003・鍋兄 妊娠・出産奮闘記
真部寿と結城紗枝が付き合いだしてから、二年が過ぎた。
俺は無事に大学を卒業し、地元の資源物処理業者に就職。アルミ缶とダンボールにまみれながら、フォークリフトとゴミ収集車で駆け回る毎日を送っている。
週替わりで、互いのアパートを行ったり来たりの同棲生活も同じく二年目。
幸せな同棲生活にぽっかりと開いた落とし穴、ついに異変は起こってしまった。
午後八時過ぎ、紗枝さんが仕事から帰って来たけど、いつもと違って顔が悪い。……あ! 顔じゃなくて顔色ね。
「寿……大変な事件が起こりました……」
「何? 人身事故? 当て逃げ、万引き、置き引き……殺人――」
「んなことするかぁ!」
渾身の力を込めて、グーで殴られた。
すっかり殴られ慣れてしまい、マゾ街道まっしぐら。
「だったら何ですか? 率直に言ってください」
彼女の機嫌が悪そうな時だけは、敬語になってしまう。
「お前は気付かなかったのか?」
「何に?」
「私の体の異変に……」
異変?
「最近、太ったよね」
またしても、パンチを食らってしまった。
「今日で三十九日目……」
「……法事ですか? それは四十九日だろ!」
と、一人で突っ込んでいるが、紗枝さんは眉間にしわを寄せたまま、きわどい顔で俺を見ている。
「違う。来ないんだよ……アレが……。今まで、きっちり二十八日周期で、一度たりとも遅れたことはないのに……」
「アレ?」
うふふふふふ、アハハハハ。心当たり有り。
たった一回ぽっきり、油断しますた。
「やっぱり、ドラッグストア行ってくる」
走って飛び出しそうな勢いだった。
「ちょっとまった。こんな時間に出掛けるのは不可! 走ったり、自転車乗ったりも、念の為やめること。俺が行くから……」
「そ。じゃ、いってらっしゃい」
あっさりと送り出された。
自転車で、遅くまで開いているドラッグストアに向かう途中で、やっと重大なことに気付いた。
俺が、妊娠検査薬を買うのか?
恥ずかしいを超えて屈辱? 後先考えずに言っただけに、自業自得だけど……。
聞くのも恥ずかしいので店の中を探し回っていたが、これまた男が居づらい場所に置いてあるんだから、参りました。客があまり居ない時間だったから良かったものの。
とりあえず、早く立ち去りたかったから、一回分で一番安い物を手に取った。
レジの姉ちゃんと目を合わせないように会計を済ませ、逃げるように店を後にした。
あのドラッグストア、もう二度と行けない……行かないぞ。
「俺、あの店に二度と行けない体になってしまった……」
「大袈裟な。いちいち覚えてないわよ」
「あんな時間に、髪の毛ハネさせた、妊娠検査薬を買っていった男として、語り継がれるんだわ……」
「……アホか」
俺が嘆く一方、紗枝さんは、検査薬の説明書に目を通しながら、呆れていた。
「五分以内に結果が出るのか……ふむふむ。いざ……」
検査薬を握り締め、立ち上がった。
「……それにかけるんですか?」
すぐさま、腹を思いっきり蹴り飛ばされた。
「赤い顔して、変なこと考えてんじゃねぇよ! この変態!」
俺は、腹を押さえてむせていた。
五分も経たないうちに、結果は出てしまった。
「うおおおぁうぎぃゃぁぁぁぁぁぁ!」
差し出された結果に、絶叫。
「ころころころころ……殺される……いや、殺される前に、会社の機械に飛び込んでミンチになった方がいいのか?」
「ミンチなんてやめてよ。棺桶にも入れないわよ。だいたい殺されるだなんて大袈裟すぎ。うちの両親もできちゃった結婚らしいから、多分大丈夫よ」
あら、初耳。まぁ、産む気があるからいいものの……
「違う、問題はウチの親の方。絶対半殺しにされる……」
妹の件があるから、敏感に反応してくれそうだ。考えるだけでも恐ろしい。
「近いうちに休み取って、病院行こう」
何でそんなに落ち着いてんの? もしかして、計画的犯行?
