010・鍋 七転八起
七転八起 <ナナコロビヤオキ>
何度失敗しても、諦めず、その度に『祐紀』――じゃない、『勇気』を出して立ち上がること。
中学時代のアレやコレが原因で男嫌いになり、男らしい自分が生まれた
他の誰かが私のようにならないように……。
自分がこれからも生きていくために……。
裏切られることの辛さを知っているから――女を絶対に裏切らない男になりたい。
長かった髪をばっさりと切り落とすことで、想いを断ち切り、同時に女であることを捨てた。
そうすることで、自分を保てるようになった。
そうしなければ、自分を保てなかった。
生きていくには、こうするしかなかった……。
あまりの豹変に家族はただただ呆然としていたけど。
――あの頃の私は、自分が描く理想の男を演じていただけなのかもしれない……。
大学進学後、サークル選びに失敗した私……いや、当時は『俺』と言っていたな。
逃げるに逃げられず、マッチョにからまれて大ピンチ。
そんな時に現れたのが直だった。
清楚で可憐な一輪の花。
女よりも女らしい、ロングヘアーにクロワッサン……。
とにかく、一言では言い表せない程の美少女に映ったのだ。
直を見た瞬間、何かがビビっと体を走った。
これは運命の出会いだと、激しく思い込み。のちに本当に運命だったのだと気付かされることになる。
当時は直の正体なんて知るはずもなく、想いが通じて舞い上がっていても、心のどこかで拒まれることを恐れていた。
しかし、そんな心配とは違うかたちで、二人の関係は冷めていった。
確かにあの時は騙していた。
――男だと偽っていた。
直もそうだった。
――女だと偽っていた。
互いの過去には、深海よりも深い闇があった……。
――大学一年の十一月。その日は訪れた。
まるで俺たちの心の中みたいに、雨が降っていた。
直の表情は異様なものだった。その奥に隠された悲しみもかき消すように嘲笑う。
「私……私はね……本当は、男なんだ……」
直が発したその言葉をすぐには理解できなかった。
清楚でかわいい直が、男だなんて信じられなかった。
だけど、それはそれで良かったと心のどこかで安心したんだ。
姿がどうであれ、自分が女だったから――。
部室棟、裏山の土砂崩れ。
あの時、歪んだ建物に救助に向かった直。その表情には何の迷いもなかった。
きっと、何もかもを捨てる覚悟をしていたのだと思う。自分の命さえも……。
直は俺の正体を知らないから、勝手にそんな覚悟をしてしまった。
その時、初めて直の存在の大きさに気付いた。
そして、俺たちはこの関係を終わらせる必要はないのだと――。
俺もこの時に自分の秘密を打ち明けたけど、それはもう面白い反応をされたものだ。
今まで隠していたのがバカらしく思えるぐらいに――。
土砂崩れの日とは打って変わって、季節の関係で弱々しい光を放つ太陽が出ている晴れた十一月も最後の日。
講義を終えて待ち合わせたのは、構内の食堂だった。
食堂に入って、彼女……いや、彼の見慣れた後ろ姿を見つけると、大股でそこに近づき、正面に座った。
こうやってゆっくり話すのはどれぐらいぶりだろうか……。
いや、それより何より、この子が本当に男なのか、という疑問の方が強かった。
言われただけで、アタマはカツラであって、証拠らしい証拠は見せてもらっていない。
だから納得しきれないところがあったのも確かだ。
だって、今日もスカートだし、カツラだし、かわいい満面の笑顔だし……。
何も言わずに鞄を探りだした直ちゃんは、紙パックのジュース、
「はい、飲みものどうぞ」
「あ、ありがとう……」
そして、かわいらしい財布を出してきた。
某ネコのキャラクターキーホルダーが付いていて、小さな鈴がチリチリと音を立てている。
その財布から取り出したものを確認し、テーブルに置くと、俺の方に滑らせて差し出してくる。
これは、見慣れた我が大学の学生証ではないか。
これを見ろ、ということか。
直ちゃんの学生証を手に取り、何度も隅から隅まで目を通した。
それには、偽りのない真実が書かれている訳で……。
嬉しいのか、悲しいのか、よく分からない感情がもやもやと湧き上がってきた。
それを落ち着けるように、もらったジュースを開け、一気に飲み干した。
「鎌井直紀……っと」
渡された学生証の顔写真と正面に座る直ちゃんの顔を交互に見る。
