002・鍋兄 紆余曲折
俺が、彼女に初めて会ったのは、大学一年の時……。
当時、付き合っていた恋人と、一緒に入ったサークルで、出会った――。
「私、結城紗枝。よろしくね」
面倒見のいい年上のお姉さん、のような笑顔で俺たちに手を差し出し、握手を交わした。
彼女は二つ年上で、苗字が妹と同じ名前<ユウキ>で呼びづらいという理由で、俺はいつも『紗枝さん』と呼んでいた。
あっという間に二年は過ぎ、彼女は無事に卒業、就職した。
――それから、一年と五ヶ月が経過した。
大学に進学してから、実家の近くではあるが、一人暮らしをしている俺、真部寿。
夏休みに入ってから、ナゼか毎週のように飲み会に誘われ、昨日も宴会で、帰ってきたのは朝方だった。
とりあえずシャワーを浴び、ベッドに倒れ込むと、すぐに意識が途切れた。
――ピンポーン
――ピンポーン
――ピンポーン、ピンポーン、ピポピポピポピポーン
ウルサイ。
――ドンドンドンドン
「やっかましぃわ! 誰だ、こんな朝早くから訪ねてくるバカは!」
無視していたらそのうち帰るだろうと思っていたが、いつまで経っても諦めない相手。追い返してやろうと思い、ベッドから飛び起き、玄関の戸を勢いよく開けた。
「近所迷惑だぁぁぁ! 俺はさっき帰ったばかりなんだ、気を利かせて帰れ!」
相手は、ビックリして、目をぱちくりさせていた。
「……ん? ――誰?」
男友達が来たものだと思っていたが、俺の前に居るのは女性だった。部屋を間違えたとかだったら、怒るよ?
「誰ぇ?」
不機嫌そうな表情と声。どこかで……。
眠気と怒りは一気に冷め、逆に恐怖心が支配し始めた。
「あ……あわわ……紗枝…さん?」
彼女はニコリと笑った。嵐の前の静けさか? パンチを食らうぐらいは覚悟していたが……
「もう10時過ぎてる。朝早くはないハズだけど? それに、バカではないわ」
出る前に言った、独り言まで聞こえていたのに、笑顔のままだった。何か企んでいるのか?
「えと……卒業以来ですね。お元気そうで。所で、一体何の用事でしょうか?」
とりあえず、機嫌を損ねないように、最低限の礼儀として挨拶をしてみた。
すると彼女は、後ろ手に持っていた大きめのカバンをズイと差し出して……
「家賃滞納で追い出されたの。しばらく泊めて欲しいんだ」
な、なにー! お泊りセットだとー!
「いや、あの……普通そういう場合は、女友達の所に行きませんか?」
「友達……。みんな彼氏と同棲中よ! 泊まる隙間もないんだから」
そう言いながら両手で顔を覆い、頭を左右に振った。
「で、何でウチなんですか?」
「融通がきく良い後輩代表で、みごとに選ばれました」
うわ、何て適当な独断専行なんでしょう。
「いや、それでも俺、一応男ですから、そういうのは……」
「貞操を気にしているのならお構いなく。そういうつもりで来たわけじゃないから」
気にするような貞操は、すでに持ち合わせておりません。
っていうか、そういう気で来たとかだったら、ドア閉めますよ。
「じゃ、二、三日でいいから、ね。お願い」
彼女は、両手を合わせて、頼み込んできたが、すぐにやめ、顔を覗き込んできた。
「もしかして、もしかしなくても、彼女来るよね……。やっぱ、マズいか」
「いや、彼女はいないけど……」
再び目をぱちくりさせ、
「……いないの? だったら問題ないわね」
「あの、ちょっと……」
俺の話、ちゃんと聞いてくれよ!
彼女は、玄関を塞ぐ俺を強引に押しやると、勝手に入って行った。
強引な所は、ちっとも変わってないんだから。
部屋を見回している、紗枝さんを見ながら、ため息をついた。
「相変わらずきったない部屋ね。ウジが湧くわよ」
そう言ってカーテンを開けると、散らかった物を片付け始めてしまった。
これでもキレイな方なんだけど、本当に居座るつもりなのだろうか。
「電話でもして来てくれれば、キレイにしてましたよ」
「ああ、それもそうね」
絶対する気なかっただろう。電話で泊めてくれって言われても、普通断るからな。
「それから……私、一応女だから、その格好はどうかと思うわけよね……」
格好? 視線を下に向けるが、いつもと変わらず夏の就寝スタイルだ。タンクトップにパンツ……。
「おあ!」
慌てて、その辺に脱ぎ散らかされていた半パンを穿いた。
「足、短いのね。がっかり」
しっかり見てるじゃないの。足が短いんじゃなくて、
「腰履きしてるだけです!」
「パンツまで腰履きする時代なの? Tシャツめくったら、覗いてそうじゃない?」
「いや、常時上を向いている訳じゃありませんから……」
「あ、それもそうね……そういえば、眠いんじゃないの? 寝てもいいわよ」
しかし、眠気はすっかり覚めている。
「いや……」
「寝込みを襲いはしないわよ」
襲われても困りますって。やっぱり、追い出そうかな。
「髪……」
髪?
