005・糸目 拝啓 お嬢様
お嬢様と初めて会ったのは、はっきりとした記憶がないほど小さい時で、ぼくの思い出にはいつもお嬢様がいた。
父は運転手として働き、母は家政婦として多忙なご主人様と奥様の代わりに家の中を守ってきた。
そんな両親が片瀬家に住み込みで働いていたということもあり、ぼくは自然とお嬢様の『遊び相手』兼『簡単な世話係』となっていた。
同じ幼稚園に通い、同じ小学校に通い、同じ中学を受験し、同じ高校にも入った。
念のために言っておくけど、お嬢様が通っていた高校は女子高ではなくて共学。女装してまで潜入してないから、勘違いされませんように。
どれもこれも、仕組まれたように同じクラスだったことも補足しておこう。
そして大学――進学を希望した大学のことで、ご主人様と奥様、更には石野家の三人をも巻き込んで、屋敷の中は大騒動。
県外――ご主人様曰く『イナカ』の大学に、大事な娘を一人で行かせることができるか! と反対。
奥様も、この辺りにもいい学校なんていくらでもあるのだから……、と説得するものの、お嬢様は持ち前のわがままっぷりを存分に発揮したのだった。
受験の申し込み期限もギリギリ。提出に間に合わず、選択肢が『諦める』のみになりそうなそんな時期。
片瀬家に現れた一人のおばさ……いや、中年女性。ご主人様のお姉さんである、鎌井亜季氏。
旧姓はもちろん『片瀬』であり……彼女の説得――と言うよりも、姉の権限とわがままで強引に押し通し、何とかお嬢様の希望する大学への進学は許可された。
その裏にはちょっと複雑なことがありまして……。
発端は鎌井亜季氏の息子さんがその大学に行っているんだけど、勘当したとかで連絡も一切とれない状態になったとか。
その話を聞いたお嬢様も心配して、どうにか力になりたいと思ったのでしょう。
反対されているのに、どうにかその大学へ行きたいと言い出した。
鎌井亜季氏のおかげで、それは現実となったのです。
それと同時に、ぼくもお嬢様の護衛として同じ大学に行くようご主人様に命じられたけど、言われなくても最初からそうするつもりだった。
そして、もう一人の護衛もその話の時に提案された。
ぼく、一人では信用できないのだろうか……。まぁ、何かが起こったとき、一人で対処するよりはもう一人居てくれた方が助かるには助かるけど……もう一人も『男』だというのが何より許せない。
だけど所詮、ぼくは片瀬家に雇われている両親の息子。それ以上でも以下でもない。
不満があっても言うことは許されず、ただ、相手にとっていい返事をするしかなかったんだ……。
もう一人の護衛――鎌井家の家政婦の息子――坂見賢と出会ったのは、お嬢様と同じ志望校に合格し、各種手続きを終えた頃……片瀬家の客間だった。
部屋に入ったぼくを見て、軽く頭を下げただけで、やたら面倒そうな表情をしていた。ぼくが持っていないような雰囲気を持ち合わせている――見た目でそう感じ、話しても気が合いそうにないとも思った。
しかし、実際はそうでもなかった。
予想を反し、意外といい奴だった。
坂見は自分の事を色々と話してくれた。
母子家庭だけど、高校の頃から母親が住み込み家政婦になって、一人暮らしで自由気ままだったとか……就職まで決まってたのに、辞退して大学進学に切り替えたとか……。
それだけ勝手に話して、今度はぼくの身の上を聞いてくる。
「父はここのご主人の専属運転手で、母は家政婦。幼い頃からずっとここで、住み込みで働いているから……」
親のことだけ話して、自分の事までは細かく言わなかった。
心のどこかで、まだ警戒している。
いや、この人がお嬢様の護衛に相応しいのか、ぼく自身が見極めようとしているのかもしれない。
坂見という男がどんな人間であるのか、信用できるのか。
しかし、それは数分のことであり、すぐにお嬢様と奥様が客間に来られた。
さすがに初対面ということもあり、ぼくと一緒に居る時以上におしとやかなお嬢様。奥様の斜め後ろで目を伏せ、口を柔らかく結んでいる。
「この度は無理を言って申し訳ありません。この子が、娘の絢菜でございます」
お嬢様が一礼し、顔を上げる。
いつもと違う、見たこともないその表情。お嬢様が向けた視線を思わず追ってしまう。
ぼくではなく、隣の男に向いている。だから横目で彼の表情を伺わずにはいられなかった。
それだけは認めたくなかった。
お嬢様の一番はぼくだけだと思っていた。
だって、幼少の頃から一緒に居たから……。
――だから?
