008・お嬢 エンジョイ ライフ


 いつも一緒に遊んでいた男の子がいました。
 私にはとても良くしてくれました。
 その優しさは、私にとって当然のことになりました。
 当たり前すぎて、物足りなくなりました。
 私に尽くしてくれるのもいいけど……それだけではだめ。
 私も尽くさなければ……。
 しかし、私が彼に尽くすことはなかった。
 ――違う。彼じゃない。
 いつも一緒にいる彼は、それ以上の人ではなかった。


 だからあの日、初めて会った瞬間に私は恋をしたの。
 どんな人なのかも知らないのに、一目見たあの日から――。


 坂見賢。
 一月十日生まれ。十八歳。
 オバサマの家の家政婦の息子。
 母子家庭――だけど、家政婦である母は、彼が高校に入学を機に住み込みで働いていたため、一人暮らしをしていたらしい。
 就職先も内定していたが、今回……巻き込まれた一人。
 見た感じの印象は……いざという時、頼りになりそう。
 まぁ、見た目での判断でしかないけど。
 男の査定ができるほど、経験値豊かな訳でもない。
 ホントの個人的見解。


 だって、石野だけだと何かと不安じゃない?
 見た目がアレだもの。
 童顔で、弱そう。
 守ってくれそうなタイプでもないし、そういう風にはとても見えない。新聞の勧誘さえも断れそうにないし、頼りにならないというか……頼りがいもない。
 今まで一緒にいたから、今回も一緒という程度?
 家の事情――それだけ。




 その時から引越すまで会う機会がなかったけど、彼に会えるのをとても楽しみにしていた。
 初めて親元から離れて、送り迎えのない自由気ままな新しい生活に。

 ――エンジョイ! キャンパスライフ。


 ピッピッピッピッピ。
 プルルル……プルルル……
『はい、なんれすか、おじょーさま』
「なんれすか、じゃないわよ! 何時だと思ってるの! 朝のお茶の時間よ!」
『はっはひ! すみません。すぐに行きます!』
 ブツッ――

 がっちゃんがっちゃーん☆
「むにゃぁー!!」

 隣が騒がしいこと。
 朝の身支度を終えてテーブルの前に座る私は、朝の紅茶が出てくるのを待っていた。
 しかし、いつまで経っても来ない。
 痺れをきらし、携帯で呼び出してみたら……寝起き。
 ここで溜め息をひとつ。
 ――こっちに来てから、どうも朝の時間が狂いっぱなし。朝どころか、お茶の時間全部が狂っている。
 家にいた頃は私が欲しい時に出てきていたのに……。

 今はそこまで気を回してくれるお手伝いさんなんていないんだし……傲慢かしら?
 朝食は自分で作ってる。誰も作ってくれないし、石野も坂見も料理はできない、と言ったから。
 毎朝、トーストを焼くだけ。
 やはり、朝食には紅茶がつきもの。紅茶が出てこない朝なんてありえない。
 ……これも自分でやるべきなのかしら?
 石野を甘やかす原因になるわね。やめましょう。

 紅茶が出てきた頃には、私の機嫌は最高に悪かった。
 せっかくの朝が台無しよ! きっと、今日一日サイアクね。
 また溜め息が漏れた。

 ――こんなことで、これから先、やっていけるのかしら?

 不安にさえ思えてくる。
 生活するには問題ない。だけど、人間関係というものに。
 友達の作り方なんて知らない。気付けば周りに誰かがいたけれど、いつも側にいてくれた石野だけだった。
 それは今も。
 坂見も命を受けたから一緒にいるだけで、外出時以外にここ――私の部屋――へ来ることはまずない。
 今まで、欲しいものは何でも手に入っていたから気付かなかった。
 思った通りにいかないこと、お金や親の権力だけではどうにもならないことがあるということに。

 じゃ、私がすべきこと、私に出来ることは何?
 嫌われないこと? ――好かれるにはどうしたらいいのか分からない。
 じゃ、尽くすこと? ――何を尽くせばいいのかしら?
 優しくすること? ――私はいつだって優しいじゃない。
 どうすべきなのか、全然分からないわ。




「石野! 坂見を呼んでって言ったじゃない」
「それが……女性の部屋に入るのはイヤだとかで、全く動かないんです。外出する時だけ呼んでくれ、とのことです」
 ……それはどういう意味?