「下ろしてるの、初めて見た……と思って」
いつも念入りにセットしてるからな。時間と出費がかさむけど。
「そのままで十分なのに……」
クスクスと笑った。
オシャレしたい年頃なんだよ。放っといてくれ。
「お! エロ本発見!」
「うわぁぁ! ちょっと!」
見られる前に隠そうと思ったが、俺の手が届く前に紗枝さんが手にした。
素早く俺に背を向けると、パラパラとめくりだした。
「おーお……あらあらあらあら、まあまあまあ!」
本を閉じると俺の方を向き、ソレを差し出した。
「お姉さん、こういうの好きじゃないわ」
だったら見るなよ! と言でもいたかったが、無言のまま引きつった笑顔で本を奪い取った。
「昼ご飯、どうする?」
いつも実家に食べに行ってるけど、さすがに紗枝さんを連れて行く訳にはいかないし……。
「コンビニ弁当でどうですか?」
ティッシュの箱が頭に炸裂した。
「こっちは真面目に聞いてるんだ、ふざけるな!」
あはは……いつもの紗枝さんだ……。
「じゃ、どうしたいんですか? 外食はお金が掛かりますよ」
家賃滞納したぐらいだから、金は持ってなさそうだし。
「そうだな……。私が腕を振るおうかな」
一人暮らしの女性だから(だったから?)、料理ぐらいはできるだろうけど、本当に大丈夫かな?
「道具があればの話だけど」
最低限の調理道具だったら、今はもう使ってないけど……前の彼女と一緒に買いに行ったから、あるけど……。
「ありますよ。随分使ってませんけど」
「そ。じゃぁ、材料買いに行ってくるわ」
バッグを持って立ち上がり、一人玄関に向かう。しかし、何かに気付いたように、くるりと向きを変えた。金でも請求されるのか?
「逃げたり、居留守使うのは禁止だからね」
「はいはい」
そんなことをしたら、後が怖いって。
三十分ぐらいして、紗枝さんは買い物から戻ってきた。
「調理道具、洗っておきましたから、好きなものを使ってください」
「う〜ん、さすが真部。気が利く〜」
してなかったら、あの人の性格上、何で洗っておかないのか、とか言われそうな気がしたからね。
「ご飯は炊くと時間掛かるから買って来たんだ。ちゃちゃっと作っちゃうから、ちょっと待ってて」
そう言って、袋から材料を出し、何かを作り出した。
――トントントン、とリズムのいい音がする。
前もこうやって料理が出来るのを待ってたっけ……。懐かしいな。
目を閉じると、つい最近のことのように思い出せる。
でも、彼女は俺の元から去っていった。
「真部、彼女いないって言ったよね?」
丁度、浸ってる時にタイミングよく突っ込むか。
「いませんよ」
「私が在学中には、いたよね?」
「いましたね」
「ふ〜ん……」
それ以上聞かなくても、紗枝さん不在の一年五ヶ月の間に別れたということは分かるだろう。
「紗枝さんは……」
「ん?」
「彼氏のかの字もなかったですね。ここに来たってことは、今も彼氏はいないんですよね?」
ここで何かが飛んでくるはずだ。……あれ?
「……いないし、作る気ないの」
「どうしてですか?」
「ずっと、片思い中だからよ」
その性格からは想像もできないような、片思いをするという繊細な心をお持ちだったんですね。どちらかと言えば、強引に奪い去ってしまいそうな気がするのだが……。
「ウチに来るより、その人の所に行った方が良かったんじゃないですか?」
「…………」
紗枝さんは何も言わなかった。もしかして、その男、彼女がいるとか、奥さんがいるとか?