だから何だろう。
一番だなんて、自分の思い込みじゃん。
「はっ、はじめまして。片瀬絢菜ですっ」
明らかにお嬢様の様子がおかしい。
もう、ダメ……。
「坂見賢です。こちらこそ、はじめまして……」
むむっ! この男には脈ナシだな。それならそれで、名誉挽回も可能ってことだ。
ところで……どんな名誉の挽回なんだろ?
なんて、勝手にライバル視したり、今後の事を考えていたら、いつの間にかまた坂見と二人きりになっていた。
「ありゃ生粋のお嬢様ってヤツだね。初めて見たわ、あんな人」
「それに比べて、君はただの庶民だね」
ぼそりと本音を漏らしてみた。
「そりゃ、あんたらと比べればおれは下級庶民だろうよ」
鼻で笑いながらそんなことを平気で言うなんて……いや、そう言わせたのはぼくか。
ちょっと反省。
たとえどうであれ、これから行動を共にせねばならんのだ。ささいなもめごとでお嬢様を心配させるのも良くない。嫌われては元も子もない。
それなら、仲良くするしかないじゃないか。
「ま、そういうことで、四年間よろしく」
と先に手を差し出してきたのは坂見の方だった。
「あ、うん。よろしく……」
差し出された手と軽く握手を交わした。
とはいっても、お嬢様だけは譲りませんよぉぉぉぉ!!!
「ちょっと、痛い、痛い……放せ!」
セキュリティがしっかりしているマンションになるはずだったのに、お嬢様がごねてワンルームのアパートに住むことになったぼくたち三人。
もちろん、部屋は別々だけど、ご主人様が全て手配してくれた。
お嬢様の隣の部屋はぼくで、その隣が坂見。
地元を離れて生活を始めても、ぼくは決まった時間にいつもお嬢様の部屋に行って、いつものようにお茶を淹れてさしあげた。
「石野……坂見は?」
やはりぼくでは不満なのだろうか。
お茶を淹れている最中でもそんなことを聞いてくる。
「後で呼んできますよ」
本当はふたりきりで居たいけど、そう言うしかないのだ。
お茶を出してからお嬢様の部屋を出て、ため息を漏らしながら坂見の部屋に向かう。
チャイムを押して、すぐに出てくる彼は、既に身支度を終えている。
いつものことながら、なぜお嬢様の部屋に顔を出さないのだろうか。いつも呼びに行かなきゃならないぼくの身にもなってくれ。
「お前さ、よく平気で朝っぱらから女の部屋に入るよな?」
「……そう……なの?」
お屋敷にいた時からこんな生活をしていたから、どこが変なのかさっぱりわからない。
「お前、ホントはお嬢とデキてんじゃねぇの?」
――え?
なんて嬉しい勘違い。そう見えるのか。何だか嬉しい……いや、喜んでいる場合じゃない。
「そそそそ、そんなことある訳ないじゃないか。滅相もない」
「だろうね。一方通行、片思い止まり」
むっかーん。
だから、庶民は、庶民は、庶民は、キライだー!!
デリカシーのかけらもない。言っていいことと悪いことの区別もつかないのか、この人は!