数日後、有給を取って病院に行くと、二ヶ月目と診断されたとか。
――そのまた数日後、世間ではお盆休み。重い足を引きずるように実家へ戻ってみた。
さすがに親父も仕事は休みらしく、両親は居間でくつろいでいた。入り口に立ったまま、俺は喋りだした。
「拝啓親父様。実は、彼女と同棲してます。何やら事情がありまして、この度結婚を決意したことをお伝えします。寿。……追伸、事情は、子供ができたってことですので、あしからず……」
猛ダッシュで家から飛び出すつもりが、靴を履くのにもたついてしまい、親父に捕獲され、客間まで引きずられた。
「いや~! ごめんなさい、もう二度としませんから、許してー!」
正座させられ、散々な程、説教を食らっていた。最初のうちは、自分が悪いと反省していたが、何度も何度も同じことばかり言うので、さすがに頭にきた。
「それはさっきも聞いた! 同じことばかり言うんじゃねぇよ。聞き飽きたわ」
「お前が言うことを聞かなかったから、何度も言ってるんだろうが!」
「できた後にそんなに言われても、ムカつくだけなんだよ!」
「なんだと?」
親父が立ち上がり、指をポキポキと鳴らしだした。
「おお、やろうっての?」
俺も立ち上がり、袖を捲くった。
ま、親父って若い頃、鍛えてたらしくて、管理職のくせに怪力で敵わない訳よね。今でも……。
あっという間に蹴倒され、上に乗られて羽交い絞めにされた。
「なんじゃ、クソオヤジぃ! どきやがれ!」
「黙れクソガキがぁぁぁぁぁ!」
「あぎゃぁぁぁぁ……」
首を曲がらない方向に無理やり捻じ曲げられると、コキン、という音と同時に、意識が飛んだ。
意識が戻ると、親父が誰かと話をしていた。
「同棲の件ですけど……」
「同棲だとぉぉぉぉ!」
俺は敏感に反応した。
素早く起き上がり、そんな不届きな発言をした奴に言ってやった。
「貴様! どういう……あれ、女? 同棲じゃなくて、共同生活だろう。脅かしやがって……」
半年ぐらい前に家へ戻った時、祐紀が彼氏を連れてきた、と聞いていたから、今ここに居るのが、その男だと予想していたが、祐紀より小さく、華奢な体つき。どう見ても女だ。 しっかし、外見に似合わないハスキーボイスですな。
「寿……お前には関係ない、向こうに行ってなさい……」
ま、女同士の共同生活ならば、俺が口を挟むことではない。でも、親父の言い方が気に入らなかった。
「なんだよ……ほんとに……」
ブツブツと文句言いながら、客間から出た。
「確かに、前回の約束どおり、男らしくはなったが……」
しかし、聞き捨てならない親父の発言に、閉めたふすまを再び開けた。
「男だと? 最近の男にはムネが付いてるのか!」
コイツが祐紀の彼氏だったとは思いもしなかった。ところが、俺の突っ込みは無視された。
「まだ、ソレは付いたままだな……」
ソレって、乳か?