「……そうかもね」
相方あり? やはり、片思いの相手の所に行けない理由でもあるのだろう。
「どんな人ですか? 紗枝さんの片思いの相手……」
「真部が知ってる人。それ以上はヒミツ」
俺も知ってる人? 誰だろう、紗枝さんに好かれた哀れ……いや、幸運なヤツは。
それから間もなくして、昼食が出来上がった。
さすが一人暮らしをしていただけに、味は格別だった。
実際、美人で面倒見のいい人だし、こんなに料理も上手い。ちょっと性格がクラッシュしているような気がするけど、彼氏がいないのがおかしいぐらいだ。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「そう? よかった」
彼女は笑顔で答えた。
夕飯も紗枝さんの手作り。これもまた美味くて、おかわりしちゃったぐらいだ。
問題はこれからだった。
「お風呂……どうします?」
このアパート、トイレと風呂が別なのはありがたいが、配置場所に問題がある。
トイレは玄関の横、風呂は今居るこの部屋に入り口があり、脱衣所なんてものはない。
もちろん、玄関に通じる廊下(?)に配置されている、簡易キッチンと部屋を仕切る扉もなく、いかにも一人暮らし専用といった感じだ。
「外で時間潰してきましょうか?」
「……その方がありがたいかな」
「じゃ、ついでにコンビニでビールでも買ってきます。何分ぐらいです?」
だいたい三十分ぐらいだと言われ、俺はサイフと携帯、タバコ、それから鍵を持ち、ドアの鍵をしっかり閉めてから、出掛けた。
コンビニで三十分ぐらい本を立ち読みして、それから店内で買い物を始めた。
ビールにはつまみがいるだろうと、適当にお菓子を選び、お惣菜を物色。ふと隣のデザートやパックのジュースコーナーに目が行った。見覚えのあるパッケージを見て、昔のことを思い出した。
――いつもそれ、飲んでますね?
『うん、好きだから、いつも買っちゃうんだ』
紗枝さんが部室でいつも飲んでいたパックのレモンティ、今でも好きだろうか。
ま、いらないと言われたら、俺が飲めばいいだけだし。
お惣菜を選ぶのをやめ、ジュースを手に取り、カゴの中に入れた。
部屋を出てから四十五分が経過した頃、アパートに到着。
鍵を穴に差し込むが、開けて入っていいものだろうか……。やはり呼び鈴を押すべきか?
……自分の部屋なのに、ナゼそこまでしなきゃならないんだ。タイミング悪けりゃ、チェーンが掛かってるか、物がすっ飛んでくるだろう。
ためらいながらも錠を外しドアを開けると、紗枝さんは目の前にある薄暗い簡易キッチンで、水を飲んでいたので、飛び上がりそうになった。
「おかえり。遅かったね」
心臓に悪い。実は襲う気満々なんじゃないかとさえ思った。
いくら真夏で……風呂上りで暑いからって、キャミソールワンピ? その上、髪がしっとりと濡れて、色っぽい……これは反則! 目の毒だ。
……襲う気満々じゃなくて、襲われる気満々か? これじゃ、二、三日の間に、こっちが狂いそうだ。
「渋滞してました」
「んなバカなことがあるか!」
「駐車場が混んでて……」
「ペーパードライバーじゃなかったっけ?」
「おっしゃる通りです」
目のやり場に困り、どうでもいい嘘ばかり吐き出す始末。
「じゃ、今度は私が出掛けるわ。どのくら……」
「ちょっとまった! 最近、変な輩が多いんだから、そんな格好で出たら襲ってくれって言っているようなものです。部屋でおとなしくしておいて下さい」
紗枝さんは、ぽかーんと口を開けて、目を白黒させた。
彼女の身を守る方法としては、間違えていない意見ではあるが、俺がこれから風呂に入るとなると、そういう意味で言った訳じゃないのに大胆不敵、極まりない。
……朝、シャワー浴びたから風呂は諦めるか。
「分かったわよ。そんなに言うなら、ベランダで涼んでるから」
くるりと向きを変え、ベランダの方に行ってしまった。機嫌を損ねただろうか?