いくら、いつも一緒にいるとはいえ、お嬢様は片瀬グループの社長令嬢、そしてぼくはその屋敷で働く運転手と家政婦の息子。明らかに身分が違う。
例え、そんな関係になれたとしても……財力もなければ、学力だって微妙だし、将来的に考えても、ぼくはお嬢様に相応しい男ではないのは確かだ。
その点では坂見も似たようなもの。ぼくの頑張り次第でどんでん返しも可能かもしれない――って、何を考えているんだ、ぼくは。
そんなこと考えていても、ご主人様や奥様がお許しになるはずがない。
――って、ずーんと沈むなよ。自爆だよ。
「ま、手に入れたきゃ押してみな。指咥えて見てるだけじゃ、そのうち持っていかれるぜ?」
坂見はぼくの背中をポンと叩くと、いつものようにお嬢様の部屋へと歩き出した。
ぼくだって、この想いをお嬢様に伝えたい……。
だけど、自分が置かれている位置を考えると、どうしてもできないんだ。
さて、そんなことよりも、まずはやらなくてはならないことがある。
この大学に進学した第一目的である、鎌井直紀さんの調査だ。
サークル勧誘会でもみくちゃにされつつ、たまたま見つけた一枚の貼り紙――
『ボランティアサークル部員募集
あなたもボランティア活動しませんか?
担当:鎌井(心理学部三年)・真部(商学部三年)』
……募集しているわりには押しの弱い、大きな文字が書いてあるだけのものだった。
あれ? 鎌井ってもしかして……。
心理学部三年――聞いた話と一致してる。
偶然発見しただけなんだけど、すぐにお嬢様へ報告――講義を終えるとすぐに確認に来られた。まぁ、それまでポケーっと掲示板前に突っ立っていたぼくですが。
坂見と一緒に来たということに関しては、ちょっと嫉妬しちゃったり、羨ましく思ったりもしましたけど。
「……直紀くんならやってそうなのよね、ボランティアとか。……ここに入ってみようかしら?」
と、いきなり入部希望表明。即決される部分はお嬢様らしいと思った。
「まぁ、違ってもいいじゃない。ボランティアって悪くないと思うわ」
ハズしてもやる気満々。さすがお嬢様――その時だった。
「ボランティアサークルでーす、部員募集中〜っと……あー、だるいなぁ〜」
微妙どころかかなりやる気のない声が聞こえた。しかも、例のボランティアサークルとか言ってる。
「じゃ、ぼくも一緒に……」
しかし、お嬢様はぼくの意見を聞くことなく、もう走った後だった。早いっ!!
「あのっ、ボランティアサークルさんですか? 私、入部希望なんですけどっ!」
やたら背の高いお……男? いや、女か? に声を掛けているお嬢様。やる気のないボランティアサークル部員も、さすがに笑顔で対応をはじめた。
「おおー! マジっすか〜。じゃぁ、気が変わる前にさっさとこの入部届けに学部と学年と名前と連絡先なんかをちょいちょいと書いちゃってちょうだい」
「はいっ!」
あ、あの、お嬢様……ぼくはいいんですか?
「……バカねぇ、もぅ! 同じ部に入っちゃったら、何かあった時に用事が押し付けられないでしょ?」
押し付けるんですか? 例えば何を?
