009・リンダ 小さな夜の曲 <2>


 年が明け、病院に行ったカノン。
「三ヶ月に入ったんだってー」
 お腹を撫でながら、やたらとはしゃいでる。
「でも――」
 なぜか急に悲しそうな表情。
「どうした? 何か問題でもあったのか?」
「……うん。内診とか何とかで……脚を広げなきゃならなかったし、指を入れられたあげく、超音波の機械を――」
 両手で顔を覆い、震えながらそんなことを言い出す。

 ――な、なんだと?
 俺のカノンになんてことをしやがるんだ! 俺以外を知らない、俺だけのカノンに!!
 許さん! 許さんぞ、産婦人科医! 医療行為だと分かってても許さん!
 ヨコシマな思いから産婦人科医になったのなら、なおさら許さん!
 とてもいいアングルでヒワイな姿が見られるなんて、なんてお得な――ゴホン。

「女の先生だからまだ良かったけど……」
 ……なんだ。女の先生か。
 先ほどまでは男の医者で想像してたが、巻き戻して女医に置き換えると……コレもまたエロいな。


 その数日後――。
「母子手帳交付してもらったのー」
 ……俺の名前、書いてもらえてない。


 そのまた数日後、実家から速達で届いた手紙の中に戸籍謄本の写しが二通――俺のとカノンのものが同封されていた。メモには婚姻届と一緒に二人の戸籍謄本を提出するよう書いてあった。本籍地ではない地に住んでいるから必要なんだとさ。面倒な国だ。

 その日のうちに市役所へ駆け込み、必要な手続きを終え――会社に提出する書類として家族住民票を一部、お買い上げ。
 家族……俺とカノン、二人だけ。俺の苗字は再び『藤宮』に戻り、カノンの続柄には『妻』とある。
 ああ、いかん。これだけでも鼻血が出そう。




 ――四月。
 無事、四年生にはなったものの、カノンのお腹は目立つほど成長していた。

 鎌井は新人教育とか何とかで全寮制の消防学校へ入り、ヒマを持て余しているであろう真部……じゃないや、卒業式の日に婚姻届を出したって言ってたから、鎌井嫁。カノンに何かあった時の保険として、ヒマな時は様子を見てやってくれ、と頼んでみた。
 ここで唯一頼れる人だし。
 真部――もう面倒だからこれでいいか――も快くオッケーしてくれた。


 ――七月。
 前期を終え、後期から一年、育児休学。


 ――八月。
 恐怖の女王が降臨する。

「まぁ、華音ちゃん。しばらく見ないうちに大きくなったわね」
「二サイズアップしちゃった」
 母の問いに照れながら答えるカノン。
 決して太った訳ではない。仕方ないんだ、こればかりは――。
「お腹の子、どっちか聞いた?」
「男の子か、女の子か? 聞いてないの。だって、楽しみが減るじゃない」
 俺は気になって、気になって……名前が考えられない。
「それからね、この子はクラッシックがスキなんだよ。ある曲を聞かせると、お腹をポコポコ蹴ってくるの」
 ついでに、膝枕してもらってても嫌がらせのごとく蹴られます。
「あら、孝幸いたの?」
 うん。口を開くとケンカになりそうだから、黙ってる。
「……おはよう、母さん」
「もう、夕方よ」
 そのぐらい、分かってる。
 もう一つついでに言えば、俺はこれから夜勤なので、できる限りケンカしたまま仕事に行きたくない。今日は……いや、これからしばらくは早めに家を出たいところだ。

「おみやげもたくさん持ってきたのよー。ほらほら」
「うわー、スゴイ」
 ――ワー。
 ――キャー。

 何だか、会話にも入れないし。
 いくらカノンの前でケンカしたくないからって気を使っても、これじゃ無意味に匹敵どころか、俺が悲しいだけだ。
 ……当初の理由とは別の意味で早く出勤したいところです。

「みてみて、タカ……あれ、どうしたの?」
 おみやげを色々とこちらに見せてくるカノンだが、俺は無意識のうちに視線を落とし、指で床に『の』の字を描いていた。
「あれは典型的なスネている態度ね。そんなに華音ちゃんに相手にされたいのかしら?」
 それもあるけど、もうちょっと話を振ってくれてもいいじゃないか! ケンカに発展しない程度にさぁ。