カーテンと網戸を開けると、サンダルを引っ掛け、こちらに向き直った。
「……私もこんな格好で出掛けるのはどうかと思ってたんだ。ありがと」
そう言って微笑むと、カーテンを引き、窓を閉めた。
……あ、レモンティ。
ビールを冷蔵庫に入れると、レモンティとストローを持って、カーテンと窓を開けた。
「紗枝さん……これ、どうぞ」
ベランダの柵にもたれ掛かっていた彼女がこちらを振り向くと、湿った髪が風に流されドキリとした。紗枝さんは、俺が差し出した物を見て驚いていた。
「あれ? 私がコレ好きなの知ってたっけ?」
「部室でよく飲んでたじゃないですか」
「覚えててくれたんだ、ありがとう。……いただきます」
彼女はとても嬉しそうに、俺の手からジュースを受け取った。
風呂をいつもより早めに済ませ、服も当たり前に着ると、ベランダに居る紗枝さんに声を掛けた。
「もういいですよ」
「うん、真部もおいでよ。夜風が気持ちいいわよ」
「……じゃ、ビールでも持ってきます」
ああもう、一体どういうつもりだ。無防備すぎて、こっちが構えちゃってる状態だよ。これは、飲んでさっさと寝るに限るな。
ビールを二本持ってベランダに出ると、一本を紗枝さんに渡した。柵にもたれ掛かると、自分の缶を開け、口を付けた。
空を仰ぐと、満点の星空が目に飛び込んできた。しばらく見つめていると、隣に紗枝さんが来て、空を見上げた。
「キレイね……」
「そうですね……」
会話は、それっきり途切れた――。
ビールを飲み終え、部屋に入った。
ああ、恐怖の就寝タイム……。
「ベッド使っていいですから」
「ありがと……でも、真部はどうするの?」
「その辺で雑魚寝しますからお構いなく。とりあえず、夜中に踏まないでください」
そう言って、ベッドから離れた壁側に転がり、紗枝さんの方に背を向けた。
「……電気、消すね」
「はい」
目を開けていても真っ暗になった。
酒の勢いでそのまま寝てしまおうと思っていたのに、逆に目が冴えてしまい、頭の中で自問自答を繰り返していた。
あー、マジでこれからどうなるんだろ。自分が許可しちゃった……いや、押し切られたんだけど、これが二、三日? たった二、三日か、それとも俺の気が狂うのが先か……。
友達んとこに行った方が良かったかなー。……明日はそうしよう。とりあえず、寝てくれ、ヒサシ……。
思考を止めると、モゾモゾという音が耳についた。
布団とか、枕が変わると、眠れないタイプか? 俺もだけど。
その音は次第に近く、大きくなり、重さを残してまた小さくなったけど、今度は体の内側から聞こえる音が大きく、激しくなった。
俺の体が感じ取っているのは、掛け布団の重さ……人の温かさ……。
まーさーか……。
おっおっ襲われる寸前、大ピンチ?
いやん、バカん、そんな訳がない。落ち着け! きっと酔ってるんだよ。そういうことにしようじゃないか。
「か……風邪ひくといけないし……」
微かに声が震えている。それに、紗枝さんはこんな恋する乙女な喋り方をしない。酔っているということで、手を打とうじゃないか。
明日の朝、ぶん殴られて、すっきり爽快な目覚めが待っているはずだ。
あはは。俺って早とちりさん。
……マジ襲われるぅぅぅ、あひー! ヒーちゃんやっぱり大ピンチ!
体の準備はできてますけど、心の準備ができてません! 遊びでできる程の器もないし、紗枝さん片思い中だし、年上だし、怖いし……。
あああ、混乱してるぞ、俺。とにかく寝てしまえ!
……って、寝れるほど、がさつな性格じゃないぞ!
意識は、完全に後方の紗枝さんに向いている。
息遣い、体温……背中に添えられている手……。
ど……どうなっちゃうの、俺……。
――二日目
自分が、こんなに繊細な男だったとは、初めて知りましたよ。
結局、一睡もできないまま、壁の方を向いて固まっていた。
今日は絶対ビール飲ませないぞ……いや、友達んとこに逃げるぞ……。
六時間以上ずっと同じ体勢だったせいで体が痛い。紗枝さんを起こさないように、そっと抜け出すと、体を伸ばし、時間を確認した。
外はずいぶん明るいが、まだ六時前。
ベランダに出て朝の一服。
部屋の中に戻っても、紗枝さんはまだ寝息をたてている。
冷静になって、昨日の事を考えてみた。
家賃滞納で追い出され、住むところがない。でも、二、三日? ……絶対、数週間とか居座りそうな気がしてならないのだが……。
片思い中、でもソイツの所に行けない理由あり。
なのに、酔いの勢い(?)で……添い寝。
……顔が熱だしたー! 頭出して寝たから、耳からウイルスが入って、脳みそが風邪でもひいたのだろう。
――んな訳あるか!
「んー」
うわぁ!
体が強張り、心拍数が一気に上昇した。
寝返りを打って、こっちを向いただけか……びっくりしたー。
それにしても、出るところ出ちゃっていやらしい。谷……どこ見てんだよ!