「……先回りとか……先回りとか、先回りよ!」
先回りだけですか。
「だいたい、毎度一緒にいたら怪しいじゃないの!」
それもそうだな。
ちょっと納得しがたい理由に納得させられていた。
一人でボランティアサークルに入部を決めたお嬢様。ぼくと坂見は影からお嬢様のサポートをすることになる。
それは、ボランティアサークルのミーティングがあった日だった。
「石野! 今すぐ自転車を手配して!!」
アパートの駐輪場に走って取りに行き、大学の部室棟付近で待機していると……ものすごい形相でぼくを探していると思われるお嬢様がすごい勢いで右を見て、左を見て……。
木陰からそろっと出ていくと、ぼくを発見したお嬢様が勢いよく迫ってきた。
ちょっとどころか、かなり怖いです、お嬢様。
「早く自転車を貸しなさい! 直紀くんを見失っちゃうじゃない!」
「あの、そういうのはぼくとか坂見でも……」
「私がやりたいのよ!」
自転車にまたがると、漕ぎ出す――が、フラフラしていてかなり危ない。
そういえば、自転車ってあまり乗る機会なんてなかったからなぁ……。
全く乗れないわけではないけど。
それにしても……ぼくには少し冷たいな、お嬢様。
お嬢様に気付かれないよう、ぼくと坂見はその後を追っていた。
直紀さんと真部さんを追ってお嬢様が入られたのは――駅近くの居酒屋。
未成年であるぼくらが入るには無理があるので、お嬢様もきっと追い出されるだろうと予想して外で待っていた。
――しかし、丸二時間、待たされることになる。
帰りも、直紀さんと真部さんを追うお嬢様。
さすがに二人のスピードには付いていけず、最終的には疲れて「今日は帰る」と言って諦められた。
やはり、ミーティングとかあっても、部室棟近くに潜んで待機。
そして、理不尽な用事を押し付けられたりする。携帯で。
――夏休み。
お嬢様はサークルの交流旅行に行くことになっていた。
目的地は関東。微妙に千葉県も含まれている。
「おばさまへの報告ついでに、参加しようと思うの。もちろん……来るわよね?」
断るつもりはないけど、こっちの意見を聞く前に既に行くことが決定してる。
「私はサークルの一員として参加するから、直紀くんと行動するけど……あまり私の周りをうろうろしないでよ? 怪しく思われるから」
「でも、同じ時間の新幹線に乗るんですよね?」
「ええ。当たり前じゃない」
「そして、同じホテルに泊まらなきゃいけないんですよね?」
「そうよ。経費節約ってことで、石野と坂見は同じ部屋よ」
「……やっぱり?」
「別々だと、何かと不便じゃない。一緒に行動しづらいでしょ?」
いや、そんなに仲良しに見えますか?
「出掛ける時は前もって連絡するから」
やはり、護衛ですか……。
旅行当日。
集合時間は七時だと言っていたのに、六時十五分には駅の待合室に到着していた。
お嬢様は旅行カバンを大事に抱えている。
いつもならぼくがカバンを持ってたんだけど、今日は珍しく自分で持つと言ったので……。
お嬢様とは離れた場所で壁をじっと見つめていた。お嬢様に背を向けるような格好である。
荷物を挟んで隣に座っているのは坂見。
とにかく、個人的にはこの状況にかなり不満があった。
何でぼくが坂見と……。
六時三十分。
直紀さんと真部さんが来たようだ。
思わず振り返って気付かれたり、怪しく思われたりしたら、後でお嬢様に何を言われるのか分からないので、ただただじっと壁をみつめるだけ。
「あのね、サンドウィッチ作ってきたの。直紀くん、食べる?」
――!! カバンを大事に抱えていた理由はそれか!
なんて羨ましいんだ。お嬢様の手作りサンドウィッチ――食べたい!!
――ぐー、きゅるるる。
そういえば……朝食どころじゃなかったんだよな。紅茶一杯飲んで出てきたんだよね……。
「……腹がうるせーぞ、おまえ」
うるさい!! ぼくは猛烈に悲しいんだ!
結局そのサンドウィッチは――直紀さんの昼のお弁当だというものを食べてしまったお嬢様がそれの代わりに渡したものの……真部さんに食べられてしまった。
あああ、一口だけでも……いや、一目見るだけでも見てみたかった。お嬢様の手料理。
お嬢様たち、サークル一行から少し送れてホテルに到着したのは良かったんだけど……エレベーターを待っていると、ロビーで話をしていたお嬢様と直紀さん、真部さんともう一人の女性に見つかってしまった。しかも、駅の待合室から一緒だということにも気付かれていた。
それだけなら良かったんだけど……。
「古賀ちゃんと同じで、ビッグサイトのイベントに行くんじゃないの?」
「ああ、なるほど! だから男の二人組みなのか!」
何か別のモノと勝手に勘違いされた。
……!!