「取るにもお金が必要です。すぐに用意できるような金額じゃありません」
あら、付けちゃったのね。
「で、なぜ同棲だ?」
「同棲なんかゆるさぁぁぁぁんんん!」
祐紀の身を案じ、それは断固反対だぁぁぁ。
自分は勝手に同棲を始めただけに、説得力はない。
しかし、またしても無視された。
「バイト代だけだと、時間が掛かります……。だから、アパート代、食費、光熱費、これを二人で出し合えば、自己負担金額が減ります。残った分を貯めて、手術代にしたいんです」
ことごとく無視され、ついにプチンと何かが切れた。
「キサマァァ、祐紀は男みたいだが女なんだぞ! 認めるか!」
「寿……」
一人ギャンギャン騒いでいると、いつの間にか立ち上がった親父に引っ掴まれ、容赦ない卍固めがきまった。
「ニギャァァァァ!!!!」
間接の至る所から、ゴリゴリという音が漏れ、俺は悶絶していた。
「うるさいから、黙ってなさい……」
言い方は怒ってない時の口調だったけど、散々締め上げられた後、ようやく開放された。
しばらく、肩で息をしながら、仕方なく二人の会話を黙って聞いていた。
「僕の父は、内閣総理大臣の……鎌井宗次朗です……」
そりゃもう、目ん玉飛び出すかと思ったよ。
「総理大臣?」
さすがの親父も顔色が悪くなり……
「ま~じ~?」
俺もそれしか言葉が出なかった。
とにかく真相を確かめようと、居間へ急いだ。
戸を勢いよく開けると、出た! とでも言い出しそうな顔で祐紀は驚いた。
「祐紀! あの男の父親が、総理大臣って本当か?」
「総理大臣? まじぃ~」
コイツ本気で驚いてやんの。
「それはさっき、俺がやった。……知らないのか?」
祐紀は困り果てた顔で考え込んでしまった。
「――そういうことか……」
「どういうこと?」
目が泳いで、オロオロとしている母さんに、祐紀は必死になって弁解していた。
「アイツが、勘当された理由って何さ?」
「ああ、あの身体見て何とも思わなかった?」
いや、お前の方が何とも思わないのか、と疑問に思った。
「うむ、目の前でムネのある男は初めて見た」
事実、そっち系の知り合いはいないからな。
「ムネにシリコン詰めたのが原因で、勘当されたの!」
「……はぁ、それで、男女の祐紀と付き合った訳か」
「ズバリなんだけど……ムカつくな……」
今までの経験上、自分の持ち得なかったモノを持っている人に、惹かれるものだ。
「お前、最初から知ってて付き合ってたのか?」
「最初は知らなかった。本当に女だと思ってたけど? 向こうも私を男だと思ってたし。お互いバラして、別におかしいことないじゃんって、今に至る」
……そんなメチャクチャな話があるか? でも、それで祐紀が戻りつつあることは確かだった。
「そうか……お前も女になったか……」
って、今更言うようなセリフではないが。
「お前と一緒にするな。聞いたよ。子供できたんだって?」
母さん、もう喋ったのか! 祐紀の勝ち誇ったような表情が、俺を窮地に追い込んだ。
「できちゃった結婚か?」
「……そんなこと言えるのも今のうちだ! どうせお前らの末路もデキ婚じゃぁぁぁ!
帰る!」
ああ~ん、俺のバカー! 妹にまでバカにされちゃったよー。
悔しくて、逃げるように実家を後にした。
……しまった、言ってはならぬ暴言を吐いてしまった。
「ただいま……」
「おかえり、どうしたの? ヒドイ顔しちゃって……」
「親父と妹に散々いじめられた」
「まぁまぁ、それは自業自得よね。仕方ないわ」
更にぐっさりと何かが突き刺さった。慰めてくれないのかよ。
傷心を癒そうと、彼女のまだ目立たない腹にへばり付くと、一人喋りだした。
「ヒサたん、じーたんと、おばたんと、ママがいじめる……」
「うわ、寿、キモい……っていうか、勝手に名前決めるな!」
「ヒサシのヒに、サエのサで、ヒサたん。仮名でいいじゃん」
「私は子供を二人も育てる気分だよ……」
そう言って、紗枝さんはこめかみを押さえた。
その後、紗枝さんの実家に挨拶に行ったり、両家で食事会をしたり。
当初、ドラマなんかでよくある、嫁姑問題でも勃発するのではないかと、心配していたが、実際は、世間話をするほど仲が良くて安心した。
それから、紗枝さんが会社を寿退社し、たまたま抽選で当たった、県営住宅に引越し、と多忙な日々を送っていた。