もうちょっと考えて服着て欲しいな。こちとら、(多分)健全な男子、変な気起こしても知らないぞ。……ま、そんな度胸はないけど。
しかしまぁ、朝から元気ね、ヒーちゃん二号……。
ちょっと早すぎる気もするけど、洗濯にでも行くか。
昨日、紗枝さんが片付けた時に、至る所から出てきた洗濯物を袋に詰めて、アパート住民兼用の、洗濯場に行った。
部屋に居ても、また変なこと考えそうだったので、洗濯が終わるまでタバコを咥え、じっと洗濯機の前に座っていた。
洗い終わった洗濯物を持って部屋に戻ると、すでに彼女は起きていた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
自分に対しては、イヤミなセリフではあるが。
「おはよ。うん、よく眠れた」
そりゃぁ良かったね。俺はどうでもよかったけど。
「で……何で私、ココで寝てたの?」
覚えてないってことは、やはり酔ってたのか。しかも、記憶が飛ぶタイプ。
「寝相、悪いんじゃないですか?」
とてもじゃないが、真実は言えない。後で、襲われたって騒がれても迷惑だ。
「そかな……?」
彼女は首を傾げ、考え事を始めたようだ。
紗枝さんが朝食の支度を始めた頃、俺の頭はぼんやりしてきて、眠気のピークを迎えていた。
昨日もまともに寝てないうちに、紗枝さんが来て、昨日の夜は血圧上がっちゃって……も、ダメ……。
一人で喋っているテレビの音が、どんどん小さくなり、意識が途切れた……。
まだテレビが喋ってる。消し忘れたんだっけ?
テレビを消そうと、仕方なく目を開くと、人間の後頭部が視界に入った。
――誰? 泥棒? くつろぎすぎ。
泥棒は撃破するべきか、追い出すべきか……いや、待て。
ようやく、意識がはっきりしだして、それが誰なのかが分かった。気付くのが遅かったら、こっちが撃沈していたであろう。
「……何時ですか?」
一瞬とはいえ、泥棒と勘違いされた紗枝さんは、顔だけこちらを向け、六時だと教えてくれた。
俺は十二時間近く寝ていたのか? そういえば、紗枝さんが朝食の準備をしている辺りで……。
「すみません、朝ごはん……」
「あ、気にしないで。昼に食べたから」
そーっすか……。
「昨日、寝てないの?」
「いや……」
正直に言えるはずもなく、酒のせいにして適当に誤魔化したが、その言い訳は逆に紗枝さんを不満にさせただけだった。
「何か、隠してない?」
「気のせいですよ」
「ま、いいわ。夕食の準備するから」
その言動は、少し拗ねたようにも見えた。
「私、明日仕事だから、七時半には出るから」
「はいはい、了解しました」
夏休みですっかり曜日の感覚がマヒしてて気付かなかったけど、明日は月曜日か。
夕食、風呂は昨日と同じく事無く終えたが、問題の就寝タイム再び……。今日は逃げるぞ。
適当に友達へ電話したが、市外に飲みに出てるとか、ラブホだとか、風俗だとか、キャバクラ、デリヘル、メイドカフェで萌え萌え、圏外、料金滞納で繋がらない、彼女んちにお泊りでちゅ? ふざけんな! 結局、誰一人捕まらなかった。
おかげで、風呂上りに一人、やけ酒を食らうハメになった。
紗枝さんはというと、今日はおとなしくベッドで寝ていた。
――三日目
昨日は酔いつぶれて、テーブルに突っ伏したまま寝てしまったようだ。
「ちょっと、そんな所で寝てたら、風邪ひくわよ?」
朝、紗枝さんに揺すり起こされた。
顔に付いたヨダレを拭うと、とりあえずベッドまで移動し、そのまま倒れ込んだ。
「飲みすぎ。体壊すよ?」
その前に、精神とか理性が壊れそうだよ。
「……鍵……」
「……は?」
顔を布団に埋めたまま、指だけをタンスを差した。
「一番上の右、鍵あるから、持って行って」
「……う、うん……」
もう、紗枝さんが出掛けた後に鍵を掛けに行く元気もない。何時に帰ってくるか知らないけど、俺が居なかったり、寝てたりしたら、入れないだろうと思い、前の彼女に突き返された鍵を持たせることにした。後で裏目にでなきゃいいけど、今はそれどころじゃないし……。
また意識が遠くなっていった……。
昼を過ぎた頃に目が覚めたが、特別することもなく、布団の上でゴロゴロしたり、枕に顔を埋めて……俺は変態か!