エレベーターの扉が閉じるのと同時に、ぼくは坂見の方を向き、シャツの襟を掴んだ。
「ねぇ、今、気付かれてたよね? 何か妙なものと勘違いされてなかった? 気のせい?」
「……気付かれてた。まぁ……アレだ。オタクだと思われてたみたいだから大丈夫じゃない?」
ちっとも良くない!!
言うまでもなく、後でお嬢様に怒られたけど……。
次の日、早くに朝食を済ませてお嬢様からの指示を待っていた。
『八時にはロビーに降りておいて。同じ部屋の人と駅まで一緒に行くから、後からついてきて』
と携帯に連絡があり、五分前にはロビーで待機。
エレベーターから降りてきたお嬢様は昨日いた名前の分からない女性と一緒。
ぼくらに目で合図するだけ、フロントに鍵を預けるとホテルから出て、駅へと向かった。
「じゃ、古賀さん、私は反対方向なので……」
「そですか。じゃ、気をつけて〜ですよ」
間もなくやってきた電車に乗る古賀という女性を見送り――発車したのを確認してお嬢様に近づいた。
「じゃ、私達も行きましょう」
本日の目的地――直紀さんのお兄さんが住むマンション。
ぼくらが出た時間にまだ直紀さんたちは出掛けてなかったけど……。
「先回りしてたら、さぞ驚くでしょうね」
何を考えてるんでしょうか。
お嬢様をマンション前まで送ると、またしても、指示あるまで待機となる。
すぐに駆けつけられるよう、できる限り近くで時間潰しをしなければならないが……何と言っても男二人。
怪しまれない程度に滞在して、喫茶店やファーストフード店、合わせて七件ほどはしごした。
座っていることがこんなに苦痛だと思ったことがあるだろうか。
正面に座る坂見もさすがに飽きたらしく、テーブルに伏せて……寝ているのか、これは。
お嬢様から連絡が入った頃には午後六時を過ぎていた。
そんな時間から向かった場所は――直紀さんの実家。
お嬢様の自宅に負けず劣らず、豪邸だった。
今までのことを鎌井亜季氏に話すお嬢様。
ほとんどお嬢様が単独で行動していたので、もっぱらサポートのぼくらは会話には入れないままで……坂見の母親はここで家政婦をしているということもあり、
「お嬢様、ウチの賢はちゃんとやってますか?」
とお嬢様に聞いている。
「どんどん、コキ使ってやってくださいね」
……ぼくだけ……話題振ってもらえないっ!!
