ずキミを幸せにするから……。
 一度だけ、一瞬でもいいから、僕を受け入れて――」

 私は、体の力を抜いて、背けた顔をセンパイに向けた。

 何度も唇を重ねられた。
 センパイの背に私も腕を回した。
 だけど……途中から急に涙が溢れはじめた。
 心のどこかで、センパイを受け入れていなかった。
 ――拒絶。
 とても付き合いやすい人だけど、そういう対象には見れない。

 私を抱きしめ、頭を撫でながらセンパイが言った。
「……ごめんね、紗枝ちゃん……」
 センパイは、気付いていた。


 靴を手に持ち、痛む足をかばいながら裸足のまま歩いて家に帰った。
 考えていたことは……真部のこと。あの日のキスのこと。
 そして、センパイには申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。




 その後も有福センパイは今まで通りに接してくれた。
 センパイの変わらない態度に少しは救われたけど……何度か交際を申し込まれることもあった。
 それも結局全て断り……センパイは卒業の日を迎えた。
 センパイが最後に言った言葉は――
「僕はいつまでも待ってるから。もし、紗枝ちゃんの想いが少しでも僕に向いたときは、いつでもおいで」
 ホントに……最後の最後までわかんない人だった。




 大学在学中に真部を忘れることはできず、やり場のない想いを押し殺していた。
 言い寄ってくる男もたくさんいたけど、なぜか向こうからさっさと去っていく。友人が聞いた話によると、私の性格がキツすぎるとかなんとか。失礼な輩だ。
 だけど、去る者ばかりではない。私という人間を理解し、留まる者もいる。
 サークルの仲間たち、今はもういないけど浅岡くん。有福センパイ……それから真部。
 ……真部……寿。
 彼の名前や顔をふとしたきっかけで思い出すと、脳内は彼のことでイッパイになる。それは他のことが何も考えられなくなるほど、重症域に入っていた。
 就職活動にもなかなか身が入らず、気持ちばかり焦っていた。

 就職が決まったとしても無事に卒業できるか――卒業したくない。
 卒業して、就職したら、いい人に出会えるかもしれない――彼以外、いらない。

 そして、何とか就職先も決まり、あとは卒業を待つだけとなってしまった、二十二歳の冬。
 真部は相変わらず彼女と付き合っていて、想いを伝えることもできないまま――卒業を迎えることになった。

 きっと会社で素敵な人と巡り会って、結婚して、家庭を持って……自然と忘れていくんだわ。浅岡くんの時みたいに……真部も。
 そうなるんだと思っていた。

 けど……実際は――。




 大学卒業、就職を機に1DKの部屋で一人暮らしを始めた。
 朝食はトーストとコーヒーが限界。昼食は社内の社員食堂を主に利用して、夕飯は、この生活に慣れるまでの間や、疲れて作る気がない時はコンビニ弁当という色気のない高カロリーな食事。
 それから、掃除、洗濯。
 予想をはるかに上回る忙しさに、慣れるまで大変で、このとき初めて母のありがたみを感じた。


 転機が訪れたと思ったのは、入社から三ヶ月ぐらい経ち、仕事にも慣れてきた時だった。

「結城さん、今日空いてますか?」
 同じ会社のどこかの部署の人。受け付けに居る私とは毎朝顔を合わせ、挨拶をする程度だったけど、今日は違い、
「ヒマですけど……」
「夕食、ご一緒にいかがですか?」
 誘われた。
 まだまだ私も捨てたもんじゃないわ。チャンスはいくらでもあるのよ!
「ええ、喜んで」
 私はいつもの営業スマイルで彼に返事をした。

 店は知っていたけど、イメージの関係で入ることができなかった高級なレストランに招待されていた。さすが社会人と言ったところか。有福センパイみたいに居酒屋だったら失笑するところだったわ。
 それに、大学生は『まだ子供っぽい大人』程度で、今日誘ってくれた人は『大人の男性』と呼べるものだった。
「すみません、名乗るのが遅れました……」
「御園生さん……ですよね?」
「あれ? 何で知ってるんですか?」
 スーツの内ポケットから名刺でも出そうとしたみたいだけど、意外にも私が名前を知っていたので、その手が止まった。
「だって、社内ではネームカードを首からさげてるじゃないですか」
 肩をすくめてそんなことを言っている私。
 ……あれ? 私も大人になったのかしら? 仕草や喋り方が大学時代と比べておとなしくなったような……。
「あ、そうですね」
「私だって、御園生さんに名前を名乗った覚えはないですもの」
 話しかけられたのだって、今日が始めてで、挨拶以外したこともなかった。
 それなのに互いの名前を知っている。それがおかしくて、二人して笑った。
「じゃ、改めて……御園生巧(みそのう たくみ)です」
「結城紗枝です」