本来、自分の物である、ソレを放り投げ、床に降りて座り込むと、頭を抱えた。
自分の寝具ですら、まるで他人の物のように思え、急に落ち着かなくなった。
実家から、客布団一式持って来るにも、親に怪しまれそうだし、本当に数日だけなら、わざわざ布団までいらないだろう。二、三日って向こうが言ったんだから、明日にも別の所に行くはずだ。
他人のことまでいちいち考えていられるか!
顔を上げると、テーブルの上にラップの掛かった皿が置いてあることに気付いた。
朝、俺が食べなかった朝食だろうか?
ベーコンエッグにタコさんウインナーの野菜サラダ付き。いつも、学校に行く前にコンビニで適当に買って食べるぐらいだったから、実家にでも居ないと食べれないような物だ。この年になって、タコさんウインナーを食べることになるとは思いもしなかったけど。
やっぱり、紗枝さんにとって、俺は弟のような存在なのかもしれないな。
テレビをつけても、昼ドラぐらいしかやってない。
ゲーセンじゃ金が掛かるから、漫画喫茶に涼みに行き、ついでにオカズ探しと称して、ちょっとエッチぃ漫画を適当に読み漁っていた。
熱中していたのか、気付けば時計はすでに六時を回っていた。
仕事って、定時だったら五時退社だよね? 向こうが勝手に居座っているとはいえ、遅く帰ったら小言でも言われそうな気がするから、急いでアパートに戻ったけど、紗枝さんはまだ帰っていなかった。セーフなのだ。
適当に片付けをして、紗枝さんが戻るのを待っていたが、一向に帰ってこない。
そもそも、やりたかった職業に就けたとは聞いたことあるけど、何の仕事をしているのか知らない。残業だとか、仕事でトラブルがあったのかもしれない。荷物もまだここにあるし、そのうち帰ってくるだろう。
ニュース、バラエティ番組、ドラマ、またニュース……。
まだ戻ってこない。
帰る途中で何かあったのだろうか? でも、会社がどこか分からない以上、どこへ迎えに行けばいいのか、どこを探せばいいのか検討もつかない。
只々、ひたすら待ち続けるしかなかった。
……いや、もしかしたらすでに次に泊まる場所が決まって、そっちに行ってるのかもしれない。例えば、片思いの相手の所とか……。
俺……何か変じゃないか?
さっきから、紗枝さんのことばかり……。落ち着かなくて、タバコばかり吸ってる。二日、三日一緒に居ただけで、情が移ったのだろうか。
でも、彼女にはずっと思っている人がいる。理想も高そうだし、俺は年下で頼りない……。
胸がズキリと痛む。
いつから俺の中でそんなに紗枝さんの存在が大きくなってしまったのだろうか……。
玄関の方から、金属音が聞こえた。
――紗枝さん?
玄関の方をじっと見つめ、扉が開き、彼女が元気な声でただいま、と言ってくれることを願った。
扉は開いた……。
「いやースマン。すっかり話し込んじゃって」
予想以上に元気ですね……。
「何だ〜? 変な顔して……。腹空かした子供みたいだよ?」
――グ〜キュルル……
そういえば、ご飯食べてない……。
「待ってないで何か食べればいいのに」
と言って、彼女にオデコを突付かれ、顔が一気に温度を上げた。
今まで平気だったのに、意識しだした途端、まともに顔がみれなくなってしまった。
「お腹空き過ぎて、言葉も出ないか? 仕方ないな〜。お姉さんが晩御飯を作ってあげるから、機嫌直しなさい」
今の言動で確信した。俺は弟のような存在であっても、それ以上ではないと……。
「……何か、元気ないわね。二日酔い?」
黙ってご飯を食べているのがそんなに変なのだろうか。
「ハートブレイクですよ……」
「あらま、失恋? 今度はどこの誰?」
女というのは、こういう話がやたら好きな生き物だな。
「……紗枝さんがよく知ってる人です」
どこかで似たようなセリフを聞いたような……。
「んじゃーサークル関連か……やーちゃん、さっちゃん、ゆいちゃん……」
在学中にサークルに居た女の名前を片っ端から言い始めた。記憶力抜群だな。でも全部ハズレですよ。
「さぁどれだ?」
俺も忘れていたような女子の名まで全て言い終えた。一人ご本人様をお忘れですが、まぁいいか。
「ご想像におまかせします」
「そ? ザンネン……あ、そうだ。私明日から別の所に行くから。どうもお世話になりました」
また、胸がズキリと痛んだ。
……いや、もしかしたら紗枝さんへの思いは勘違いで、居なくなってしまったら何ともないとか、離れてしまえば忘れるのかもしれない。ただ、近すぎて意識したに過ぎない……かもしれない……。
この恋は勘違いでした、で強制終了だ。
今日もまた、眠れない。
タバコを咥えたまま、ベランダに座り込み、空を仰いだ。
星がとてもキレイだ……。
今の気分と同じく、視線を落とし、タバコの火を見つめた。
自分じゃ、どうしようもないことなんて、たくさんある。前の彼女が俺の元から去った時も、止めようがなかった。
今だって、紗枝さんを引き止める口実がない。真実を告げた所で、彼女がここに留まる保障もない。
「何がしたいんだ、俺は……」
ボソリと呟き、瞳を閉じた。
『結城センパイと仲良すぎじゃない?』
――そうか?