積もる話は二時間にもおよび、ホテルに戻った時には午後九時を過ぎていた。
サークル部員に見られた時のことを考え、ぼくと坂見は近くのコンビニに寄り、お嬢様とは十分遅れでようやく部屋へと戻った。
そんな旅行も何事もなく無事に終わり……平穏な日々が戻ってきた。
というより、お嬢様が必要以上に直紀さんを監視しなくなった。
変わりにぼくらがやっている訳でもない。
――学園祭。
その前から、案内などを鎌井家へ送り……当日、鎌井亜季氏が来るか、来ないか、という所まで話は進んでいた。
ちゃんとした返事が来たのは学園祭前日。
朝一番の飛行機でこちらに来るというものだった。
ぼくたち三人は空港へ迎えに行き、大学まで案内――まぁ、構内の案内はお嬢様一人でいい、とのことで、ぼくらはもっぱら待機状態。それもつまらないので、たまたま見かけた直紀さんと真部さんを勝手に尾行していたけど……、
「うげ、あんな所に片瀬が……!」
真部さんがイヤなものでも見たような声を上げ、人影に隠れた。
その先にいたのはお嬢様と鎌井亜季氏。真部さんと直紀さんがほんの数メートル離れた場所にいることには気付いていない。
「……何で……こんな所に……」
お嬢様と鎌井亜季氏の方を見て止まっている直紀さん。
話によれば勘当された身。こんな所で会うだなんて思いもしなかったことだろう。
そして、会ったところでどうすればいいのか……。
直紀さんは、人ごみをすり抜けて走り去った。
「ちょっと、直!」
それを追う真部さん。
ぼくも二人を追おうと人ごみを掻き分け、走ろうとしたが、すぐに見失ってしまった。
ついでに、坂見も置いてきてしまったようで……ぼく一人になっていた。
その後、お嬢様は自分が動くには限界がある、ということで、大学にあるサークル――捜査一家の探偵だとかに直紀さんたちの調査を依頼していた。
しかし、それが裏目に出てしまい……ゴミ捨てから戻ったぼくらが見たものは、お嬢様の住む部屋へ押し掛けてきたって感じの直紀さんと真部さんだった。
しかも、直紀さんはかなり怒っている様子だ。
「じゃ、話を変えようか。――学園祭の時、どうして母さんと一緒に居たの?」
お嬢様は都合悪そうに目を逸らし、口を閉じた。
「僕は、学校の事に関しては、兄さんにさえ話してない。一体誰が学園祭の日時を教えたんだろうね?」
何も言わないお嬢様に対し、直紀さんはまだ続ける。
「ストーキングしたり、やめたと思えば野田に調べさせたり……母さんにでも報告してんの?」
お嬢様の体が強張った。
もう、バレバレじゃないですか。
「キミがどんな事をしても、僕は家には戻らないからね。――母さんにも、そう伝えてくれ」
直紀さんがそう言い、真部さんの手を取って帰ろうとしたが、その方向にぼくと坂見が立ち塞がるような感じに立っている。二人と目が合うと、坂見は少し体勢を低くした――のもつかの間、お嬢様はとても悲しそうな目を向け、すぐに逸らし、ドアを閉められた。
「絢菜さん!」
いつもはそんなに関心を持ってない気がしてたのに、この時の坂見はいつもと違うように思えた。
しかし、そんな緊迫した雰囲気も、ある人物の一言でぶち壊された。
「……あ! いつぞやのナンパ小僧!」
……しまった! 思い出された!!
入学して間もない時、お嬢様に頼まれて声を掛けただけなのに……ナンパだなんてひどいよ!
直紀さんの表情が、笑顔に変わった。それも、とびきり怒りの混じったものに。
その後は散々だった。
自分らの正体を吐かされ、直紀さんは今回の裏をほとんど言い当て……その後は坂見がほとんど喋っていた。
未成年だという主張は無視されてビールを飲まされ……後日、頭痛と腹部の筋肉痛に悩まされた。
頭痛は二日酔いというやつらしいけど、筋肉痛は……ただの笑いすぎだ、と坂見に言われた。
その後、直紀さんがお嬢様と話がしたい、とのことで連絡をもらった。
ぼくと坂見も同席してもいい、と言われたので、母から教わったクッキーを作ってみることにした。
何かあった時に話を逸らす材料にもなるし、何と言っても、このクッキーの味……お嬢様が好きだったもの。
向こうにいる時から、ここに来てからも、全く持っていい所がないぼくだから、こういうのでしか株が上げられそうにない、という……悪あがき?