 ――私が部屋にいる時間に坂見は何をしているのかしら?

 私の前にティーカップが置かれ、石野はゆっくりと紅茶を注いでくれる。
「お嬢様、他に何かすることはありますか?」
 面白くない。
「いいえ、結構よ。もう部屋に戻ってもいいわ」
「……そうですか。じゃ、失礼します」
 丁寧にお辞儀し、石野は私の部屋から出て、玄関あたりから大きめの声で私に言う。
「お嬢様、鍵を忘れないでくださいね」
「分かってるわ」
「それから、遠慮せずいつでもお呼びください」
「分かってるわよ!」
「じゃ、おやすみなさいませ」
「……ええ」
 せっかくのお茶が楽しめないじゃないの!
 石野は自分の部屋へ戻る間際、いつも同じことを言う。つまらなくて、飽きるぐらい、機械的な同じ言葉を。
 だから物足りない?

 どうしたら坂見は一緒にいてくれるのかしら?
 私は何をすべきかしら?




 偉くもないのに、人の上に立ち、見下す。
 自分が一番偉い。だから望めば何でも手に入る。

 親の背中を見て学んだ帝王学は、恋愛に通用しない。


 だけど、素直になれなかった。




 私がオバサマのために動いたことで、二人を巻き込んでしまったことに気付いたのも、残暑がまだ厳しい時期。
 親元を離れたことで、私も少しずつ考えが変わっていった。
 学園祭にオバサマを呼んで、強引にでも直紀くんと会わせてしまえば……。
 結局はそれも押し付け。オバサマは直紀くんに会うことなく帰られた。


 その後、第三者に直紀くんたちの調査を依頼――しかし、それが裏目に出てしまった。
 私がどういう理由でこの大学に進学したのか、しつこく追い回す理由を直紀くんは気付き、ものすごく怒っていた。
 何もかもが怖くてふさぎ込む私を支えてくれたのは……石野と坂見だった。
 気を使って声を掛けてくれただけかもしれない。
 だけど……嬉しかった。

 その後、直紀くんと向き合って話す機会があったけど、いつものように接することはできなかった。
 直紀くんの考えは分かったけど……私はオバサマの思いを分かっていたから、それが都合のいい言い訳にしか聞こえなくて、つい感情的になって叫んでいた。

「〜〜〜頑固者! オジサマと変わんないじゃないの!!」

 悲しかった。
 直紀くんなら分かってくれると思ったのに……全然分かってない。
 私は両手で顔を覆い隠して泣いた。
 そんな私の背にそっと、優しく触れる手。なだめるように撫でてくれる。
 ……ごめんなさい。今、私が必要とする人は……貴方じゃない。
 顔を上げて後ろを見ると、心配そうに私を見つめる二人の顔が涙でにじんで見える。
 ――私は……坂見を必要とした。
 普段は私に無関心そうなのに、今、ここにいてくれる彼を。

「うぁぁぁぁん」
 私は彼にすがりついて、大声を上げて泣いた。
 ものすごく安心する。
 今までずっと我慢してたことや、辛いことが全部溶けて流れ出てくる。
「うえ? あ、あの、絢菜さん?」
 驚いてそう声を上げたものの……私が落ち着くまで、黙って背を撫でてくれた。
 とても心地良くて……私は泣きつかれた子供のように、そのまま眠ってしまっていた。