『名前で呼んでるし、何か怪しいもん』
――何だよ、やきもちか?
前の彼女との関係が崩れた理由は、結城紗枝、彼女の存在。
確かに仲は良かった。でも、そういう感情は一度たりとも抱いた事はなかった。だから、今の自分が分からない。今更……今頃になってなぜ……。
「真部?」
……紗枝さん?
自分が感情的になって、紗枝さんを困らせることはわかっていた。だから顔さえも上げず、動かなかった。
「私がここに来てから、ずっと不規則な生活して、本当に体壊すよ?」
「……もう、十分に病んでますから……」
喉の奥まで、言葉が出かかっている。必死に口を結び、飲み込んだ。
「……そう……でも、無理しないようにね……。おやすみ」
その優しさが、更に愛しさを駆り立てる。
あの日の温もりが蘇り、心を支配する……。
――俺は……貴女が好きです……。
――四日目
紗枝さんが来て三度目の朝。
「ほ〜ら、起きた、起きた! 朝ごはんの時間ですよ〜」
床で雑魚寝していた俺を、乱暴に揺すり起こしている。
今日で最後……これが最後の、彼女手作りの食事。
「今日はフレンチトーストにしたんだけど、甘いもの大丈夫?」
「今だったら、砂糖をたっぷり、さじ(スプーン)に盛られても食べますよ」
「あら、言うじゃない?」
また、無言の食事。
昨日のような、紗枝さんの突っ込みすら入らない。
テレビだけ、賑やかにノンストップで喋り続けていた。
もうすぐ、彼女の出社時間。二人で居る時間もあとわずか……。
「そういえば、昨日借りた鍵、返すの忘れてたね」
ようやく口にした言葉は、聞きたくなかったことだった。持ってて、と言いたいけど、言えない。俺に彼女を縛ることは出来ない。
成すすべも無く、バッグから取り出された鍵を、受け取った。
「そういえば、紗枝さんって何の仕事してるんですか?」
よく考えてみれば、俺は紗枝さんのことを何も知らない。何でもいいから知りたかった。
「んー、株式会社サンショウの受付嬢よ。それがどうかした?」
「いや、卒業前に、やりたかった職に就けたとは聞いてたけど、ソレが何なのかなーと思って……」
「……正面のエレベーターで三階になります。……みたいな」
営業顔で営業トークをした後、クスクスと笑い出した。
それにつられて笑ってみたものの、苦笑いに終わった。
「ごちそうさま。美味しかったです」
食事を終えた頃には、七時を過ぎていた。
その後も、会話らしい会話もなく、時間だけが無情に過ぎていく。
「そろそろ行くわ」
立ち上がり、大きなバッグを抱えると、玄関へ。
靴を履き、俺の方に向き直った。
「会社に持っていくには大きすぎだけど、仕方ないわね。……どうも、お世話になりました」
そう言って、深々と頭を下げた。
「いや……」
「体、壊さないようにね。じゃ……」
『さよなら……』
辛い過去が蘇る。
あの日と同じように、失望感に支配され、何も言えず、動く事さえ出来なかった。
ゆっくりと閉じる扉を、ただ見つめていた……。
重い足取りでベッドの前まで戻ると、足元から崩れ落ちた。
思い焦がれてもやり場の無い気持ち、失望感が複雑に絡み、布団に顔を埋めると、頭を抱えた。
――こんな気持ち……俺は知らない……。
愛しい……恋しい……、時間が経つごとに、その気持ちは募る。
離れて初めて、その大切さに気付いた。前もそうだった。二度と同じ事は繰り返すまいと、誓ったはずだった。
なのに、現状は……後悔。
食事も取らず、ずっと考えてた。同じ事ばかり、紗枝さんの事ばかり……。
――今の自分に出来る事とは……。
自分の中で何かが吹っ切れたような気がした。
連絡取って、どこかで待ち合わせ……って俺、紗枝さんの携帯番号すら知らない。
――このままじゃ、ダメだ。
時刻は夕刻、六時を指している。
ダメかもしれないけど、このままでいちゃ自分がダメになる。
せめて、俺の思いだけでも……。
居ても立ってもいられず、部屋を飛び出し、紗枝さんの勤める会社へと向かった。
絶対に会えるという保障はないけど、待っていたかった。
心のどこかで、必ず会えると信じていた。
携帯で時間を確認するが、すでに八時を回っている。
もう、帰った後だろうか。それとも、社員は正面玄関を利用しないのか?