そんなことは無駄に終わり……やっぱり、なるようにしかならなかった。
「オバサマは、直紀くんに戻ってもらいたいだけなんです。子供が、自分の手の届かない所に行ってしまって、不安なだけなんです。オジサマは公邸に住んでらっしゃるし、お兄様はご家族と共に家を出られました。お姉様は仕事の関係で家に戻られるのは休暇の時だけ。オバサマは一人で寂しいだけなんです」
「……事情は分かったけど、僕は気軽に戻れるような身じゃないんだ」
「勘当されたからですか? 勘当されたら、親子の縁は切れるのですか? そんなことない。直紀くんの家族は、オジサマとオバサマ、お兄様とお姉様。それ以外の誰でもありません」
「確かにそうかもしれない。そうだと思うけど、僕は今の生活が大切なんだ。だから……せめて大学を卒業して、ちゃんと就職して、落ち着いてから考えたいんだ」
お嬢様の訴え。直紀さんの言い訳……。
さすがのお嬢様も、我慢の限界だったらしい。
「〜〜〜頑固者! オジサマと変わんないじゃないの!!」
そう吐き出すと、お嬢様は手で顔を覆って泣き出した。
お嬢様の側に座るぼくはなだめるようにそっと背中を撫でると、涙で濡れた顔をぼくに向けてくれた。
こ、この展開は……ドラマでよくある、女性が男性の胸で泣くという場面!
ぼくは両手を広げ、受け止める――
「うぁぁぁぁん」
…………。
……。
「うえ? あ、あの、絢菜さん?」
お嬢様は坂見の胸へと飛び込んでいた。
何? ぼくってバカ? この、広げた両手、何?
やり場のない手、虚しさ。
「うわぁぁぁん、お嬢様のバカー!!!」
ぼくは泣きながら、お嬢様の部屋から飛び出した。
いずれはこうなることは分かっていたはずなのに……心のどこかで否定して、受け入れなかった結果がこれ。
ホントにバカだ。
ぼくは近所の児童公園まで走り、滑り台に駆け上がった。
眺めは……とてもいいとは言えないけど、心地良かった。
だから尚更、涙が溢れてくる。
やっぱり、悔しかった。
お嬢様に好きだとも言えずに終わってしまった恋。
座って塞ぎこみ……声を殺して泣いた。
「元気だせよ。まだ若いんだから、失恋の一つや二つ……」
ぼくを心配して追ってきたのか、直紀さんが下から優しい声を掛けてくれた。
「ぼくは小さい頃からお嬢様の近くにいるのに、この仕打ちはヒドイです」
慰めてくれる人がいて嬉しかったのに、発された言葉は八つ当たり。
自分の器の小ささにも泣けてくる。
ぼくは声を上げて泣き出した。
「話ぐらいならいくらでも聞くから、とりあえずそこから降りてきなさい」
それでも、直紀さんは優しい言葉を掛けてくれる。
ぼくは手で涙を乱暴に拭うと、滑って降りてみた――が、周りにいた子供からものすごいブーイングを浴びせられてまた悲しくなり……見るに耐えられなくなったのか、直紀さんに引っ張られて公園を後にした。
直紀さんの車に乗せられて、連れてこられたのは周囲を何度もウロウロしたことがある、アパート。
中に入るのはもちろん初めてだった――が、人を見下すような視線の真部さんに心底怯えた。今のぼくにはとても耐えられない。
その上、話を聞いてくれるどころか、真部さんの容赦ないツッコミに崖っぷちだったぼくはあっさり落とされていた。
もう、生きていけない……。
しかし、真部さんはやさしく微笑み、手に持っているビールを差し出してきた。
「大丈夫、お酒が全部忘れさせてくれるわ……」
ああそうか。真部さんって本当は優しい人なんだ。だから、直紀さんも一緒にいるんだ。
「いただきますです!」
ぼくは、真部さんが勧めてくるビールを受け取り、ぐいっと一気に飲んだ。
すぐに視界がくるくると回り始める。
「今は辛いかもしれないけど、いつかきっと、運命の人にめぐり会えると思うよ」
直紀さんもそう言ってるんだ。ぼくにだっていつか……。