 ――九月。
 ババァがこっちに来てから、カノンと一緒に寝ることを許されず、ついでに甘えられず、カノン不足でやる気マイナス。
 気付けば臨月と呼ばれる月に突入していた。
 病院での検診が週一回となり、その日はおのずと自転車通勤。
 そんなこんなで三十九週目。予定日の一週間前に予兆が現れた。
 会社から帰るが誰も出迎えてくれないし、返事も返ってこない。
「うえぇぇぇ」
「がんばれ、華音ちゃん! これを乗り越えないとお母さんにはなれないわよ」
 一瞬で脳内が真っ白になった。
 実は、カノン部屋ではものすごいことになってるのではないかと不安になる。
 誰も自宅出産だなんて言ってなかったのに、まさか!!
 慌ててカノンの部屋に飛び込むと、先程のうめき声を発した人とは思えない、けろっとした顔で俺を見るカノンと少し疲れ気味の母。二人の共通点といえば、額に汗を浮かべているというところか。
「あ、あれ?」
「おかえり、タカ」
「おかえり、孝幸」
 別に想像を絶するシーンでもなければ、いつも通りと言えばいつも通り。
「今、うめき声が聞こえたと思ったけど、気のせい?」
「気のせいじゃないわ。陣痛が始まってるんですもの」
 だったら、こんな所にいないでさっさと病院に――!
「びょ、びょ、びょ」
 ダメだ俺! 俺一人だけ焦ってる!!
「きっちり五分間隔になってから病院に来てって言われて……まだ十五分だったり八分だったりってバラバラなんだ」
 あははは、と軽く笑うカノン。
 笑いごとじゃねぇ!

 そのせいで、二日間まともな食事を与えられなかった俺は、精神的にも肉体的にもガタガタ。仕事も手につかなくなっていた。

 三日目の晩になってようやく病院へ入院し、それからさらに半日を過ぎ、二度とカノンに子供を産ませるものか! と決心したり、食事も喉を通らなかったり――双方の疲労がピークに達する寸前。

 ――ひとりの女の子が誕生した瞬間に立ち会うことができた。

 カノンを苦しめたのが少し憎くもあったが、そんな思いは一瞬で癒され、そんなことを思ってしまった自分を恥じた。
 思っていたよりずいぶん小さい。だけど生きようと必死で、懸命に声を上げている。

「お腹、けっこう大きく見えてたから、もっと大きいって思ってたのに、すごく小さいんだね」
 疲れの見える弱々しい笑顔で俺を見上げてくるカノン。
 ……俺はカノンにどう言うべきなんだろう? やっぱり……。

「ありがとう、カノン」

 俺の、俺との子供を産んでくれてありがとう。
 結婚も子供も、本当は諦めていたんだ。あの日までは――。
 そんな俺が、一番好きな子と結婚できたのも、家族ができたのも……。




「うわー、かわいい〜w」
「よかったね、ご主人に似なくて」
「ケンカ売ってんのか、コラ」
 土曜日、鎌井夫妻が病院へお見舞いに来てくれたのだが、鎌井は相変わらずだった。
「祐紀には誘拐癖があるから、さらわれないように気をつけてね」
「なんだそれ」
「祐紀のお兄さんとこの子とウチの兄さんの子で前科二犯だから……」
「うふふふ、プニプニw 持って帰りた〜い」
 !! ホントに持って帰りそうな勢いだ! そのとろけそうな表情といい、赤ちゃんの脇の下に添えた手が!
「……そろそろ養子でもとった方がいいかな、とも思ってるんだけど」
「や、やらんぞ!」
「いらない」
 ムカッ!
「それより、名前はもう決まったの?」
「ま、一応な」
「え、ホント? 昨日はまだって言ってたじゃない。何になったの?」


 カノンの名前がとあるクラッシックの曲名だったと聞いたからかもしれない。
 ずっと、頭に残っている曲名があった。
 その曲名の頭だけを取って、漢字に想いを込めた。
 モーツァルトの名曲、アイネ・クライネ・ナハトムジーク。
 だから、名前は――。


「アイネ。『愛』と言う字にカノンと同じ『音』の字で愛音」
「藤宮愛音……響きもいいね。かわいいし」
 喜ぶカノンに対し、鎌井夫妻は――。
「きっと、俺たちの愛の結晶だから、とか言うに違いない」
「そんでもって、愛の音色を奏でてなんたら、とか言い出して、カノちゃんがうっとりするんだ」
「「間違いない」」
 そんなことをこちらに背を向けひそひそと話しているが、全部聞こえてる。
「……のめすぞ、コラ」


 数日後には退院し、家族三人の暮らしが始まる。

「孝幸、買い物に行ってきて」

 ――違った。しばらくババァがいるんだった。




 数年後、娘が落ち込んでるときに言いたい一言がある。

『愛音、暗いね……』

 お後がよろしいようで。


  <おわり>

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