学生証の写真は、締まった顔というか仏頂面? なんとも男らしく写っているし、性別のところにも『男』だとちゃんと書いてある。
まぁ、自分の学生証にも『女』と書かれているし、名前だけ聞けば男だか女だか分からないという特典もあって、勘違いされることも多かったし、おかげで今まで『男』でも通用していたんだけど……。
それにしても、何であの時パスポートを持って行ったんだか……学生証でも良かったことに気付くのがちょっと遅かった。
ふと直の方を向くと、何だか幸せそうに微笑んでいる。
「いや、首を傾げて笑顔を向けられても……」
困る。いつもの直ちゃんスタイル(かつら&スカート)で、正体を知ったからといって、いきなり男の扱いは無理。自分も女扱いされたらかなりイヤだ。
「祐紀ちゃーん」
「やめろ!」
と大声で言ったものの、今の笑顔はかわいすぎる……。
何もかも、吹っ切れたって感じで。
自分もそうだ。もう、隠す必要もなくなった。別れることを心配しなくてもよくなった。
何もかも、丸く治まって万々歳ってところだ。
だけど急に切り替えはできません。
それより、大声を上げてしまったことで存在感をアピールしてしまったせいか、回りの視線がこちらに突き刺さっている。
「アレがウワサのオカマとオナベらしいぞ」
「えー、マジでー!! シンジラレナーイ」
「オカマは倒壊寸前の部室棟に飛び込んで自殺を図ろうとしたとか……」
「え? 救助に行ったんだろ?」
「っていうか、前から付き合ってたらしいよ?」
「へー、元からレズとホモだったのかなぁ?」
「人って見かけじゃないよね」
そして、好き放題言われまくる。耳が痛い……。
「だー!! 黙れ、黙れ、黙れー!!」
立ち上がって手を振り回しながら反撃開始。
こっちが黙ってたら勘違いが勘違いを生んで大惨事の伝言ゲームだー!!
ここで鎮めなければハッピーなキャンパスライフが送れない!
言い訳するなら今のうちだ!
――ズガーン
机を叩く音(?)に体がすくんだ。
しかも、ものすごく近くで大きく聞こえたので、戦闘体勢を解除。その音が聞こえた方を恐る恐る向くと――腰を上げ、拳をテーブルに叩き込んでいる直ちゃんの姿。異様なオーラが体を包み込んでいる。
ゆっくりと顔を上げ……怒りにじみ出た表情だと予想していたのだが、笑顔だった。だからこそ余計に怖い。
「あまりふざけたこと言ってると、怒るよ?」
言葉も穏やかだった。
それが更に怖さを倍増させた訳で……。だから俺も視線を逸らし、先程好き放題言っていた人たちを横目で伺ってみた。なんと全員が何事もなかったかのように食事や会話を再開している。
……恐るべし、鎌井直紀。
だが、知ってしまったからこそ、いつまでもこの状態を維持することはできなかった。
土砂崩れ事件がきっかけでサークル部員が増えたまでは良かったんだけど、『リンダ』と名乗る怪しげな男の登場で、直は少しずつ変わっていった。
俺も構内を歩くだけでもとてつもなく恐ろしくて……。
「ゆぅちゃぁぁんw」
と声を掛けられ、構えようと思った頃には背後から抱きつかれた後だ。
コイツが視界に入ると、直の表情は一変する。
姿がどうであれ、直とリンダは男、俺は女。これは……三角関係とかいうやつではないだろうか。ヤツがどこまで本気なのか、よく分からないけど。
「祐紀から離れろ! 離れろー!!」
リンダと直は身長差の関係もあり、ヤツを背中から殴っているものの、相手にはたいしたダメージにはなっていない。
ちょっと待て。
「直、今、何て言った?」
何とか直の方を向いて問う。しかし、アタマに血が上っているので、
「何が! 離れろって言ってんのよー!」
という回答が返ってきただけだった。怒っているくせに、俺の場合だけ語尾はまとも(?)な気がする。だけど、聞いたのはそこではなくて、
「違う、その前」
「ゆう……き」
直が頬を染め、俺から視線を逸らした。どうやら怒りに任せてついつい口から出たという感じか……。
だけど、俺の名を呼ぶ時、常に『くん』が付いていたけど、この時、初めてそれがなくなったのだ。
理由がどうであれ、嬉しいことには変わりなく――手を握ってもう一度、と催促したいところだ。
「あーらあら、ごちそうさま」
誰だ、せっかくいい所なのに突っ込むバカは!