 それから週一回ぐらいの割合で食事に誘われたり、休日にデートらしきことをする機会はあったけど、それ以上に発展することはなかった。
 ただの友達止まり。
 そして、特にすることがなくなると、決まって真部のことを思い出していた。




 ――就職して一年過ぎた頃から、なぜか両親――特に母が私の結婚について気にし始めていた。
「早い子はとことん早くて、遅い子はとことん遅く、行き遅れたら負け組みって言われる時代なのよ? 紗枝もそろそろ結婚を考えている男性の一人や二人ぐらいいるんでしょ?」
 一人や二人って、どういうことよ。
「いないわよ、そんな人……。それに、今の仕事にも慣れて、ようやく落ち着いたっていうのに、冗談じゃないわ。
 まだ、結婚なんてする気はないからね」

 その時は断ったはずなのに、一人慌てる母が起こした行動はとんでもないことになっていた。

「お見合い? しないって、そんなの!」
「相手の方、とてもいい人よ? もう、出世街道まっしぐらって感じで……」
 そんなこと聞いてない。
「だから、何と言われようと、お見合いはしません!」
 と言ったのに、話は更に先へと進んでいく。

「いいじゃない。彼氏、いないんでしょ?」
「うっ……」
 ――図星だ。
 この頃もまだ御園生さんとの関係は続行中だったけど、そういうのとは違うから、勝手に巻き込む訳にもいかない。
「来月の第一土曜日、休みを取っておいてね」
 いつの間にか、そんなところまで話が……。


 お見合いなんてしたくない。
 そこまでして結婚することに意味があるの?
 1DKの部屋に帰って、ベッドに伏せていた。
 同じ結婚するのなら、見知らぬ誰かより、まだ御園生さんや有福センパイ、真部の方が……。
 ……真部?

 その時は何も考えてなかった。ただ必死にボストンバッグの中へ着替えや服などを詰めていた。
 大学は今、夏休みの最中。そして明日は土曜で仕事も休み。
 真部が住んでるアパートに行ってみよう。どんな結果になってもいいから、ちゃんと終わらせよう。
 そうでもしないと、いつまで経っても真部を忘れられない。
 一歩が踏み出せない。


 朝九時半――私は真部のアパート向かうため、部屋を後にした。

 十時、到着。
 果たして彼はまだこの部屋に住んでいるのか……。
 恐る恐るチャイムを押した。

 ――ピンポーン

 ――ピンポーン

 出てこない。

 ――ピンポーン、ピンポーン、ピポピポピポピポーン

 ――ドンドンドンドン

 チャイムを連打したあげく、ドアを叩きまくっていた。
「やっかましぃわ! 誰だ、こんな朝早くから訪ねてくるバカは!」
 紛れもなくそれは真部の声。
 懐かしくて、険しくなりかけていた表情が一気に緩んだ。
 出てきた彼は、ものすごく機嫌が悪そうだったけど、私のことを思い出し、怯えた表情を見せた。
 飾らない――念入りな髪のセットをしていない真部を見たのは、この時が初めてだった。

 そして、忘れかけていたやりとり。
 何もかもがホントに懐かしかった。

「もしかして、もしかしなくても、彼女来るよね……。やっぱ、マズいか」
 すっかりそんなことを忘れて来てしまった。
 私はあの子、苦手なのよね……。
「いや、彼女はいないけど……」
 いない? 別れたってこと?
「……いないの? だったら問題ないわね」
「あの、ちょっと……」

 大学時代と変わらない強引な口調の私。
 これが本来の私なのかしら?
 だったら、真部の前なら、私は私らしくいられるのね。


 ――一日目。
 真部は私が好きな飲み物を知っていた。
 彼は私が思っていた以上に、よく覚えていてくれた。
 それが、何より嬉しかった。
 酔ったふりして……彼の側で寄り添うようにして眠った。


 ――二日目。
 早くから起き出していた真部。
 昨夜の件に対し、とぼけることからこの朝はスタートした。
 朝食を作っている最中に真部は眠ってしまい、そのまま夕方まで目を覚まさなかった。
 昨日の朝、寝ているところを起こしてしまったし、夜も眠れなかったのね。
 予想以上にかわいい寝顔を時間も忘れて見つめていた。
 頬に触れると、くすぐったそうに体をよじった。
 死ぬまでこの人の寝顔を見ていられたら、どれだけ幸せなのかしら。
 思っていたより柔らかい髪をそっと撫で、眠る真部の頬に優しく唇をおとした。
 想いは、一層強くなり始めていた。
 その日の夜、真部の様子が一段とおかしくなり、大量にビールを飲んでいた。