こういう終わり方だって、悪くない。いつか、きっと……。
「それってアタシィ?」
ガクリ。
真部さん……今までのが台無しになりました。
「んー、まぁ……ね」
だけど、テレながらそんなことを言っている直紀さんが羨ましい。
この二人は既に、運命の人にめぐり会っているんだ。
「燃えるような恋がしたい……」
「は!?」
その後のお嬢様と坂見ときたら、もうヒドいもので、ぼくにはお構いなしでイチャイチャと……。
近寄りがたくなって、影からこっそり、お嬢様を見守ることにした。
年も明け、気持ちもあらたに――ようやく新しい恋を見つけたと思ったら……、
「……う……はぐ……ぐずっ……」
そんな情けない所を直紀さんに見つかって声を掛けられてしまい、食堂まで連れて行かれていた。
手の上でハンカチを広げ、顔を覆って泣く。
「糸目の童顔は嫌いだって、嫌いだって、嫌いだって、嫌いだっ――」
しかし、直紀さんから聞こえてくるのは、うどんをすする『ズルズル』という音だけ。
「全然、話、聞いてないでしょ?」
こういう場合、人は妙に冷静になれる。
「うん、うどん、おいしいよ」
だけど、自分の心境を全く無視して関係ないことを言われると、無性に悲しくなる。
「あぅ……ぐっ……ふっ……」
もう、涙と鼻水が止まらないよ。垂れ流しだよ、キタナイよ。
「いや、何の話だか分からないんだけどね」
うん、ぼくもどうしてこんな所に連れて来られたのか、よく分からない。
順に話すべきだ。
「ちょーっと仲良くなった女の子を食事に誘ったら、糸目の童顔はちょっと……だって。嫌いなんだよ、ぼくなんか、ぼくなんか、ぼくなんか!!」
ぼくなんか、誰からも相手にされないんだぁぁああ! この顔が憎い! 両親を恨んでやるぅぅぅうう!!
「ちょっと……の後は? それって推測?」
「いえ、きっとそうに決まってます」
自分で言ってまた悲しくなって泣く。
「燃えるような、恋が……ふぐっ……」
うわごとのように口にする。
きっと、ぼくには一生無理なんだろうな。
「ぼくは女の子好みの顔じゃないんですよ。きっとそうだ。所詮、お友達止まりでそれ以上にはなれない定めなんですよ。一生独身の負け組みですよ」
「もしかして、それって、あの子?」
顔を上げて直紀さんが指差す方を向いてみると、歪んだ視界に一人の女の子が立っていた。
それも、ついさっきフラれたと思っていた子。
「……みやたん……ぐずっ」
ぼくは鼻をすすりながら無意識にその子の名を口にしていた。
みやたんはこちらに駆けてきて、ぼくの横で止まった。
「ごめんね、いっしー。違うの、違うのー。やっぱり泣きながら逃げたから勘違いしてるー。糸目の童顔のいっしーと一緒だと、あたし、余計に中学生っぽく見えるんじゃないかなぁ? って思っただけでね、嫌いじゃないの。むしろ逆なの。えーっと、うーんと……」
「みやたん……」
それって……期待していいの?
ぼくはみやたんの手をそっと取り、彼女の瞳を見つめた。まぁ、涙で視界が歪んではいたけど。
「いっしー、好きだよ」
「みやたん!! ぼくも、みやたんが……す、す、好きです!!」
「うんうん。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ……」
ぼくとみやたんは見つめ合って……笑った。
拝啓 お嬢様。
ぼくはこれで、ようやくお嬢様から卒業できそうです。
今までありがとうございました。
お嬢様もどうか、お幸せに……。
「「ちょこれーとぱふぇー!!」」
この食堂のデザート。まぁ、今まで食べてる人は見たことないけど。
ついさっき彼女になったみやたんと一緒に……食べた。
「いや、冗談抜きで中学生に見えるよ。そういうの食べてると特に……」
「……直紀さんだけには言われたくなかったです」
「……ケンカ売ってんの?」
**おわり**