紗枝さんが妊娠中ということで、結婚式は身内だけで、出産後に落ち着いてからという事になった。
何事もなく、臨月に突入。
俺は、今日か明日かと、新しい家族が増えることを心待ちにしながら仕事をしていた。
「真部く~ん、電話だよー」
「はーい」
作業を中断し、事務所に入ると、受話器を差し出された。
「誰から?」
「何か、産婦人科だって……」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
確か、今日は検診だとか言っていたような……。
「お待たせしました、真部です……」
『椿産婦人科の藤山です。実は奥さんがですね……』
検診中に破水したので、そのまま入院、出産という流れになるらしい。
初産は、すぐに産まれはしないが、変わったことがあったら、また連絡すると……。
とりあえず、仕事を終えてから、病院へ行くことにした。
今すぐ行きたいけど、俺の方が取り乱して大変なことになりそうだし。
実家の母と、紗枝さんの母に、電話でそのことを伝えると仕事に戻ったが、やはり手に付かなかった。
仕事を早めに切り上げ、病室に駆け込むが、紗枝さんは、部屋の中をうろうろしていた。
「ちょっと、寝てなくていいの?」
「いや、病気じゃないし、陣痛こないと産まれないから……」
「……あ、そうなの?」
思ってた程、深刻な状態ではないらしい。
「でも、少しずつだけど、陣痛ついてきたから、明日あたりじゃないかな?」
「明日、仕事休もうか?」
「やだ! 恥ずかしい。来なくていい!」
即答かよ。冷たいな。
ドアをノックし、看護師さんが入って来た。おお、白衣の天使。
「失礼します。真部さん、変わったことはありませんか?」
「……あの、胎動が少なくなった気がするんですけど……」
「それは、羊水が少なくなって、動けなくなっているだけですから、心配はいらないです。ちょっと横になって、お腹出してください」
と、手に持っていた変な小型の機械を、紗枝さんのお腹に当てた。
すると、コスコス、と心音のような音が機械を通して聞こえてきた。
「……大丈夫です。赤ちゃん元気ですよ」
「よかった」
「お腹の張りはどうですか?」
「少しキツい時もあるんですけど……」
看護師さんは、紗枝さんのお腹を触っている。
「今も張ってますね。痛いですか?」
「痛いですけど、我慢できるぐらいです」
「陣痛の間隔が短く、強くなってきたら、分娩室に移動になります。ご主人さんは、立会い希望ですか?」
「はぁ……できれば……」
「ちょっと待て! 今来るなと言ったばかりだろう!」
看護師さんには丁寧に対応していたのに、突っ込みは素かよ。
完全に逆転している夫婦のやりとりに、看護師は噴出してしまった。
「まぁ、ご本人の意見で、外でお待ち頂くことにもなるかもしれませんが、変わったことがあった場合は、ご自宅か携帯、仕事中の時間であれば会社の方に連絡させて頂きます」
「仕事中は会社でいいですけど、夜は携帯の方が……」
「あ、そうですか。じゃ、携帯の方で」
紙ではなく、手にそのことを書き込むと、ペンをポケットに戻した。
「夜も、二時間置きに様子見に来ますから、何かありましたら、ナースコールしてください」
「はい」
失礼しました、と看護師さんが部屋を出た直後、紗枝さんにもの凄い形相で睨まれた。
俺が、紗枝さんの手が届く範囲に居たら、確実に一撃を食らっていただろう。
「寿さん、かわいい笑顔満点の営業顔は、やめてもらえますかな?」
紗枝さんは、不機嫌満点。他の女性に対してそういう顔をすると、とことん機嫌を悪くする。妊娠して腹が目立ちだしてから、特に指摘されるようになった。
彼女の不安要素でもあるのだと分かってはいるのだが……
「今はやきもち焼いている場合じゃないでしょ。この営業顔は生まれつきだから、仕方ないの。……それより、今日から紗枝さんのご飯が食べれない事と、一緒に居られない事の方が寂しい……」
真剣なお話の時も、敬称付きに戻ってしまう。紗枝さんの場合は、機嫌が悪い時だけど。
「出産後も実家に帰っちゃうし。一ヶ月だっけ?」
「それね、やめたの」
「は?」
「寿のお義母さんに来てもらうことにしたの」
「……え?」
いつそういう話になったの?