そういえば、まだリンダがまとわり付いたままだった……。
「ええい、いい加減に離れろ!」
頭突きでも食らわせようかと思ったら、それを察してリンダは手を離して一歩下がった。
離れたチャンスを直は逃さなかった。
小さな巨人、再び……。
リンダの腕を掴んで懐に入ると、あっという間にリンダは背中から地面に叩きつけられた。
手を何度か叩いて地面に転がったリンダに対して見下したような視線。片付けたぞ、みたいな態度の直。
「……お前……本気でやるなよ……過剰防衛だ」
「当然のことです! 行こう、祐紀」
倒れたままのリンダを放って、直に手を引かれてその場を後にした。
「何で最初から、リンダぶっ飛ばさなかったのさ」
直が強いことは、以前、直のお兄さんが来た時に知った。
なのに、俺がリンダにまとわり付かれている時、背中から殴っている感じは伝わってきていたけど、全然本気ではなかった。まぁ、すっかり忘れていたけど。
「だって……祐紀まで一緒にぶっ飛ばす訳にはいかないでしょ……」
なんだ、そこまで考えてたんだ。
「でもさ……どこにそんな力があるわけ?」
「うーん、全部? 腰の入れ方が違うんだよ。この体で力を最大限に発揮するには、やはりそれしかないし。あとは、見た目で相手が油断しすぎな所もあると思うよ。今でも、会話している最中に祐紀を足払いで倒す自信あるし……」
それは不意打ちじゃないか。
――いや、ちょっと待ってくれ。さりげなく、かつ当たり前のように呼び捨てにされてて意識してなかったけど、『祐紀』って呼んでくれてる……。
直の姿があんなのだから、別に気にもしていなかった。
しかし、男嫌いの私がなぜ男である直を好きなのか、正体を知っても好きでいられるのか。
矛盾だらけなのは分かっているけど、自分でもその理由は分からなかった。
そして、自分が女であることを思い出した。
直が男に戻ろうとしている以上、私も女に戻らなければならないことも……。
気が付けば、自分のことを『俺』と言うのに違和感を覚えるようになっていた。
そのせいで何度か直に変な顔をされたのは言うまでもなく……。
「わた……」
自分で気付いて恥ずかしくなり、ギリギリで止めたのは直と一緒に料理をしたあの日。
「ミー?」
引越し作業の時はそれこそ困って英語にしてみた。
できるだけ自分を指す一人称を使わないように喋ろうと思っていたが、やはり難しかった。
だけど、自然に『私』と言えるようになるまでに、そんなに時間は掛からなかった。
それから――また、髪を伸ばし始めた。
元が女顔で童顔な、私より背の低い直と比べても、一目で女だと分かってもらえるように。
料理も覚えようと必死だった。
万能な直よりも家事をうまくこなそうと努力した。
ライバルは直であり、どれもこれも直の為に、直だけの為に……。
「確かに、あの頃は祐紀のことを男だと思ってた。自分も男だからさ……要は騙してるってことでしょ? 言うに言えないことだったし、自分から好きになった人に別れようなんて言えないから、自然消滅狙いであんな冷たい態度をしてたんだ」
だからあの頃、辛そうな顔をしてたんだ……。
「祐紀も似たような感じでしょ?」
「うん。昔、女に迫って拒まれたから……」
「……迫った?」
「迫った。だからこっちの大学に進学した。自分のことを誰も知らない所ならどこでも良かったんだけどね」
「僕も同じ。……いや、男に迫ったことは一度もないけど。心理学の勉強が出来る大学ならどこでも、自分のことを誰も知らない場所ならどこでも良かった」
そんな偶然。出逢えた偶然。これを運命と言わずに何と言う。
「それより、今だから言うけど……」
「うん?」
「祐紀が女だったから良かったものの、僕ってホモ要素があったんじゃないかと……」
「それは私を男だと思っていたから?」
「……そういうこと」
「もし、私が正真正銘の男だったら……」
「いや、もう言うな。それより、祐紀は女に迫ったことがあるという前科があるってことは……」
「レズだと言いたいのか! 違うって。あれは……」
――女を傷つけない、自分にとって理想の男を演じていた。
関係を迫らず、ただ一緒に居る時間を楽しく過ごし、大切にしたかった……。
直は私にそうしてくれたよね?
時には暴走しかけたこともあるけど。
こっちが不安になるぐらい、一緒に居る時間を大切にしてくれた。
取り返しの付かない過ちを犯した私を許してくれた。
それを知っても一緒に居てくれる。
人生を共に歩んでくれる、私を唯一理解してくれる人――。
そんな直と出逢えて、初めて女に生まれて良かったと思えるようになった。
私が歩んできた道は決して平坦なものではなかった。
狂いだしたあの日に迷い込んだ道の先に直が居た。
そして二つの道は、一本になる。
二人の前にまだ道はないけれど、直と一緒なら何も怖くない。
――手を取り合って、これから切り開いていくんだ。