 ――三日目。
 月曜日なので仕事。
 大学生は夏休みの真っ最中。羨ましい。
 私は朝食を作り、出勤準備を終えてからテーブルに伏せて寝ている真部を起こした――が、ベッドに移動してまた寝る体勢。
 何とか口にしたことは、タンスの引き出しにある鍵を持っていけ、ということだけ。
 どうも鍵を締める元気もないらしい。
 これって……やっぱり私が来たせい?
 仕事中も、真部のことを心配していた。

「結城さん、この前言ってたレストランの予約、取れましたよ」
 御園生さんが笑顔で駆け寄ってくる。仕事中だということも忘れて。
「え! ホントですか?」
 行きたくはなかった。だけど、かなり有名で予約もなかなか取れないようなレストランにせっかく行けるチャンス。ここで断ったら御園生さんに申し訳ない。
「楽しみだわ〜」
 営業スマイルを御園生さんに向けていた。
 真部は……もう子供じゃないんだし、少しぐらい大丈夫よね?
 それに……少しは離れていないと、私までおかしくなっちゃうわ。

 御園生さんとの食事を終えて帰った頃には午後十時を過ぎていた。
 まるで母親の帰りを待つ子供のような不安げな表情で、真部は私を見つめた。
 ……何かあったのかしら?
 思ったこととは関係ないことを聞いてみたけど、その反応もいまいち元気がない。
 失恋したとか言ってたけど……一体どういうことなんだろう?
 その日は寝る間際まで、真部は元気がなかった。
 私は明日、1DKの部屋へ戻る。
 だけど、こんな状態の真部を置いて去るのは、とても不安であり、留まりたくてたまらなかった。
 私は……ここに来てはいけなかったのではないか、そんな風に思うようにもなっていた。


 ――四日目の朝。
 朝食を作り、真部を起こす。
 大好きな人とたった数日の同棲生活もこれで最後。
 結局、想いは伝えられないまま、私は彼の部屋を去る。
 鍵を返して、さよならと言って部屋を出たら終わる。
 笑顔で部屋を出た。本当に笑顔だったかは不安だけど、扉を閉めた途端、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 唯一、ありのままの私でいられる人との数日間は、私の一生分の価値になる。
 気を許せて、心から愛せる人は真部以外にいなくて、この先一生現れないとは思うけど……。
 この思い出があれば、私は生きていけるわ。


 真部とは別の道を私は歩んでいく。
 人それぞれだもの。仕方ないわ。


 午後七時。仕事を終えて帰ろうとした時、会社の前に真部がいたのは正直驚いた。
 しかも、急に抱きつかれるなんて、誰が予想した!
 会社近くの公園で話を聞いて、更に驚かされることになる。
「……俺の心に、貴女の存在が焼き付いて、離れないんです」
 私は、どうやら忘れ物をしてしまったらしい。
「紗枝さんと一緒に居たいんです。それを言いに来ました」
 ホントに、嬉しすぎて涙が出るかと思った。
 私もようやく正直に想いを伝えられた。
 好きになって……ずいぶん経ってしまったけど、想いはあの頃より大きく、強くなってるのよ?




 お見合いのこともちゃんと話し、母を説得して何とか断るために真部――寿を連れて実家へ行った。
「いいですか、お母さん。よくごらんなさい。私の隣にいる方は、現在私がおつきあいしております、真部寿。大学の後輩で、同じサークルだった二歳年下の後輩です」
 後輩というのが二回入ったのは気にしないこと。私だって緊張してるんだから。まさか親に紹介することになるなんて……なるなんて……。
「……あら、まぁ!」
 さすがの母も少しは驚いたようだ。
「え? マジで!! 姉貴が年下の彼氏なんてアリエネー!」
 うるさい、弟よ!
「私はこの人以外に結婚は考えてないから、そーのーつーもーりーで、お見合いは断ってください!」
「え!? 結婚、考えてたんすか?」
 私は寿の後頭部を思いっきり殴った。
「アンタは何を考えて告りに来たのよ! 一緒に居たいに結婚は含まれないの!?」
「ご、ごめんなさい。そこまで考えてるって気付かなかったから、まだ先の話だと思ってて……油断しました」
 痛む後頭部を押さえながら、必死に私の機嫌取り。
 なんてかわいいのかしら。




 ただの片思いから始まって、想いが成就して、結婚して三人の子供を授かって……。
 口に出しては言わないけど、とても幸せよ、私。
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