 どのくらい眠っていたのか分からないけど、坂見はずっと同じ体勢のまま、私の背中を撫でてくれていた。
 ――覚醒。
 思いっきり坂見を突き飛ばして離れていた。
 何がどうなって、こんなことになっているのか、分かっていたけど、急に恥ずかしくなったというか……。
「もう、大丈夫ですか?」
 突き飛ばされながらも私の心配をしている。
 坂見に背を向けたまま何度も大袈裟に頭を縦に振る私。
 ……沈黙。
 こういう場合、どうしたらいいのかしら?
 初めてのことだから、考えても答えが出てこなくて、却って辛い。
 そういえば、石野は出ていってしまったし……何とか引き留める手段はない?
 じゃないと……坂見は帰ってしまう。
 また、涙が……今日は泣きっぱなしじゃない、私。
「じゃ……おれ、もう……」
 帰っちゃう!!
 ――イヤだ。
「だめ! 一緒にいて。一人にしないで」
「……は、はい?」
「好きなの。坂見のこと……」
「え、ええ!?」
 もう、悲しくて、悔しくて……感情的になって、自分の今の思いをぶつけていた。
 坂見は困りながらもこの部屋にいてくれたけど……会話なんてなく、部屋はとても静かだった。

 探しても見つからない言葉。
 時間だけが過ぎていく。
 明るかった部屋は薄暗くなり始めている。

「あの……とりあえず、電気つけましょう」
 私は無言で頷いた。それが坂見に見えているのかどうかは分からないけど。
 坂見は静かに立ち上がり、電気のスイッチを入れ、窓際まで行ってカーテンを閉めた。
「……絢菜さんの気持ちは嬉しいです。でも、おれなんかでいいんですか?」
 心臓がぎゅっと掴まれたように痛んだ。
「わ、悪かったら、好きなんてなりません!」
「まぁ、それもそうですね」
 坂見は私の正面に座り、じっと顔を覗き込んでくる。こんなに近い距離で見られているのが恥ずかしくなって私は顔を逸らした。
「じゃ、絢菜さんに解雇されるまで、ずっと側にいます」
 解雇なんて、するわけないじゃない……。
「と、当然です!」
 そんな私の態度と発言がおかしかったのか、坂見は鼻で笑った。




 それから、彼――賢も私が所属するサークルへ入り、正月には『真部祐紀誘拐事件』を起こし……実家にいたら体験できないようなことまで、楽しいことがたくさんあった。

 まぁ、予想外の出来事と言えば……両親に賢との関係がバレちゃったこと。
 お父さんが秘書の人と一緒にアパートに来て、私一人だけが強制送還されちゃって……。
 もう、大学をやめろ、とか、大学に行くかわりに賢と別れろ、とか……。
 どうして彼じゃいけないの? 彼の何が気に入らないの? 私にふさわしくないって何?
 一方的に押し付けてくる両親に、さすがの私も頭にきた。
「お父さんとお母さんは賢の何が気に入らないの? 母子家庭だから? 権力がないから? オバサマの家の家政婦の子供じゃいけないの?
 だいたい、それがお父さんたちの何に関係あるの? 関係ないじゃない。
 私があの人を必要としているの。あの人じゃなきゃだめなの。
 お父さんもお母さんも、賢の何を知ってるの? 何も知らないくせに……自分の意見だけを押し付けないでよ!」

 ――ばしっ。
 左の頬に痺れるような痛み――お父さんに叩かれていた。
「少し、頭を冷やしなさい」
 とても、冷たい言葉だった。

 その日の夜、痛む頬を撫でながら考えていた。
 ――彼との関係を終わらせたくなかった。ただそれだけの訴えだったかもしれない。
 やはり、親の期待は裏切ってはいけないのかもしれない。
 普通の家庭に生まれていれば、悩まなかったかもしれない。贅沢な悩み。
 親が別れろと言った。はい、そうですか、って諦められる訳じゃない。
 まだ大人にはなりきってないかもしれないけど、親の手が必要な子供なんかじゃない。


 それから毎日、必死になって説得を続けた。
 その結果――今まで通りの生活を取り戻すことができた。


 二週間ぶりのアパート。
 どんな顔をしたらいいのか、少し悩みながら賢の部屋のチャイムを鳴らした。
 ドアが開き、私の顔を見た瞬間、驚き、そして笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、絢菜」
「うん、ただいま」
 私もとびきりの……彼にだけ見せる最高の笑顔で答えた。


 大学生活はまだ続く。
 これからも、楽しい日々が続く。


     **おわり**

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