「寿の実家とアパート、近いじゃない。お義父さんが居るから、朝から夕方までなんだけどね。産後一ヶ月は家事しちゃいけないし、寿と離れたくないし……」
まぁ! 何てナイスアイディア! さすが紗枝サマ、仏様(?)。
紗枝さんの方からそんな事言うなんてめったにないから、更に嬉しかった。
「紗枝ちゃんカワイイ。レモンティあげちゃう」
病院に来る途中、コンビニで購入した、彼女の好きなレモンティを差し出した。
「励ましたり、こういうことするぐらいしかできないけど……がんばってね」
「……うん、ありがとう」
紗枝さんの顔にそっと近づき……
――コンコンコン
「真部さ~ん、夕食ですよ~」
「あ、はーい」
……タイミング悪ぃ。
「それじゃ、後で下げに来ますから」
「はい、どうも~」
食事をテーブルに置くと、看護師さんはすぐに退室した。
しかし、なんと豪勢な食事だろうか。ここ、本当に病院か?
「すごいでしょ。私も昼に驚いたわ。更に三時のおやつまであるのよ」
「ま! 三食、おやつ、昼寝付き?」
「回診も付いてるわよ。こういう調理法もあるのかー、って参考になるし、入院も悪くないわね」
入院したことないからよく分からないけど。
「食べれば? 話のおかずぐらいにはなるから」
「夜のおかずにはならないわよ」
「……その腹に欲情は……」
「まっ! 失礼ね。すぐにぺちゃんこになるんだから、生意気なこと言えるのも今のうちよ」
それから、消灯時間までずっと紗枝さんと話をしていた。
たまにお腹が張って痛いみたいだけど、産まれるには程遠いらしい。
コンビニで適当に弁当を買って、アパートに戻った。
念のため、すぐにでも出られるような服を着込み、着信音を最大にした携帯を頭元に置いて、寝た。
――早朝
けたたましく鳴り響く携帯。
もしや、と思い、飛び起きて携帯を手に取った。
……アラーム。びっくりさせんなよ、っていつも携帯を目覚まし代わりに使ってるんだった。
あと四回は鳴るから、二度寝でもしようかと、布団に入り直すと、再び携帯が鳴った。
今度は着信。『椿産婦人科』と表示されている。
自分が番号を登録した覚えはない。紗枝さんがこういう時のために、勝手にメモリーに入れていたのだろう。
「はい、真部です」
『おはようございます、椿産婦人科です。今から来院できますか?』
ドキリとした。
ウチの親父、あれでも医療関係者。少し前、出産で母もしくは子供が死ぬこともある、と一度だけ聞いたことがあった。その時は聞き流したけど、今になって急に不安になってきた。
「すぐに行きます」
『来られたら、裏口のインターホンを鳴らしてください……』
病院に向かう車の中、体の震えは止まらない。
悪い方にばかり考えてしまう。健康だけが取り柄の紗枝さんに限って、そんなことは……。
俺がこんなじゃダメだ! 紗枝さんの方がもっと不安なはずだ。
病院に到着すると、紗枝さんはすでに分娩室に入っていた。
腹に、見た事のない機械を取り付けられ、心電図のような物へ繋がっている。
腕には、点滴。まさか、最悪の事態じゃないだろうな?
近くに居る看護師を捕まえ、状況を聞いた。
「あの……どういう状態なんですか?」
「陣痛の間隔が、夜の間に一気に狭まって、……今は七分から八分の間隔ですね。順調に進めば昼ぐらいには産まれると思いますよ」
陣痛の間隔、心電図らしき物から吐き出される紙を見て言ってたから、そういう機械なのだろうか?