明日の朝、七時半に捕まえるのが確かかもしれない。
今日は諦めて帰ろうとした時だった……。
「何やってんの?」
声のした方に顔を向けると、俺が今、一番会いたかった人がそこにいた。
「紗枝……さん……」
自分が何をしたのか分からなかった。でも、腕でしっかりと紗枝さんを抱きしめていた。
「ちょちょちょ……、会社の前で恥ずかしいことをするな! 離れろ!」
無理やり引っ剥がされ、腕を引っ張られた。
「近くに公園があるから、そこで話を聞くから、落ち着きなさい」
姉に腕を引っ張られる弟とは、こんな感じなのだろうか。
公園の空いているベンチに座らされると、飲み物を買ってくるから待っていろと言われた。
冷静になって、先程の自分の行動を思い出し、自分にしては大胆な行動をしてしまった、と少し後悔していた。
紗枝さんが、ジュースを持って戻ってくると、俺の隣に腰掛けた。
「一体、どういう風の吹き回し? いきなり抱きつくか、普通……」
「すみません……」
「ま、いいけど。何で会社の前で待ってたの? 私、忘れ物でもした?」
忘れ物? 言われてみれば、そうかもしれない。
「……俺の心に、貴女の存在が焼き付いて、離れないんです」
「……は?」
そりゃ、急にそんなこと言われても困るだろう。もっとストレートに……
「紗枝さんと、一緒に居たいんです。それを言いに来ました」
「……ごめん」
うふふ……撃沈。
「私、嘘ついてたんだ」
嘘?
「まず、家賃滞納は嘘。ちゃんと払ってるし、今日はアパートに戻るつもりだったんだ。それから、友達全員が同棲中なんて、ありえないし。一部は本当だけど」
俺の方があっさりと騙されていたのか?
「あと……押しかけた日の夜だけど……」
添い寝あっは〜ん?
「ちゃんと覚えてる、っていうか、自分がやったんだけどね」
覚えてる? あれ、酔いの勢いじゃないの? 記憶飛んでたんじゃなかったの?
「襲われるかな……ってちょっと期待していたり」
期待すんなよ。
「それとね……私の片思いの相手だけど……」
聞きたくない。いつまでもそいつばかり見て……追いかけないで、俺だけを見て欲しい。
「真部が一番よく知ってる人……」
紗枝さんは顔を上げ、俺を見つめた。
「二つ年下の、真部寿って人……」
「……え?」
俺が一番よく知っている『真部寿』、それって俺?
「実は、在学中からずっと好きだったんだけど、彼女居たじゃない? 強引に迫って、後味悪くなるのも嫌だったから、黙ってたんだけどね。
最近になって親から、恋人も居ないんだったら、この際見合いでもするかー、って言われて、焦っちゃって……。少々強引だったけど、せめて最後の思い出にって思ってね」
「紗枝さん……」
「はい?」
「喋り方がおとなしくて、気持ち悪いです」
顔はにこりと笑っていたが、目が飛び出そうな程の激痛が、後頭部に炸裂した。
「今のムードを考えて、そういうことは思うだけにして、口に出さないでくれる?」
「いや、信じられなくて……」
殴られた後頭部を撫でながら、後に続ける言葉を捜した。
「えっと……」
「じゃ、付き合ってくれる?」
どう言っていいか悩んでいると、紗枝さんが先にそれを言ってしまった。
「はい」
「それでは、本日付で敬語と敬称はやめていただくが、よろしいかな?」
「急にはちょっと……努力します」
「よろしい。では、これからよろしくお願いします」
「あ、こちらこそ……」
何か、変じゃないか? まあいいか。
たった数日で、人の心はたやすく変わってしまうものだ。
日々、変化する中で、俺たちはどこまで行けるのだろう。