「奥さんを励ましてあげてください」
「……はい」
ゆっくりと、紗枝さんが横たわる分娩台に近づくと、押し殺すような悲鳴が、微かに聞こえた。
「紗枝……」
「……っぅぅ」
「痛いですか? ゆっくり、長く息を吐いて……フー……フー……そう……」
もう一人の看護師が、紗枝さんの腰を撫でながら、励ましている。
俺は、ただそれを見ていることしかできなかった。
険しい顔をしていたが、徐々に穏やかな顔に戻る。
「何で来たの?」
いきなりそれか。
「そりゃ、心配で……」
「真部さん、体戻せますか?」
「はい……」
重い体をゆっくりと動かす。
「足乗せてください」
……手、突っ込んでませんか?
「もう全開ですね、頭出だしてますよ」
アタマ!!
考えただけでも眩暈がしそうだ。そんなデカいモノが出るのか?
「先生は?」
「もうそろそろ来ると思いますよ」
看護師たちの話だけで、こっちが先に気を失いそうだ。
「こっちは足だけ産まれちゃいましたよ」
「あら、本当?」
そんな、ほのぼのと会話しないでください!
……隣の分娩室にも誰か居るのだろうか? 足からって、逆子? 祐紀と同じだな。
「紗枝、ちょっと電話してくる。大丈夫?」
「……ぅぅぅぅぅぅ」
それどころじゃないらしい。
うちの実家、紗枝さんの実家、それから会社の専務に電話を掛けた。
両家の母さん'Sは、落ち着いた様子で、すぐに行くとのこと。さすが出産経験者、さっぱり取り乱さない。
会社の方も、急ではあったが、有給扱いにしてくれるとのこと。
一応、会社の後輩にも連絡入れとくか。
電話を終え、分娩室に戻った途端に倒れそうになったよ。
既にスタンバイOK。足に変な袋を掛けられ、固定されている。
先生も到着していて、いい場所に座っている。
「ご主人さんは、奥さんの肩をしっかり押さえてくださいね」
いきなりそんなこと言われても、急展開すぎて頭がついてきません。
「吐いて……吸って……いきんで!」
な! こんな……。
肩を押さえるだけだと思っていたのに、予想を上回る力で押し返される。
こんなバカ力、どこに秘めてるんですか!
いきむ度に体を押さえ込む。何度も何度も。
……今、豚肉をはさみで切ったような感触が……
「ゆっくり息吐いて……」
それを合図に、紗枝さんの表情が緩んだ。
「……ギャ……ンギャ……」
「十一時三十八分、女の子ですよ」
取り出された子供が紗枝さんの上に乗せられた。
「うわ……ちっちゃい」
あなた、さっきまでヒーヒー言ってたのに、むっちゃ元気やね。
俺は声さえも出なかった。ただ、二人が生きているということだけで十分だった。
頬を熱いものが伝う。見られまいと、必死に涙を拭った。
「寿、泣いてんの?」
「違うわい! 目から汗が出たんだよ」
「ほら、ちゃんと赤ちゃん見てよ。殺人でもしなきゃ、こんな血まみれ二度と見れないわよ」
「縁起でもないこと言うな!……うわ、なんじゃこりゃ!」
ふと視線を向けた点滴の管、上のパックは透明の液体が入っているのに、管の途中から血が混じっている。
「踏ん張りすぎて逆流してるよ。すっごいなー」
貴女の怪力っぷりが一番凄かったですよ。
「赤ちゃんキレイにしてきますから、連れて行きますね」
「処置しますから、ご主人さんは外でお待ちください」
ヨロヨロと分娩室を後にすると、待合室で、母さん'sが世間話をしていた。
俺に気付いた母は、驚いた顔をした。
「あんた、冗談じゃなくて本当に立ち会ったの?」
「……うん。こっちが先に倒れるかと思ったけど、感無量です。いい経験しましたわ」
「男の子? 女の子?」
「女の子ですよ」
「じゃ、次は男の子ね」
もう話はそっちに行ってるのかよ。次はもう立ち会わないぞ。
「私、男の子は育てたことないんだけど、どんな感じでした?」
「小学校上がるまで、病院ばかり駆け込んでましたのよ。急に熱出したりして。寿の妹は放っておいても育ったわ。おとなしいし、男の子に比べたら簡単なものよ」
アレ(祐紀)がおとなしかったって言われても、今じゃあんなのになっちゃって、簡単なのは子供の頃限定なんだろうな。
しばらくして、再び分娩室に呼ばれ、おかん'sと共に紗枝さんの所へ行った。
先程産まれたばかりの赤ちゃんも服を着せられ、プラスチック製(?)のベッドに寝かされていた。
「紗枝さん、お疲れ様。大変だったでしょ?」
「それはもう死ぬかと思いましたよ。でも、無事に産まれたからそれだけで十分です」
「どっちに似てるかしら?」
紗枝母は、娘より孫に夢中だ。
声に反応したのか、赤ちゃんは一度目を開け、閉じた。
「……んー、寿くんの目っぽかったわね?」
「そうですか?」
うーむ、よく分からないが……。
「抱っこしてみたら?」
「いやよ、こんなに小さいのに、抱っこしたら壊れそうじゃない」
「もう二十年も赤ちゃんなんて抱っこしてないから……」
おかん'sは抱っこできない代わりに、手や顔を突っつきまくっていた。
「じゃ、また明日来るわね」
待合室まで二人を見送りに出た。前から思ってたけど、昔からの友人のように仲がいいな。
「昼食、食べに行きませんか?」
「あら、いいですね」
こっちとしては、仲がいい方がいいけどさ。
ああ! 俺、朝も昼も食ってない!
「あ、ご主人さん、朝と昼の食事があるんですけど、分娩室に持って行きましょうか?」
看護師さん、ナイスタイミング!
「はい、お願いします」
それから、紗枝さんと一緒に、少し遅い昼食をとった。
三時前まで、分娩室で体を休めた後、個室へと戻った。
今日一日は母体を休める為、赤ちゃんは新生児室で看護師さんが見てくれるらしい。
「何か、欲しいものある? 買ってくるけど……やっぱりアレですか?」
「ううん、今はいい。できれば、私が眠っている間に行って欲しいの」
手を伸ばし俺の手を握り、反対の手は目を覆った。
「本当はすごく怖かった。お腹、すっごく痛くて、なのに誰も居なくて心細かった。もう私、死んじゃうんじゃないかって、怖くて……怖くて……」
最後の方は、声が震え、手も微かに震えていた。
「俺も、怖かった。でも、もう大丈夫だから……」
紗枝さんの唇にそっとキスをした。
出会えたこと、愛し合えたこと、生きていること、貴女が俺の側に居てくれること、全てに……
「……ありがとう」
それから間もなく、彼女は眠ってしまった。
起こさないようにそっと手を離すと、静かに部屋を後にした。
とりあえず、会社にでも報告に行きますか。
社員全員にデレデレと自慢話をぶち撒いていると、妻子持ちの先輩に鋭く突っ込まれた。
「こんなちっちゃくて、お肌プニプニで、可愛くてたまんないの~」
「男? 女?」
「女の子ですよ」
「女の子なんだ。じゃ、早いんだな、お前」
「ええ?!!」
何それ……何でバレるの? 新手の産み分け方法? 先に教えてよぉぉぉ。
しばらくの間、会社では『早撃ちの寿』と呼ばれることになった……。
これから、新たな家族を加えた、三人の生活が始まる……。
「え、処置? あのね、プスプスっと麻酔打たれて、針と糸で縫い合わせんの。
はさみで切られたのもばっちり分かっちゃって、うおぁ! 切られたぁ、って思ったけど、それどころじゃなかったわね。
陣痛の痛みって、はさみで肉切られても何とも思わないぐらい、とにかくすごいのよ」
「もうやめて、気持ち悪い……」
思わずリアルに想像してしまった……。
**終わり**